第一章:運命の改変者
制服の襟元がやけに重い。
胸に並ぶ勲章の感触が、藤林には異様に感じられた。
いや、違う。
永田鉄山としての“習慣”が、まだ自分の身体に染みついていないのだ。
鏡の中には、自分ではない男がいた。
痩せぎすで、目に力があり、しかしどこか人を寄せ付けない冷たさを漂わせた男――それが、かつての永田鉄山。
そして、今の藤林健。
「……これが、軍務局長の執務室か」
書類の山が築かれた大机。
その脇には、戦況地図と年次計画表。
すべてが昭和十年のそれだった。
紙質、字体、机の材質、空気の湿り気……すべてが歴史書の中でしか見たことのない“リアルな過去”だ。
しかし、今やこの空間こそがかつての陸上自衛隊・第一空挺団所属、藤林健だった自分がいる場所だった。
「閣下、こちらに目を通していただけますか」
戸をノックする音もなく、書記官が入室してきた。
若いが、背筋の伸びた真面目そうな軍人だ。
差し出されたのは、内務省や外務省との調整に関する覚書の草案。
まずい。
俺は永田鉄山じゃない。
彼の思考も、交友関係も、好みも完璧にはわからない。
だが、目の前の部下は、当然のように彼を“永田閣下”として接している。
ここで言い淀めば、不審がられる。
かといって独裁的に振る舞えば、それはそれで危うい。
数秒の沈黙ののち、藤林は書類を手に取り、淡々とした口調で言った。
「……この内容は、外務との意見調整が不十分だ。北支派遣軍の情報が過去のものになっている。修正して、午後までに持ってきたまえ」
「ハッ! 畏まりました!」
書記官は敬礼し、すぐに退出した。
──よし。とりあえず、バレてはいない。
冷や汗をかきながら、藤林は机に両肘をついた。
こんなことが続けられるのか? いずれ、綻びが出るのではないか?
だが同時に、彼の中には明確な覚悟も芽生えていた。
このままでは、日本は滅ぶ。
いや正確には一度滅亡寸前までに追い詰められる凄惨な結末を迎えることになる。
数百万の人命の喪失。
逃れられるのならば、やらずにいる法はあるまい。
歴史を変える。
それは、個人の人生ではなく、国家の運命を変えるということ。
彼が知る歴史では、永田鉄山はこの日をもって命を落とし、陸軍は暴走し始める。
二・二六事件、日中戦争、真珠湾攻撃、原爆……。
幸い、当時の日本の状況、軍事、そしてこの転生した存在に関しての知識はある。
それも教科書的なものだけでなく、自衛隊員という立場ゆえの専門的かつ実用性もあるだろう高水準といっていいほどの。
陸軍軍務局長、永田鉄山。
かつてこの国の軍事要職者として多大な影響を持っていた男。
「陸軍に永田あり」、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」など、その際立った才覚は後世まで轟いている。
藤村の知識では、彼は陸軍の組織的改革を目指す統制派の旗手であり、対中戦争に対しては否定的、ソ連を想定した総力戦構想の持ち主であった。
明確な戦争目的の無い軍事行動を忌み、軍事も含めた国家内政の充実による国力を来るべき大戦へ向けて蓄えるという戦略思想だったはずである。
つまりは彼さえいれば、あの泥沼の日中戦争の開戦、枢軸国への参加、あのような形での対米戦争を避けられた可能性があるのだ。
そしてまさに今自分がその当人になった。
敗戦国家へと突き進む日本の運命を止める。
それには、藤林が“永田鉄山”として生き延び、力を握り、影響を与えねばならない。
正史では彼が暗殺されると、その後実行派閥の皇道派はクーデターの失敗で失脚、結局統制派が軍を掌握することになる。
そして永田の後を継いだ『あの男』によって、日中戦争が開始されてしまう。
ならば。
やることはおのずと決まっている。
ますは軍務局長の立場を活かし、統制派の掌握を強める。そして、皇道派の影響力を削ぎ落とす。
そして軍政界で確固たる地盤を固めて国家方針のかじ取りをすればいい。
それは武器を持たずに行う戦争だ。
政争、情報戦、心理戦──まさに、自衛官としての訓練とは真逆の世界。
「……これも、祖国を守るための“任務”だな」
口の中で小さく呟き、藤林は立ち上がった。
まずは、情報を集めねばならない。
歴史を改変するには、「何が、いつ、どこで、誰によって起きるのか」を正確に知っていなければならない。
そして何より――
味方と敵を、見極めなければならない。
そのとき、執務室の戸がノックされた。
入室してきたのは、見覚えのある軍服を着た男。
目つきが鋭く、腹の底まで読まれているようなピリッとした空気を纏っている。
一目見て、既視感に襲われた。
といって親しい間柄の知り合いという感覚ではない。
古くから伝わる誰もが知っているおとぎ話の存在を目の当たりにしたような。
大抵の日本人なら一度は必ず見たことがあるだろう、あの肖像。
それを一回りほど若くした顔貌そのもの。
「永田閣下、お時間をいただきたく」
「君は……」
喘ぐようにいうと、一瞬虚を突かれたような不審げな顔をする。
どこか神経質そうな顔に引き攣るような表情が浮かんだ。
だが、生真面目そうに自らを名乗る。
「御冗談のおつもりですか? 久留米からご挨拶に参った、東條であります」
まさかと思いつつ、想起していたその名を聞いた瞬間、全身を一筋の閃光が貫いた。
まさに運命との対峙が、早速訪れたことに他ならなかった。
思わず心の内でつぶやいた。
ここからが本番だ。