第二章5
東條英機の手は止まることがなかった。
雪山の如く積もり上がった、机の上の書類の束。
軍務局を中心とする各部局から上がってくる日報や伺い書に承認要求、膨大な申し状の数々。
それら一つ一つに目を通し、朱筆を入れ、処理をしていく。
電話の受話器が立て続けに持ち上がり、扉が開くたびに部下が短く報告を投げ入れてくる。
指示を出し、優先順位を入れ替え、人事の調整に介入し、時には偽報すら使って組織の安定化に努める。
もはや無言で一瞥を返すだけで済むようになった部下の動きに、東條は満足感に包まれた。
この忙しさは実に己の性に合っていると感じる。
そうでなければ、陸軍省というこの巨大な官僚機構の中枢で、永田鉄山の片腕として職務をこなすなど到底不可能だったであろう。
止むことないあわただしい喧噪が、突如切り取られたかのように消え失せた。
ふと訪れた空白に、手元の書類から視線を外し、窓の外へと意識を向ける。
春の陽が適度な湿り気にけぶる、鈍い光を跳ね返していた。
(――こうもやりがいのある仕事を宛がってくださるとは。やはり己が付いていくべきは永田閣下で間違いなかった)
その思いは、感謝という言葉では足りなかった。
抜擢に報いるには、結果を出すほかない。
軍務の合理化、現場との連携、内部統制、綱紀粛正、そして情報操作。
やるべきことは膨大にして密、精密機械の歯車のように組織を束ね回し続ける。
それこそが己に課された責務に他ならない。
そこへ、足早に入室してきた一人の将校。
すっかり顔なじみになっている憲兵監部思想係の男だった。
「失礼します。ご指示いただいておりました件、相沢三郎中佐の処分が正式に決定しました」
東條の眼が鋭く細まる。
「内容は?」
「……懲役7年です。量刑判断としては、最も軽いものですな」
聞いた刹那、時間が止まったような気がした。
視線が虚空へと彷徨う。
相沢三郎――軍務局長である永田鉄山に対し白昼堂々、軍刀で斬りかかった皇道派将校。
民間には表ざたにはされていないが、その凶行が政軍界に与えた衝撃は大きかった。
永田はそれでも、彼を「殺すな」と命じていた。
表向きには中庸の裁定、しかし実質的には「報復ではなく、管理の論理」で処理せよという意思だった。
皇道派をいたずらに刺激しないという実利と、綱紀粛正・内部統制の正当性を強調するための方便。
(閣下は甘い……)
軍規において上官暴行は最も重い罪の一つであり、それが傷害致死ならば、即日銃殺でも足りぬほどだ。
未遂とはいえ、本来ならば無期懲役か死刑が妥当なところ。
己の尊崇する上司の曖昧な対応に、規律主義者たる東條は割り切れないものを感じる。
だが同時に――。
(だが……これこそが永田鉄山という人間の大きさでもあろう)
思想で人を裁かず、私利で軍を抑えず、あくまで組織の“構造”として収めきろうとする。
それがこの稀代の構想者の流儀であり、器だった。
東條は理解しているつもりだったが、いざ実際に目の当たりにすると、なお重みを覚える。
あの戦略眼。
陸軍の範疇に留まらず、海軍や外交も含めた国家と世界情勢全体を見通す視野の広さと長さにはひたすら畏怖するばかり。
従来、中国と南方進出論にさほど疑問を持っていなかった自分の瞑を、今となっては恥じるばかりである。
『対ソの脅威を第一に据え、大陸情勢と資源の安定化を成し、対米関係の維持安定と石油備蓄の増大、ひいては数年の総力戦に足る国力充実を目論む』。
自分も含め、武藤章ら、永田を私淑する面々を集め、教え諭すように述べる言葉。
思い返すたびにその合理と遠大な先見性に心から感服せざるをえない。
もう永田派で、その方針に疑問を持つ者など皆無であろう。
国家の舵取りをなしうる存在というものはまさにああいうことをいうのだと。
自分とのあまりの器量の違いに、むしろ歓喜がわいてくるようであった。
そう、崇拝にも似た感情を心のうちに巡らせていたのが、憚るかのように遠慮がちな響きの声に遮られる。
「……引き続きの監視は如何いたしますかね?」
憲兵監部の将校が口にした言葉。
事件以降、一瞬たりとも途切れることなく続いていた処置。
東條はわずかに考え、それから首を横に振った。
「不要だ。すでに裁きは下った。これ以上、くどく追う必要はない」
すでに皇道派が何か大規模な行動をする余地などなくなっている。
事件後、速やかに進められた組織統制・綱紀粛正と、旗頭たる真崎の処分で決定的になった。
(もうあの男は何もできまい)
もはやあれはただの犯罪人でしかないのだ。
「はっ、了解しました」
こちらへ向かってなされる敬礼を当然のように受け、頷くと、将校は去っていく。
再び扉が閉まり、静寂が戻った。
東條は机上の書類に目を戻し、手にしたペンを素早く、それでいて丁寧に走らせる。
筆先は揺らがず、迷いもない。
陸軍省、統制情報局局長、東條英機。
彼にとってそれが……忠義であり、存在理由だった。