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第一章11


 石原との盟談から数日後。

 永田鉄山こと藤林は陸軍大臣官邸から宮内省の車に乗り込み、厳重な警護のもと皇居へと向かっていた。


 極秘の謁見。


 あの報告書の一件以来、自分は陛下のお心に留まっていたらしい。

 何かとご質問いただいた林陸相を通じて知る、畏れ多い事実。


 陛下のご意向により、あまり堅苦しいものではなく、自然と御休息あらせられているところに偶然居合わせた体で行うと。

 場所も正殿や御文庫内ではなく、人目を避けた宮中奥深くの御庭おにわと定められた。


 車を降り、侍従武官の案内に従い、ところどころ枯れ葉を残した木々の間を縫うように石畳の小道を歩いていく。

 晩秋を過ぎいよいよ冬景色へとなる時候、澄んだ涼やかな空気が肺を通じてわが身を清めてくれるようだった。


 小道の先に、庭園の中央に設えられた質素な東屋が見えてきた。

 遠目にも一目瞭然な御姿。

 侍従らしき数名が傍らに控えている。


 その時、視界の隅に愛らしい幼子が、よちよちと覚束ない足取りで芝生の上を歩いているのが見えた。

 転がるボールを追いかけようとするが、まだ歩き始めたばかりらしい。

 コロコロとこちらへ向かってくるのを、小さな手を伸ばし、歓声を上げながら後を追うように一緒に近づいてくる。


 ボールは、藤林の足元で止まった。

 意識するまでもなく、自然と膝を折ってしゃがみ込み、それを拾い上げる。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。


 目の前にいるのは、まだ歩き始めたばかりの純粋無垢な存在。

 真っ直ぐな瞳は、何の曇りもなくこちらを見つめている。

 その瞬間、藤林の全身に雷鳴にも似た衝撃が走った。


「……ッ!」


 視界が歪み、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 理由も分からず、ただ、滂沱と涙が溢れ落ち、止まらなかった。

 まるで張り詰めていた心の糸が、一瞬にして全て解き放たれたかのようだった。


 ――陛下……。


 その顔は藤林が生まれ育った未来の日本で、写真や映像を通して幾度となく見てきた、あの穏やかで慈愛に満ちた表情そのものだった。


 声にならない呟きが、喉の奥で震えた。

 まず間違いない、このお方こそ自分にとって日本国の象徴たる御仁。

 未来の、あの平成の御代を歩むことになる御方。


 幼い頃から、そして自衛官として国を守ることを誓った日から、心の奥底に深く根差していた、揺るぎない敬愛。

 それは今この時代の永田鉄山としての記憶とは全く異なる、藤林健という一人の日本人としての、純粋で本質的な感情だった。


 涙で濡れた手で、藤林はそっとボールを小さな手に渡した。

 あどけない笑みを浮かべ、再び覚束ない足取りで侍従の方へと歩いていく。


「永田」


 その時、深山の湖水を思わせる、静かで深い響きを持つ声がかけられた。

 藤林はハッと我に返り、慌てて涙を拭い、そちらへと向き直った。


 いつの間にかすぐ傍まで参られた今上陛下のお姿。

 陛下は少しだけ面白がるような、しかし深く何かを感じ入るような、複雑な表情で藤林を見つめておられた。


「朕ではなく……。まるであの子にこそ、主君を見出すような顔をしておるな」


 御言葉は藤林の心の深奥を正確に射抜いていた。

 だがよもや本当のことなど言えようわけがない。

 まさに成長され、即位されたあの方こそが自分にとっては国家の象徴であり陛下と呼ぶ存在だったのだなどと。


 動揺が走るが、藤林は努めて平静を装い、深く頭を垂れた。


「め、滅相もございません……、ただ……あまりのご利発さに、心打たれてございます……」


 陛下は特に気にした様子もなく、静かに首を振られた。


「ふっ、まあよい。決して不快ではない」


 その視線が、再びボール遊びに興じる幼い皇太子の方へと向けられた。


「永田、面白い男よな。伝え聞くやり手の軍人とはだいぶ印象が違ったぞ」


 御言葉には、これまでの報告書の一件で抱かれていた関心とは異なる、より個人的で深い信頼と期待の色が滲んでいた。

 藤林は、陛下の御深慮に触れ、畏敬の念に打たれると同時に、自らの背負う使命の重さを改めて痛感した。


 この日を境に、永田鉄山という男の立ち位置は、静かに、そして確実に変わっていくこととなる――。



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― 新着の感想 ―
確かこの時代なら大正天皇の兄弟が存命してるよね1人は陸軍で車の事故でもう1人は海軍で盲腸で亡くなってたからこの2人が生き残った世界線ならもう1人の兄弟の名のもとにのクーデターは起きなかったんじゃないか…
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