第二章4
「それでも大きな博打なのは違いないのですが。『仮に』山本さんが先ほどのような戦術を考えていたとしても、そう認識されてるはず」
「もし、仮に、どうしてもやらずにおられん状況になったらという仮定の話ですよ。確かに似たようなことを考えていたのは否定しません。……それにしても永田さんは海戦についてもずいぶんお詳しいようですな。いささか驚きましたよ」
「そうでもありません、単に私はとても有能な方の考えをまねただけです」
「ほう、陸軍にそんな方がいらっしゃるとは」
貴方のことですよ。
とは言わなかった。
「さて、海軍主戦論諸派を説得するのが難しいということでしたが」
またいきなり本筋へと軌道を修正した。
この振り回すような話題の転換こそ、藤林の狙いであった。
「最終的に米国にその奇襲戦法をするという前提での、抑制的守勢ということならばどうでしょう?」
「どういうことですかな?」
「つまり、博打的な作戦ではなく、長期的持久戦が米国と可能な算段が付いたうえで、宣戦布告と開戦、先ほどの奇襲戦法による先制的かつ決定的打撃を与える。それならば実に合理的かつまっとうな軍事行動に他なりません」
「いや、それが不可能だと……」
「例えば」
ぴしゃりと。
今度は藤林が山本の機先を制するように言葉をかぶせた。
「陸海を総合した国家全体の戦争方針を、すべて石油など国家資源の備蓄量、一定年数の総力戦を可能とするか否かを持って決定することを考えております」
「っ! つまりそれは」
「さよう、あくまでも戦争遂行可能な国力の有無をもって軍事行動の規範となす。資源備蓄が無ければあらゆる侵攻と戦線の拡大をせず、専守防衛を基本原則とする。だが、一度目標たる量の国家備蓄、例えば石油、あるいは食糧などが満たされた場合には明確な戦争目的の元、攻勢的軍事行動を是とする」
「なるほど、なるほど……。それならば少なくとも無謀な戦線拡大や国力を顧みぬ占領政策をしなくてすむと。しかしそれをもって現在の主戦論派を抑えられるとはとても思えませんが。非常に魅力的かつ有効な方針だとは思いますが」
「例え一時的とはいえ時間を稼ぐことならばできるのでは? 絶対にやらぬではなく、可能になり次第実施するならばよほど希望があるようには見えるはず。何より説得するならば段違いにやりやすいのは明らか。何せ消極論ではなく、必ず勝つためという名目と、相手は防備も手薄な植民地域ではなく、あの世界に冠するアメリカ合衆国です。そこを相手どって画期的な先制奇襲を行い、さらには数年にわたる大戦争を行いうるとなれば鼻息の荒い自称武人たちも納得する余地はできるのではないでしょうか」
「ふーむ……」
「それだけではまだ足らないでしょうか。ならばもう一つ。先ほどの戦艦ですが、予算削減のあおりで実施に難航しているようですな」
「ええ、いの一番に海軍側予算の削減対象としてあげられてますよ。その辺は永田さんの方がお詳しいでしょうが」
「例えば数年間の守勢体制と引き換えならば、予定通り建造計画を許可するとなればどうです?」
「ほう!」
「あのようなモノを欲しがる、大艦巨砲主義者の方々ならば非常に納得しやすい理由のはず。高橋是清閣下の予算削減要求で計画自体が危ぶまれている今、むしろ渡りに船と飛びついてくれるのでは?」
「……」
そして静寂。
山本は言葉を反芻するように、沈思黙考へと移る。
窓の外では、気の早い桜が一つ二つと色を添えていた。
ゆるりと枝葉が風に舞う様。
そうして数分。
「……貴方は最初からそこまで考えて?」
ひどく静かな調子で、山本は聞く。
その瞳にはこちらの腹をなお見透かそうとする理知的な光が瞬いていた。
「買いかぶりですよ。石油備蓄を基準とした戦時体制の検討はともかく、戦艦についてはなんら関知しておりませんでした。むしろ……」
ぼそりと、山本に聞こえぬ声でつぶやく。
(まさかこのような形で、『あの船』が存在しないことになる可能性がでてくるとは)
歴史の皮肉と因果の玄妙さにうすら寒いものすら感じていた。
そして。
「わかりました」
一転して明るく晴れ晴れとした顔を山本は上げた。
それはこの部屋にはいって初めて見せるものだった。
「私の力の及ぶ限り、やってみましょう。斎藤閣下にまずはご説明し、その後海軍上層部へと調整してみます」
藤林はその言葉に、やっと安心したように破顔した。
無言で腰を上げ、山本の手をとると、がしっと固く握りしめたのだった。
扉が静かに閉じる音で、部屋に残った余韻が薄らいでいく。
山本五十六の背中が見えなくなって数拍後、藤林はソファーの背もたれに身を預け、深く長い溜息を漏らした。
「……っ、はぁぁぁ……」
乾いた声が、陸軍大臣官邸の応接室にぽつんと落ちた。
否応なく圧されてしまう存在感、傑物たる人間力の塊が無くなったことで、全身から緊張が抜けていく。
固く強張るように握っていた拳がようやく緩んだ。
ジトっと汗で濡れた手のひらに空気の流れをひんやりと感じる。
しんと静まり返った空間に、聞こえるのは微かな己の息遣いだけ。
窓の外では春の先触れたる樹々の芽吹きが、光と影の中でゆるやかに舞っていた。
(とりあえずはうまくいった……か)
あの山本五十六を説得できた――いや、どこまで納得してくれたのかはわからない。
だが彼の目は、確かに変わっていた。
懐疑から関心へ、警戒から静かな共感へと。
海軍内の調整に本気で動く覚悟を固めてくれたのだと信じたい。
南方不拡大。
その方針を戦略の根幹に据えるために、今現在取りうる最も効果的なアプローチだったはず。
あとはどれだけ成果が出るかは今後の行方を見守るしかあるまい。
まずこの件でできることはここまでであろう。
「それにしても……、果たしてあれでよかったのか」
戦艦大和。
これについては未だにどうすべきなのか決めかねていた。
ひょんなことから、存在そのものを左右しかねない状況なのだと気が付きはしたのだが。
今回の話の流れで、海軍内を調略する一つの方便として建造計画の存続に道筋をつけてしまった。
だが果たしてそれが良かったのか悪かったのかはわからない。
ただの軍事兵器とはとてもいえない、日本戦史に特別な響きを持って残る、ある意味日本の象徴たる存在の有無が、これからの未来にどう左右するのかは全く未知である。
存在するがゆえにこそ、あの史実通りの悲惨がまた巻き起こされるとも限らないし。
無くなったことでまた別の不幸を呼び起して、さらなる人命の損失を招くとも限らない。
未来知識をどれだけ持っていようとも、もはや漂流する難破船の如く、因果定かならぬ場所に来てしまったことを痛感する。
平成令和から来た藤林をもってしても、迎えつつある限界に違いなかった。
「それに……、やはり『大和』というのは俺にとっても……」
特別なモノらしい。
そう自嘲気味に一人ごちるつぶやきは、熱い激論の余韻が残る湿った空気に溶けて消えていった。