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第一章10


「……だから、だからどうしろと? それで権益放棄とは如何? もしや……」


 悶え喘ぐような響きであった。


「その通り。……それもアメリカの資本を受け入れると言ったら……どうか?」


 再びの沈黙。

 石原は筆を置き、地図をじっと見つめた。


「……正気か? 米国は将来、日本と覇を競う宿敵だ。必ず、必ず太平洋を巡っての大戦が起こるのは必至。そんな連中に、わざわざこちらの喉元を見せるような真似を?」


「彼らに“喉元”を渡すのではない。手間と金だけを使わせるのだ」


 藤林が放つ永田の声には確信があった。


「満州の油田・鉄鉱資源の開発には、膨大な資本と技術が要る。今の日本には、到底賄えない。だがアメリカの石油メジャー、たとえばスタンダード・オイルやテキサコなら、それができる。どうせ今の時点で何も結果が出てないのだから、こちらの腹は痛まない」


 彼はさらに言葉を続けた。


「彼らに現地開発権を与える。だが軍政下の満州国では、採掘物も、輸送路も、最終製品の用途も、すべてわれわれが間接的に管理できる。例えば採掘権も石油の保有権もあちらに委ねたとしても、有利な独占購入権を結ぶことはたやすいはず。『資本は彼らのもの、主権は我らのもの』を目論めばいい」


「……ハリマン協定の復活か。なるほど……資源を“直接持つ”より、“他人に掘らせて奪う隙を与えぬ”というわけか」


「その通り。そしてこれには石油だけの理由以外にもう一つの狙いがある」


 もはや言われるまでもないといった様子で石原は即座に反応した。


「地政学的緩衝地としての質的転換だな」


「さよう。アメリカの利権地域となれば地政学的な価値の複雑性と重要性が増すのは自明。まず不用意な軍事行動を周辺国……特にソ連が行うことは不可能になるはず。さらには言うまでもなくアメリカとの関係性の安定もまた享受できる。すぐに国際連盟に復帰することなどムリだとしても、それを補って余りあるメリットがある」


「彼らが満州に金を投じれば投じるほど、戦争ではなく交渉と安定を望むようになる。石油を握られている以上、現状では無意味で不可能としか言いようがない“日米開戦”を回避する唯一の現実的手段か。だが、将来的に石油の問題が解決した時に、アメリカが敵対国家となった場合はどうする?」


 藤林はそこでニヤリと、笑みを浮かべた。


「石原莞爾の言葉とは思えないな。その時には開発させたアメリカの油田をそっくりそのまま常駐戦力がある我が方が奪ってしまえばいい」


 石原はフッと鼻で笑った。

 何故か困ったような笑みだった。


 そして。


「理にはかなっている。だが……まずそもそも相手の方がよしとする可能性はあるのか? 連盟脱退いらい、米国との関係は悪くなる一方だが。外交筋から実現可能性について確認しているのかね?」


「まず問題ない、こちらから権益譲歩の姿勢を見せれば、向こうはまず確実に食いついてくる」


 藤林はやはり未来知識で知っていた。

 当時のアメリカ国内の状況を。


 そもそもの日本を危険視した理由の大半が北支、満蒙、大陸利権を危惧したものだったのだから。

 それそのものをこちらから譲る提案を示せば、アメリカとして拒絶する理由が全くない。

 

 権益の門戸開放。

 それこそが満州建国以前から、日露戦以降さんざんにわたり、彼の国が要求してきた一事。

 ならば石油メジャーの受け入れは、限定的ながら事実上の門戸開放の一歩に他ならない。

 ドイツの勃興とソ連の脅威が健在な今、日本の申し出は渡りに船のはず。


 ただ、あれほど強硬な態度だった日本が何故といぶかしがる可能性はある。

 国際連盟を脱退してまで独自の大陸利権を確保しようとしたはずなのにと。

 だが、それもこちらの石油に関するエネルギー事情を把握していれば特に違和感を持たれることもあるまいと見込んでいた。

 それゆえにこそ、石油メジャーを受け入れて採掘させるというのは二重に説得力を持つのだと。


 だから問題はアメリカ側にはないというのが、藤林の算段であった。


「あとは……わが国内の方はどうだ? 私一人を納得させたとしても、まず大抵の軍人は理解できぬだろう。ましてやあんたら統制派が、それを本気でやれるのか?」


「まあ簡単とはいわないが。いう程荒唐無稽でもあるまい。鮎川という経済家が提唱した河豚計画、キミが知らんとは言わせんぞ」


「……そんなことまで知っとるのか。私はアレには関知しておらん。正直、毒が効きすぎると反対したのだがな。まあ、それ以来向こうではあまりいい顔をされぬようになった」


 当時の日本経済界の代表の一人と言って過言ではない、日産コンツェルン創業者の鮎川義介もまた、満州へのアメリカ資本の受け入れに価値を見出していた数少ない日本人であった。

 そして実際に関東軍に提案し、河豚計画という名で採用、実施されたという史実がある。

 尤もすでに日米関係が決定的に破綻していたため、軌道に乗ることはなかったのだが。


「それに、軍部内の反対意見に対しては、先から進めている内部統制と綱紀粛正が少なからず功を奏するはず」


 青年将校の暴発を未然に防ぎ、また真崎の処遇により、永田の権限は明らかに強固なものになった。

 少しづつだが、命令系統の一本化、参謀本部と現地軍の独断専横がなされぬよう組織改革にも着手しつつある。

 ここに石原という満州軍人に影響力のある人材の協力が得られれば、より確かなものになるのは間違いなかった。


「上層部に関しても、おいおい対策は考えている。少なくとも現陸相の林閣下はこちら側だしな」


 静かに湯呑に手を伸ばした石原が、茶をすすった。

 そして、ぽつりとつぶやいた。


「……アンタの言っていることは、つまり、“この国を殺さぬための売国”だな」


「言葉の定義は、時代によって変わるものだ。“国を守るための妥協”を、後世が何と呼ぶかは、我々には決められん」


 藤林の目は、どこまでも冷静だった。

 その視線の先には、かつて自分がいた遥かな時の彼方が今対峙している光景と重なるように映っていた。

 石原はその目を見据え、やがてゆっくりと頷いた。


「……落としどころはその辺か。どちらにしろもう、石油の目途が立たねばどうしようもない」


「戦争目的が不透明で無益な軍事行動など最もキミが厭うもののはずだ。それさえ避けようという一点で我らは協力できるはず」


 二人の視線が交わった。


 国家、いや、世界の命運を左右する新たな同盟が、今ここに静かに成立したのだと。

 避けようはずがない、確定した未来の悲惨から逃れる一手がまた一つ打たれた実感に藤林は包まれていた。


 ……そしてその見込みが全く甘く、自分が如何に大国間の利害関係というものを理解していなかったのかを思い知るのはこれからしばらく後の事であった。



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