第二章3
「単刀直入にいきましょうか」
陸海両相が出ていき、重厚な扉が閉められたあと、唐突に訪れた沈黙を破るかのように山本が口火を切った。
「正直なところ個人的な想いとしては、永田さんのいう資源を得るために今の資源供給元と関係を悪化させるというのが不合理だというのは全く同感ではあります。まさに石油を求めて石油を失うことに他ならない」
藤林の知る、史実通りであった。
山本は戦前から大の米国通であり、また石油資源を当該国に依存している状況で敵対することの非を説いていた。
だからこそ1936年時点、未だ決定的に日米関係が破綻していない状態なら、山本を通じての海軍へのアプローチは有効のはずだったのだ。
「なにせ現時点でアメリカに8割以上の石油を依存している状態、自分の生命線を自ら放棄して別の活路を見出すなどただの博打でしかない」
語る言葉を聞き、改めて確信する。
この石原とはまた違う、先進性と合理精神の塊、希代の軍人を押さえれば、未来は必ず切り開けると。
「そうですか、ありがとうございます。山本さんが以前から資源に関する戦略方針について、自分と共通するところをお持ちだとは思っておりました。ならば是非……」
海軍側の説得にご協力いただき、南方進出論を抑えていただきたい。
そう口にしようとした瞬間。
「それでも無理でしょうな」
瞬時に間合いを詰められるような、鋭い語調であった。
こちらの出鼻をくじくよう、計算され尽くした切り口。
手ごわい。
ジワリと汗が背中に滲み出る。
「私と斎藤閣下、その他の対米慎重論者、ひいては南方進出懐疑派以外には全くそんな理屈は通用しません。何せ日本海軍という、世界有数の巨大戦力をそのまま維持、保有しているのだから。むしろこれを行使して自国利益のために働きたい、名誉と実利を共に得たいと思うのは軍人として当然でしょうな。つまり……」
立て板に水の如く、続く言葉の流れに、ごくりと喉を鳴らすことしかできなかった。
「我ら慎重派には、積極派を説得する材料がないのですよ。斎藤閣下がいくら穏健で知米派だからといって、もはやそんなことは圧倒的多数派である南方進出論者、積極派を抑えるに何の資することなどないのです」
有無を言わさぬ勢いと論理。
思わず納得しそうになるのを藤林は何とか抑える。
これこそが山本五十六。
言うことの理非、内容の正しさ、論理の明確さ、すべてが卓越しているとしか言いようがなかった。
「それでなくとも、高橋是清閣下の予算削減方針が伝え聞こえてきたばかり。ならばと反抗するように勢いが出るのも当然でしょうな」
史実では実行されなかった軍事費削減。
本来、殺されていた高橋是清が生き延びたことで、ありえないはずなのに起こってしまったことの一つであった。
少なからず陸軍内でもこの影響は出始めているのを感じてはいる。
ただ、皇道派の対策と組織改革を目的にした強力な内部統制、情報操作を始めていたことが功を奏し、まだ大きなことにはなってはいなかったのだが。
「以上、こんなところでしょうか」
言うべきことは言ったし、相手の反論もまず難しいだろうと確信しているかのように、話はこれで終わりという風情の山本。
恐らく常識的に考えればその感覚は間違っておらず、この時代の誰もこれ以上の議論の深化などありえなかったのは間違いない。
しかし。
「……前代未聞の巨大戦艦を計画されているとか」
突如話題を切り替えるように藤林は言った。
「あ、ああ。ええ、そう、条約が関係なくなった以上、当然の軍備策定ですので」
もはや主題に関して完全に論破した……と思っていたところに肩透かしを受けて面食らった風に言う。
気息が抜けて、山本本来の穏やかな物言いに戻った。
「それにしても予算案に提案された二隻、大きさ出力はいうに及ばず、直径46cmに全長20.7メートルの三連砲塔などずいぶんと思い切ったものです。……、そうまさに世界最大の戦艦に間違いありませんな」
「そう言っていただけると。しかしまだまだ他国でどんなものが開発されるかはわかりませんし、いくら空母戦が主体になりつつあるといっても今後さらなる巨大巨砲のものが出てこないともかぎりませんよ」
山本五十六は本音ではすでに艦隊戦、大艦巨砲主義に見切りをつけて空母・航空機戦へと傾倒しているはずだった。
しかし一応、海軍の総意としての体裁でこんなもの意味がありませんとはとても言えないのだろう。
こちらの戯言に付き合うように、何の意味もない空想をやり合う。
「……いや」
藤林は静かに、しかしはっきりと断言した。
「これが過去未来含めて、まさに空前絶後の巨大戦艦に違いありません」
あまりにも確信したかのような態度と物言い。
山本が息をのむのがわかった。
初めて。
初めて山本五十六という天才が、永田……藤林を計り知れないもののように見る。
「……断言しますね。今後の海戦の変化で不要になるという予測に基づいたものですか?」
「いえ、ただの想像です。もちろん空母と航空機主体になるのは間違いありませんが。使いどころさえ間違わなければ、依然、巨砲を載した戦艦は戦術戦略ともに価値はあるでしょう。……が」
不審げな山本を前に改めて言う。
「これが最後の、そして最大の戦艦なのは確実なんです」
「い、一体何をおっしゃっているのか」
理解できないものを見るような眼をする山本。
そして藤林はようやく、また本題に戻る。
「仮にこの巨大戦艦、一号艦と二号艦が完成したとして、それで米国に勝てますかな?」
「……それはなんとも。やってみないことには」
含みのある言い分である。
あたかもできるとは断言しないが、できないとも言わないという風情。
「仮に石油が禁輸されても短期決戦なら可能だと、貴方も思われてるのでは?」
「まるでギャンブルですな。そんな乗るか反るかのような軍事行動は最も慎むべきもの」
「確かに博打ではある。ただ成功した時のメリットはあまりに魅力的です。初戦の大勝で敵戦意を決定的にくじくことができれば、早期終戦も可能でしょう」
「まるで私がそう考えてるとでも仰るようなものいいですな」
「違うのですか? だからこそ本腰を入れて積極派を抑える気持ちにもなれないのでは? 山本さんなら、恐らくそれくらいの机上研究は行われていると私は考えております。例えば……一方的な宣戦布告と敵国要衝に対する戦力集中一気呵成の奇襲戦法」
「……」
「そうですな……、いざ日米関係が緊迫化すれば米国艦隊主力の拠点となる可能性が高そうですし。やるならばハワイあたりはどうでしょう?」
「っ!」
「真珠湾とか」
「うむぅっ」
じわりと。
いつの間にか浮き上がるように滲み出ていた、山本の脂汗。
無数の玉だったいくつかが結合し、一筋になって垂れ落ちていく。
そう、もうこの時点で、部分的勝利については確信しているはずだった。
この希代の天才海戦軍略家。
山本五十六の代名詞。
真珠湾攻撃。
基本的には対米戦には反対だが、もし仮にどうしてもやらずにいられなければどうするか。
才能に溢れた軍人ならばもはや本能であろう。
否応なく。考え、導き、答えを出してしまう。
最適で効果的な戦術を。
そして一度思いついてしまえば、どうしても行使してみたい、現実に実行したいという誘惑はとても強く、甘美なものに違いない。
例えそれが局所的勝利だとしても。
戦略全体としてはあくまでも限定的な成果にすぎないのだとどれだけわかっていても。
あの石原も全く同じだったのかもしれない。
タイプも思考も思想も全く異なる二人の天才軍人に、そこだけは同じものを見るような思いであった。