第二章1
昭和十一年二月二十六日、未明──。
凍った土の上に、冷たい雪が残っていた。
帝都を覆う薄暗い雲は、世界有数の大都市が目覚める前のひと時をすべて覆い隠すかのようだった。
永田鉄山──藤林は陸軍省の局長室で独り、机に向かっていた。
机上のランプが仄かに照らす手元には、亜細亜大陸や世界の地図、膨大な量の資料が所せましと並んでいる。
まるで吸い込まれるような静寂。
何ひとつとして聞こえてくるものはない。
まず間違いなく藤林だけが知る事実。
本来なら今この時、荒々しく静謐が破られて破滅的な音声であたりが支配されるはずだったことを。
青年将校たちが残雪を蹴立てて決起し、首相官邸、警視庁、朝日新聞社、そして陸軍省──この部屋を襲っているはずの時間。
226事件の決行時刻。
だが、こうして世はことも無しと言わんばかりに凍えるばかりの曇天の薄闇は微動だにしていない。
(成った……)
政戦両略の見直し、人事の微調整、真崎の静かなる退陣、東條を使った情報工作と統制強化、そして皇道派に対する硬軟織り交ぜた調略。
全てはあの「歴史」をなぞりながらも、少しずつ軌道を変えるように、周到に進めてきた藤林の対応の結果だった。
──運命は、変わったのだ。
自らの掌で、確かに歴史の歯車をずらしたのだという実感が、胸の奥にじんと湧きつつあった。
「これから何もかもが変わるはず……」
呟きは、まるで遠くの誰かに語りかけるようだった。
今自分は確かに新たな歴史の地平にいる。
相沢事件の結末が変わり、軍事政戦略に多大な影響を持っていた陸軍将校が失われずに済んだ。
226事件という、国家を揺るがす内乱、多くの政軍要職者の命が奪われた武装蜂起が未然に防がれた。
そんな別の岐路を行く、新たな日本。
疾として風が窓を叩いた。
澄んだ冷たい空気の中に、やり遂げた感慨と新たな決意が静かに芽吹いていく。
もちろん、これで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だった。
彼の知る未来では、このわずか一年半後、盧溝橋での小競り合いが間も無く全面戦争へと発展し、八年にわたる日中戦争が始まる。
あれこそが、日本が破滅への坂道を転げ落ちる起点だった。
戦争目的のない、泥沼の消耗戦の始まり。
日本と中国が血を流し合う運命を、ここで断たねばならない。
藤林は再び机に向かい、筆を取った。
外務・陸軍・参謀本部……さらには海軍をも繋ぐ新たな統合戦略構想──満蒙とシナに関する長期戦略方針、原則不可侵と北支安定化を最重要目的とし、軍事的脅威をソ連とする、英米感情を刺激せずに国力充実に努め、持久的総力戦を可能にすることを目指すという国家総合戦略方針の草案であった。
帝国国防方針、ひいてはその後に『國策ノ基準』として採択される、日本の国家指針とでも言うべきもの。
史実では対中国侵攻、南進、反英米路線を決定づけ、太平洋戦争に至るまでの道筋を作ったドクトリンに他ならなかった。
これを全面的にほぼ真逆の内容とし、いち早く外交内政を始めなくてはならない。
中国との戦争を回避すると共に、ノモンハンに備えて外交努力しつつ、満州の軍備を対ソに特化した機械化の推進と練度向上を喫緊の課題とする。
経済振興と安定を為し、日中戦争で浪費するはずだった資源資産を糧に国力の成長を促す。
欧米は言うに及ばず、現在では貴重な貿易相手国ドイツやイタリアとも表向きは友好的な関係を維持するという、局外中立、全方位外交に徹する。
日中戦争で費やした戦費は現在価値で200兆円程度だった可能性があると、防衛大学校での軍事史序論で教官が言っていたのを藤林は思い出す。
その莫大な価値がすべて浪費されずに国力充実と経済振興、対ソ向けの軍備に回せるならば、状況はまるで違ってくるはず。
さらに南進と日米開戦が回避できれば、どれだけの国力が蓄えられるのか。
(最終的に目指すは日米交渉の前倒しと成功……)
藤林が知る歴史では1941年から始まった、日本とアメリカの関係修復交渉。
急げば5年ほど早い時期に実施できる見込みになる。
史実での日本の目的は対中戦争により急速に備蓄が減りつつあった石油輸入維持と二正面作戦を避けること。
対する米国も欧州情勢の緊迫化に注力するため、太平洋側の安定を求めていたことと、日本側の中国への利権の拡大阻止と自国への譲渡。
開戦までは日米相互にある程度の妥協点はあったということである。
特に大陸利権に関する日本側の譲歩があれば成功していた見込みは高かったというのが、戦後日本人として、日米戦史を軍事専門家として教育された藤林の認識であった。
そのためにこそ満州中国利権に対する方針転換を石原に説いたのだ。
また、226事件において本来は暗殺されるはずだった人材が温存されたことも大きいはずだった。
特に日本政界きっての経済通である高橋是清と海軍の穏健派である斎藤実の存在は格段に交渉を有利に進めることになると考えていた。
藤林は永田鉄山となってから、以上の内容を反映させたものへと、この帝国国防方針の草案を他の事案と並行で変更を試み続けていた。
だが決定的にするには、陸軍内部だけの調整でたらないことは明らかだった。
特に南進論と対英米方針は海軍によるものが大きい。
軍務局長である永田鉄山の権限で決められる範囲を大きく逸脱したところに、それらはあった。
「やはり一度、会わねばなるまい……」
少なからず自分の影響下にあった陸軍とは全く異なる組織への接触。
藤林にとって未知の領域への挑戦が始まったのであった。