第二章2
陸軍大臣官邸。
その一室の扉が職員によって開けられ、入ってきた二つの影に対して礼をとるように、陸軍大臣・林銑十郎と永田鉄山……藤林は立ち上がる。
先に来るのは海軍大臣、斎藤実。
本来ならば226事件で殺されていたはずの、海軍きっての穏健派。
人柄を思わせる柔和な空気を纏い、まずは視線を林に、ついで永田へと向ける。
そして。
その後に続くように歩みを進める人影。
小柄ながらも無駄のない引き締まった骨柄。
その立ち姿は、まるで凪いだ穏やかな大洋を思わせたが、一度荒れ狂えば何もかもを薙ぎ払ってしまうような底知れない気迫を宿していた。
年齢はまだ壮年といったところだろうか、額には思慮深さを物語るかのような皺が刻まれ、知性を感じさせる眼差しに、あらゆる事象を見通すかのような鋭さを秘めている。
海相である斎藤に寄り添うように部屋の中央に並ぶ。
きらりと瞳に宿る澄んだ光が瞬いた。
ああ、何度その肖像を見たことだろうか。
どれだけその逸話をそらんじるほど聞いてきたことだろうか。
藤林にとって、いや、戦後日本人すべてにとって特別な響きを持つその名。
……山本五十六。
藤林はぶるっと思わず身震いした。
それは歴史そのものと対峙している感覚に他ならなかった。
「林さん、先に打診された帝国国防方針の草案にはおどろきましたよ」
形式通りの挨拶が終わり、各々応接テーブルをはさむように対峙した形で、海相の斎藤が口火を切った。
「まさか大陸における原則的不可侵と権益の部分的放棄、アメリカとの協調を打ち出してくるとは」
「ははっ! すべてはここにいる永田の手によるものですわ。ワシはそれを追認することしかしておりません。もういい加減頭も錆びてきた古道具、下の者が優秀でさほどやることはありませんな」
そういってこちらを身振りで示す林。
自然と一同の視線が自分にあつまるのを藤林は認識した。
「斎藤閣下にはお久しぶりにお目通りいたします、軍務局長の永田でございます」
もちろん藤林は初対面であるが、永田としては数度顔合わせをしていた。
「ああ、永らくご無沙汰だったものだ。前の軍事委員会以来かね? そうそう、あの反乱騒ぎの際には私も粛清対象だったとか。それを防いだ功労者ならば、キミは命の恩人のようなものだな」
すでにあの報告書の内容は軍上層部ならば、陸海問わず共有されていた。
特に海相である斎藤は天覧の直後にはもう知っていたに違いない。
だからかもしれないが、斎藤の永田に対する態度には、陸軍きっての現実的知性派軍人として以外の前向きな評価があるような気がした。
決してこちらを拒絶してはいない雰囲気に安心する。
「いえ、国家の大事であれば当然の事。斎藤閣下のような人材を失うなど大きすぎるほどの損失でありますから」
「ふふ、そうまで言われるとさすがに追従がすぎると思うが。キミの言い分は不思議と切実に聞こえるから面白い」
226事件の顛末とその後の日本の運命を知悉している藤林にとって、おべんちゃらなどではない純粋な本音であった。
「……さて。では本題に入りますかな」
その場に滲みつつあった弛緩した空気を改めるように斎藤が切り出した。
「先に言った、大陸の侵攻不拡大と北支安定方針、満蒙の権益に関する部分的放棄と米国資本の受け入れについては、海軍としては特に問題はありませんな。一番拘っておられた陸軍側がそう打ち出すならば、そうですかというのがせいぜいのところ。ただ……」
林を一瞥したあと、はっきり永田……藤林の目を直視して言う。
もはや誰に向かっていうことなのかを、自然と理解しているという態度であった。
「わが方が従来より打ち出していた、南方進出、特に石油問題を解決するために資源地域への侵攻占領方針については、これを放棄して守勢防衛体制への転換というのは……。正直、難しいとしか言いようがない」
諦めたような、当然の常識を説くような声の響き。
「そもそも石油がないからこそ、資源地を確保というのは自然の衝動。だからこそ、陸軍は満州を取ったわけで。海軍としては、なぜ陸軍が良くて我々は駄目なのかという想いがどうしてもある。……石原君という鬼子は陸軍だけとも限りはせんからな」
そこで林が斎藤の言葉とそこに含まれたものを受けるように口を開いた。
「ぐうの音も出ませんな。ただあの一事で我々も微妙なことになってしまったのも事実。抱えたものの大きさに振り回されとるというのが正直なところでして」
「こうして反発必至の方針転換を打ち出されるのだから、お察しいたしますよ。ただ我が海軍側の事情にはあまり関係がありません」
「おっしゃる通り。……まあこちらの草案に関して問題ないことと、そちらへの要望について難しいと考えていらっしゃることはわかりました」
最初から想定済みのやり取りではあった。
つまりここまでは陸相海相という大臣どうしのプロトコルに過ぎない。
「後のすり合わせと確認は若いもんに任せましょうか」
「そうですな。……では山本君、あとは頼むよ」
最初の挨拶依頼、これまで一言も発していなかった山本が答えた。
「はっ、了解しました」
そして藤林に視線を向ける。
「永田さん、どうぞよろしく」
全てを見透かしているような瞳に、藤林は気持ちを新たに歴史的傑物との交渉に挑む覚悟を固めた。
実務を担う者どうしの本当の意味での舌戦が始まるのはこれからだった。




