第二章7
昭和十一年、うだるような残暑に大気が揺らめく晩夏の霞が関。
内閣総理大臣官邸閣議室に響いた岡田啓介の声は、抑えられぬ期待に満ちながらも未だ信じられないような、いぶかしさが混ざったものだった。
「本当に陸軍、海軍はこれでよろしいのだな?」
視線の先には大きな楕円状の卓を囲うように座る面々の内、ほぼ対面に居る二人の閣僚。
陸相の林銑十郎と、海相の斎藤実の姿。
「こちらとしてはもちろん、大蔵省と外務省ももろ手で歓迎せざるを得ない内容だな。むしろ話がうますぎて、本当なのかとどうしても不安なのだが?」
斎藤が困ったように笑う。
「お気持ちは重々お察しいたしますよ。私も未だに我ながら半信半疑ですからな。まさか自分がこんな提案を持ち出すなど」
「南方進出に、反英米が既定路線だった海軍がこうも妥協するとは。不拡大守勢方針を認めるとは信じられん」
「例の巨大戦艦の承認と引き換えという鼻薬がずいぶんと効いたようで」
自嘲的に笑う斎藤の言葉に反応したのは岡田ではなく、大蔵大臣の高橋是清であった。
「この内容が叶うならば、あの程度で贖えるなら安い買い物ですな。それに陸軍側の北支安定、対中情勢現状堅持、対ソ注力の軍備増強に集中というのも実にいい。理に適っとる。さらには英米融和を図り、満州へ米国資本を呼びこむ――どこまでうまくいくかはともかく、国家の金庫番としては、もはや非の打ちどころがない。……もっとも外交屋にとっては悲喜こもごもといった感じかね?」
「英米と共に、ドイツイタリアとも関係維持とし、欧州情勢とは局外中立を旨とする。外務省としても、否やは言えませんな。全方位外交など、確かに現場は苦労するでしょうが。国家としてどちらがいいかなど一目瞭然。ただ特にアメリカとの交渉が前途多難というのは言うに及ばず。あとはドイツに友好を示しつつ、ユダヤ人の保護受け入れをするなどは多少泣かされそうです。どうしてもあちらの感情を刺激せざるを得ないでしょうし、現状ままの貿易通商や軍民交流が可能かは、まあやってみないことには。外交屋の腕のみせどころですがね」
「さようさよう、その通り。国家一大の計だと思って、邁進せい。なんせあの陸軍がこうまで譲歩……というか、ありえんような方針転換を提示してきたのだからな。我らに拒否はできんよ。資源問題、経済活動、実利的外交に、長期的軍事政戦略。まさに国家運営として完璧な解としかいいようがない。特に最も素晴らしいのがこの……」
外務大臣・広田弘毅に話を振りながら、また語りだす高橋。
どこか熱に浮かされたような静かな興奮がそこにはあった。
「国家備蓄を元に取りうる軍事行動を選択するという一事っ」
ばんと片手で卓を叩く音があたりに響いた。
「まさに、まさにこれこそ近代国家のあるべき姿であろうて。聞けば軍事においては、国家全体の国力をすべて用いる総力戦などという概念があるらしいが。ならば逆説的に今現在の国力を元にして可能な行動を決定するのは道理。いやはや、これならば国家の成長を止めることなく、経済振興と社会保障を損なわずに軍備もまた安定して投資可能になる。私も最初に聞いた時には目から鱗であったわ」
「高橋さんにそこまで言っていていただけると、うちのモンも喜びますよ」
林銑十郎が飄々と応えた。
「さんざんっぱら、お時間頂戴して、その節にはお世話になりましたな」
「なあに、こちらにとっても有意義であったわ。……林さん、アンタの後は彼だと思っていいのかね?」
「ははっ、よっぽどお気に召されたようで」
「ありゃ、管蕭の類ぞ。経済振興策の話になったとき、『金融緩和と引き締め』などと、ワシ自身上手い言葉にならなかったもんをぴしゃりと表現しおった。ああまで金の事がわかるヤツが陸軍にこれまでおったか? 軍人にしとくのがもったいない……が、だからこそ今の軍部には必要じゃろうてな」
「アレはそれほどですか?」
「陸軍次官程度には収まらんだろ。正直、いずれは……いや、それくらいの器かもしれん」
「一応、我らの第二席なんですがな」
くしゃっと顔を崩して、しかつめらしい顔をして林は唸った。
しかし、決して不愉快そうではなかった。
そしていったん途切れたところを見計らったように、岡田の声が一同を制する。
「話は終わったかね? それでは皆々、問題ないと理解する。……では」
一拍の時間をおいて、内閣総理大臣の決裁は為された。
「この内容をもって、帝国国防方針とし、閣議決定とする」
この年、ドイツから打診されていた相互協定に関して、日本は締結しないこととなった。
昭和十一年八月二十九日
総理、陸海軍、大蔵、外務五大臣花押
【國策ノ基準】
一、国家経綸の基本は大義名分に即して内、国礎を強固にし外、国運の発展を遂げ、帝国が名実ともに東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し、世界人類の安寧福祉に貢献して茲に肇国の理想を顕現するにあり。帝国内外の情勢に鑑み、当に帝国として確立すべき根本国策は、外交、国防相俟って東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに来るべき王覇大戦に於いて必勝を期する為、国力充実と万世一系の大威徳に撚り八紘一宇五族共和を旨と為し、その基準大綱は下記に拠る。
(一)東亜における王道の威光をもって五族融和を計り、真個共存共栄主義により互いに慶福を分かちたいとするは、即ち皇道精神の具現にして、我が対外発展政策上常に一貫させるべき指導精神なり。
(二)国家の安泰を期し、その発展を擁護し、もって名実ともに東亜の安定勢力たるべき帝国の地位を確保するに要する国防軍備を充実す。
(三)満洲国の健全なる発達と日満国防の安固を期し、北方蘇国の脅威を除去するとともに、内外資本の投下を誘導せしめ経済的膺益を図るを以て、大陸に対する政策の基調とす。特に、これの遂行に当たっては列国との友好関係に留意す。
(四)南方海洋、殊に外南洋方面に対し徒に列国の疑を招くことなきを期し、経済商流により我が国権益の獲得を図り、もって満洲国の完成と相俟って国力の充実強化を期す。
二、右の根本国策を枢軸として内外各般の政策を統一調整し、現下の情勢に照応する庶政一新を期す。要綱は左の如し。
(一)国防軍備の整備は
(イ)陸軍軍備は蘇国の極東に使用しうる兵力に対抗するを目的とし、特にその在極東兵力に対し開戦当初一撃を加えうるよう在満鮮兵力を充実す。
(ロ)海軍軍備は日満支にわたる我が国領海の防衛と安定を為さしむべく、制海権を確保するに足る兵力を整備充実す。
(ハ)国家総体による長期戦時体制の構築に努め、必勝の体制にて軍行動に臨む。
(ニ)我が外交方策は、一に根本国策の円満なる遂行を本義としてこれを総合刷新し、軍部は外交機関の活動を有利かつ円満に進捗せしむるため、主たる外務の従として内面的援助に努め、表面的工作を避く。
三、政治行政機構の刷新改善および財政経済政策の確立、その他各般の施設運営をして右の根本国策に適応せしむるため、下記事項に関しては適切な措置を講じる。
(イ)国内世論を指導統一し、非常時局打開に関する国民の覚悟を強固ならしむ。
(ロ)国策の遂行上必要なる産業並びに重要なる貿易の振興を期するため、行政機構並びに経済組織に適切なる改善を加える。
(ハ)国民生活の安定、国民体力の増強、国民思想の健全化につき、適切なる措置を講じる。
(ニ)航空並びに海運事業躍進のため、適切なる方策を講じる。
(ホ)国防および産業に要する重要なる資源並びに原料に対する自給自足方策の確立を促進す。
(ヘ)外交機関の刷新とともに情報宣伝組織を整備し、外交機能並びに対外文化発揚を活発にす。
昭和十一年八月二十九日 閣議決定 外交方針と共に九月三日総理より内裏
※参考文献、大日本帝国政府.(1936).國策ノ基準