第二章6
「……以上が今後の陸軍、ひいては国家全体の方針となると、そう心得ておいてくれたまえ」
がらんと密度の薄い空間に、永田……藤林の声だけが響いていた。
陸軍省の会議室、広大なその場所に今は二名だけ。
相手は武藤章。
事実上、永田の側近で、直属の部下でもある男。
派閥としての配下でもあり、永田派の主要人物の一人であった。
「組織改編と、新規部門立案については了解いたしました。あとは参謀本部と陸軍省で重複していた機能の分化明瞭化ですな。軍令と軍政と、それぞれに特化すべしと」
「さよう、やるならいましかない。恐れ多くも、陛下のご意向もそちらにあると御英慮をお示しくだされた。先の一件で皇道派の弱体化がなったいま、一気呵成にやるべきである。……できれば参謀本部を陸軍省の下に置いて、命令系統の一本化までやりたかったのだが」
「さすがに難しいでしょうな。統帥権という壁はそうそう容易く破れますまい。せめて予算と軍政に口を出されぬようにすることだけでも徹底できれば陸軍全体の効率は格段に違います」
「うむ、あとは人事権を行使して、可能な限り参謀本部側でこちらの影響下の人材を上位に据えて徐々に進めるしかあるまいな」
「石原さんを抱き込めたようで。ならばあの方を中心とした組織へ参謀本部を誘導すると。ゆくゆくは向こうの参謀長とでも考えてらっしゃる?」
「彼なら関東軍への影響力も期待できるだろう。梅津閣下も上手く手綱を引いてくださるはず」
「現地軍への統制は、未だ個人的資質に依存するところ大なりですな」
「本来的な組織運営とは程遠い状況だが。現実的に効果がある方法をとるしかあるまい」
「東條さんに任せた情報局とやらは、そちらに資するところはないのですか?」
「無論、あれも使ってはいる。……が、今は主に国内向けの情報操作、国民意識の調整と大衆制御に集中させたいからな」
打てば響くような応答に、藤林は内心舌を巻く。
武藤という男の最初の印象はさほどのものではなかった。
組織運営や、構築に適性があるものの、戦局全体や長期的な軍政略を見通すほどの視野と感性は期待できない、東條とは別種の能吏的人材という程度のものだった。
実際、その知見はお粗末としか言いようがなく、中国侵攻や南方への拡大路線の危うさというものを碌に理解していなかったのだから。
ただ、皇道派対策で使ってみると途端に別の方面での才があることはすぐにわかった。
実に素早く、的確に、組織運営に乗り出して効果を上げていくのを目の当たりにしたのだ。
だから改めて永田鉄山が何故この男を重用していたかを理解するとともに、藤林もまたその適性に合った使い方を始めていた。
軍務局という、軍政を担う官僚機構を任せるのはまさにこの男が最適であろうと。
「ではよろしくたのむ、軍務局長殿」
と、派閥のトップらしい鷹揚な笑みで言った。
「はっ、心得てございます、陸軍次官閣下!」
馴れ馴れしいほどの親しみを込めて、武藤は返した。
藤林は重々しく頷くと、おもむろに脇から資料を取って差し出した。
「それと最後にこれを」
「一体、何を……。 『陸軍航空隊空挺団の設立について』?」
1936年夏、永田鉄山、陸軍中将に昇進。
同時に陸軍次官の辞令が下り、軍務局長の後任には武藤章が就くことになった。