第一章9
帝都、某所──。
黄昏の光が障子の隙間から射し込み、畳の上に金色の筋を描いていた。
石原莞爾は、筆を走らせる手を止めることなく「そこに」とだけ言った。
永田鉄山──、藤林は静かに腰を下ろした。
茶の香りが、微かに漂う。
「まずはお見事と言っておきましょうかね。皇道派の対処と真崎の処遇、一連の対応で何やら物騒な雰囲気は一掃されたようで」
「貴官にそういわれると、面はゆいものがあるな。少しは私を見直してくれたかね? ……ここが君の秘密基地か。人目をはばかるには丁度いいようだ」
「で……こうしてわざわざアンタが来たのは、こないだの続きということか?」
石原の口元に、皮肉な嘲笑が浮かんだ。
その瞳に宿った光は、僅かにも鈍ることはなかった。
「満州の権益を放棄……、正気の沙汰じゃない。国際連盟を脱退してまで犯した国益確保の一手。今更ちゃぶ台ひっくり返すようなことを軍部も政治家も許すわけがない」
「許すわけがない……、か。まずはこれを」
藤林は、懐から一枚の地図を広げた。
満州国全土にわたる資源開発計画、その中でもとりわけ油田試掘候補地に朱が引かれていた。
「石原君、われわれはこの地を、日本の生命線と定義した。だが現実として、満州は“維持すべき負債”に転じつつある。資源も、インフラも、人材も、足りぬ」
「……何事も初期投資というものは必要でしょうが。今時点で少々の赤字だからといって、樹立した国家運営を放棄するなぞ、どうかしている」
「だが、やる前の見込み以上に財政面での脆弱性が表面化しているのは誰よりも君がわかってるはずだ。ほぼ本土の持ち出しでようやくもっている状態だろう。一応、世間では今の景気持ち直しを満州のおかげだと喧伝されているが、実際には高橋是清閣下の貨幣流通刺激政策が功を奏しているにすぎん」
「……」
藤林は未来では一般常識的だった、満州国運営の実態をわかりきっていた。
あれほど新天地だの、理想国家だの喧伝されていたのとは裏腹に、日本国内企業の投資と労働力の供出に対して、割合としてはささやかとしか言いようがない程度の生産力しか生み出していなかった。
この辺、どれだけ軍事戦略の才があろうと石原も所詮、経済と国土開発の専門家ではなかったということだろうか。
樹立まではともかく、実際に国家として歩みを始めて以降の満州国というのはあまりにも理想とは異なる様相を呈していたことになる。
「なにより……」
そしてそれ以上に、恐らく目の前の石原にとっては看過できない現実。
「今の軍事力、関東軍の軍備と人員でマトモな国家運営など可能だと?」
「……っ」
戦後の記録で石原が関東軍の現状に危機感を持ち、必死でなんとかしようと奔走したという事実。
実際にこちらで藤林が確認、調査した結果でもその実態は明白だった。
満州軍という、まるで突如夢幻のように現出した国家軍。
はりぼてそのものとしか言いようがないありさまなのは、少しでも専門的素養がある者が見れば一目瞭然だった。
つまりは現状、ほぼ関東軍そのものが満州の防衛力だということである。
少なくとも北支軍閥勢力に対するには十分といえるかもしれない。
だが、同水準の近代化された国家軍を相手するにはとても足らない。
ましてやソ連を仮定した場合には、ほぼ無力といっていいだろう。
ノモンハンで一体何が起こったのか。
実態を考えれば、むしろ十二分に頑張ったとしか評しえない結果を藤林は知っている。
そして満州を構想し実行した当人その人である石原は、誰よりもそんな脆弱性を知悉していたに違いないことも。
恐らく現時点で、最も現地の軍事力、ソ連とぶつかることの危険性を熟知していたのが目の前の男なのだ。
「だから……、だからこそ権益を維持しつつ、軍備を増強するのだろうがっ」
たまらぬように吠える石原。
少し体調でも悪いのだろうか。
何時になく余裕がないように見える。
だが今は冷徹な一手を打つことだけを考えるべきであった。
石原という傑物の考えを変え、動かぬはずの未来を変わらぬはずの運命を勝ち取る分水嶺が今この瞬間であることを藤林は確信した。
そして応えるように、吠え声を上げる。
「しかし石油がっ!」
轟っと。
空気が震えた。
「っ!!」
「石油がないではないかっ!」
ガンと殴られたかのような石原の様であった。
「どれだけ権益を維持し、軍備を充実し国力を増強しようとも、肝心の石油が無ければ現代戦はとてもできないっ」
永田としてではなく、日本国自衛官、藤林としての言葉だった。
「よろしい、仮に十二分の軍事力を配備できたとしよう、アメリカもドイツも相手どることができるほどの陸戦機械化部隊、航空機に空母。巨大砲を載した戦艦もだ。で? それで勝てるのかね? 今の、石油を輸入によってようよう維持しているような状態で。当て込んでいたそれが全く満州から得られなかったというこの状況でだっ」
気迫と共になされた藤林の魂の吠え声を最後に、あたりに静寂が満ちた。
遠く、秋虫の鳴く音だけが聞こえる、時が止まったかのような薄闇の空間。
茜色だった空はすでに墨色に染まりつつある。
ただ国を想う男二人の視線だけが交差した。
かたや昭和の天才軍略家として。
かたや未来日本の自衛官として。
もちろん一方はそれを知るわけもない。
有能だがただの事務方軍人と思っていた同僚に、想定しえなかった一撃を与えられた衝撃を何とか飲み込まんとしていた。




