第三章1
ようやくピークを越え秋口に入ったと云えども、未だしつこく残る蒸し暑さ。
夕暮れの陽を背にして足早に乗り込んだ車内、走り出した途端、開けた窓からバタバタと入り込む空気の流れを浴びてやっと一息つく。
(エアコンが車載されるのはまだまだ先か……)
藤林はかつて居た時代が、如何に豊かで恵まれていたのかを痛感する。
そして、秘書官から渡された政府書簡の写しを開き、その内容に満足げに頷いた。
先日閣議決定されたばかりの「國策ノ基準」。
「よし……、よし……っ。これで……っ。これなら……っ」
歴史が変わる。
永田鉄山生存や二・二六事件を未発に抑えるなど、これまで蓄積されたフラグメンツの数々。
それがとうとう一大国家方針として、一つの形に結実したことに他ならない。
もちろん、アメリカとの関係交渉など、どこまでうまく行くかまだまだ未知数ではある。
日中戦争回避に、ノモンハンの対応など問題は山積み。
だが、これまでとは比べ物にならない大きな一歩のはずなのは間違いなかった。
国家という巨大なものを動かした実感に、どうしても浮足立ちそうになる気持ちを抑えられない。
(この勢いでできることはすべてやるっ、やってやるとも!)
軍事外交内政と、いよいよ本格的に動く時が来たのだ。
今や自分の立場も陸軍次官。
史実の永田鉄山がたどり着かなかった、全く新たな歴史の領域。
着実に上がっているはずの権限と影響、勝ち得た『力』を無駄にすることなく、最大限に活用する。
そう心づもりを新たにしたとき、目的地に着いたことを告げる運転手の声がかけられた。
高橋是清邸は主の立場と経歴に相応しい、広大で豪勢な日本家屋であった。
確か総栂普請とかいうものだったかと、昔高校の授業で歴史マニアの教師に習ったような朧げな記憶がよみがえる。
すでに以前、政策綱領の抜本的転換について相談するために、陸軍大臣の林銑十郎を介して面識は持っていた。
その時のやり取りをふと思い出し、反芻する。
(そういえば、まだ『金融緩和』とかいう言葉はなかったみたいだな……)
高橋是清が行った経済対策の話題において、思わず口をついて出てきた単語。
自分としてはそんなにたいそうなことを言ったつもりはなかったから、相手の反応に驚いたのだった。
平成末期に、さかんにマスコミが取り上げて自然と見知った言葉。
この時代に来てから、高橋是清がやっていたことがまさにこれだったのだと理解した程度の認識であった。
それが、あのまるで自分と同等以上の見識を持つものを見つけたような、大時代的風貌の老政治家が見せる興奮と高揚に満ちた態度にぎょっとしたのを思い出す。
「下手なことは言わん方がいいな……」
無能だと思われるのは論外だが、必要以上に優秀だと思われるのも、それもまた問題がありそうだと。
藤林は己の言動にいささか気を付けようと独り言ちた。
「ようきた、ようきた! 折り入って話があると打信されたときには驚いたが」
「閣下にはまことに恐れ入ります。このような不調法をお許しいただき」
「貴君の頼みならば否とは言わんよ。陸軍の麒麟、永田鉄山。まさにこの国を立て直さんとする同志だと思うておるからな」
大仰とも見える態度で両手を広げて迎え入れられた場所は、簡素ながらも洗練され尽くされていることが明らかな和風の居間。
畳の上に敷かれた絨毯に、さらに並べられたソファーとテーブル。
和洋折衷の和モダンとも言うべき調度は瀟洒かつ重厚でさすがと感嘆させられるものであった。
「んで? 今度は如何用かね。予算案については一通りのところはもう確認したつもりであったが」
「はっ、その節にはまことにお世話になりました。……全く関係ないともいえぬご相談がありまして」
対面になるようにそれぞれ腰を降ろし、藤林は一拍置いて切り出していく。
「わが陸軍は石油以外の軍用必需品、特に天然ゴムとボーキサイトの獲得に強い懸念をもっております」
「ああ、なるほど。石油以外の依存物資か」
「さようです。結局のところ軍備を整え戦時体制を叶うには石油以外にも越えるべき条件が多々ありまして。また、これらは軍需用のみならず民生用としても必須なはずです」
「まあな。いまんとこほとんど輸入でしか賄えん、国家戦略物資といってよかろうて。んで? それをどうこうはすぐには無理じゃろ。もしどうにかしようと思ったら、それこそ南方進出して資源地奪取しかないぞ。まさにお主が否定して改革した方針じゃったはずだが……」
途端、高橋の視線が鋭くなった。
さすがにこの時代の政治家。
どれだけ融和的な態度を示して理性的かつ合理的判断を持ったように見せても、軍部が何を言い出すか常に根本では警戒を解いてはいないのだろう。
不快になるよりも、むしろ感心しながら藤林は穏やかな声で返した。
「ご安心を、南方不拡大の心づもりは変わりませんよ。私が閣下にお尋ねしご相談差し上げたかったのは……」
未だ身構えているのを隠そうともしていない高橋是清を、なだめるように言い放った。
「合成ゴムとアルミ抽出技術の検討状況の確認と予算の優先充当についてなのです」
「おおっ、そういうことか」
ぱしんっと膝を叩く大老。
ひとまずは合点がいったという風情でゆっくりと背中をソファーに沈めていく。
「んまあ確かに、我が国でもやっとるはやっとるな。だがまだまだ前途多難といった状況だったと思うがな。実用化はおろか、大量生産などしばらくは難しいというとこじゃろうて。詳しくは所管の商工省に確認したほうがいいと思うが」
「陸軍から正式に依頼しましょう。そして数年後の実用を目指した開発計画を作成し、さらにはそれに準じた予算充当をお願いすることになるかと思います」
「ふん、まあよかろう。無駄は一切ないが、軍事予算圧縮で他に投資する余地は確かにできとる。ゴムと軽銀のためなら、大蔵省としても異論はない。むしろ経済振興のためにも必要じゃろうしな。ただ実用化までにどれだけかかるかはわからんぞ」
「それでも。今や戦略方針の転換で他に獲得の可能性がなくなったも同然ですから。『やれることはなんでもやる』つもりであります」
1936年当時、合成ゴムの研究開発と国内の粘土や鉱石からアルミニウムを抽出精製する試みがこの時点で始まっていた。
尤も合成ゴムの大量生産が可能になったのは史実では1950年以降、アルミ精製については戦後天然アルミが入手可能になったことにより事実上放棄されたのだが。
いくら未来知識を持っているとはいえ、一介の自衛官に過ぎない藤林はさすがにそんなことまでは知る由もない。
ただ、永田鉄山としてこの時代の軍事的課題を解決する一環として対応しようとしているに過ぎない。
単に、日中戦争やその他の軍事行為で消費されるはずだった国力を以て重点研究を行えば、もしかしたら可能性が出てくるのではないかという期待だけだった。
可能性は少ないのかもしれない。
それでもやれることはすべてやる。
どれだけ細く儚い蜘蛛の糸のような微かなものであったとしても。
日本の未来を勝ち取るための断固とした想いだけであった。
そんな藤林の覚悟を知ってか知らずか、高橋是清はふふんっと挑発的な笑みを浮かべると。
「よろしい、後で関係者を紹介してやろう。……今日はそれだけかね?」
「ありがとうございます、もちろん他にもありまして。 対ソ向けの大陸戦を想定した次世代戦闘機と戦車について……」
ようやく涼やかな風が流れ始めた、初秋の夜。
広大な日本家屋の一室での会話は、夜更けすぎまで終わることはなかった。




