月明りが照らすふたり
「ふう、それにしてもここの暮らしはどうなってるの」
いくら小説で読んでいた世界とはいえ、知らなかったことが多すぎる。
基本的に食事もお風呂も一人で済ますことはできない。誰かの手を借りて全てを行う必要がある。
「さすがに、あーんをさせられそうになったのは信じられなかったけど」
どうやらリディアは、騎士団に入ってからというもの、「手が使い物にならなくなると困る」などといって、ほとんど侍女たちに身の回りの世話をやってもらっていたらしい。それもこれも、剣を握るためであり徹底していた。
「ああ、誰かに身体を見られたのは恥ずかしすぎる……!」
死ねる!などと頭を抱えていると、不意に胸のあたりが熱くなる。まるで、内側からじわじわと燃え上がる炎みたい。
息が詰まるほどではないけれど、どこか落ち着かない。まるで心臓の鼓動が普段とは違うリズムを刻んでいるみたいで。オスカーが帰ってからずっとこんな感じだ。
なんとなく、胸の奥がざわめているような気がする。胸騒ぎに近いのかもしれない。
これは何?
ただの疲れ?
いや、それだけじゃない。
「リディアお嬢様、どうかされましたか!?」
ベッドを整えてくれていたばあやが心配そうに駆け付ける。よほどリディアのことを大切に想っているのだろう。あまり心配はかけたくない。
「大丈夫、なんでもないわ」
咄嗟に笑みを浮かべると、ばあやも安心したような顔を見せる。
「リディアお嬢様、このまま眠られますか?」
「え?」
「お忘れかもしれませんが、リディアお嬢様は愛用されていた剣を磨いてから眠っていらっしゃいましたよ」
なるほど、そんな習慣があったんだ。
確かに剣を大事にしているような描写はいくつか見かけていたけど、眠る前に剣を磨いていたとは知らなかった。
「ありがとう。剣は部屋に?」
「いいえ、リディアお嬢様はその時間をとても大切にされていましたから、離れにございます」
「離れ? どうしてここにないの?」
「誰かに見られるのは嫌ということでした。離れはリディアお嬢様のために造られた場所ですから、お一人になりたいときはそこで過ごされることも多かったのです」
やっぱりここも覚えていないところだ。当たり前なのかもしれないが、小説の中で過ごした時間が全てではないらしい。私が知らないリディアが確かに存在する。
なら、ラストに向かってまるで自暴自棄になった理由もわかったりするのだろうか。小説では強い心の持ち主で憧れてはいたけれど、時に傲慢さは目をつぶっていた。
人を人だとも思わない発言ばかりも少なくなかったわけではないから、読者さえ、リディアの最期に「スッキリした」という言葉を残す人も少なくはなかったのだ。
世間からは嫌われていた主人公だったけど、それでも力強いリディアの生き方に私は憧れた。
「わかった、行ってみるね」
ばあやに教えてもらった場所には、屋敷と呼ぶにはやや規模が足りないものの、個人が所有するには贅沢すぎるほどの建物がそびえていた。
高い天井と精巧な装飾が施された外壁は、ただの邸宅とは一線を画し、広々とした敷地には手入れの行き届いた庭が広がっている。
そっと扉を開けると、中は暗く静まり返っている。
「剣は一体……」
「待ってたよ、リディア」
その声を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。心臓が跳ねるのを感じながら、闇に沈んだ部屋の奥へと視線を向ける。
月明かりが淡く差し込む中、シルエットがぼんやりと浮かび上がる。静寂の中、わずかに揺れるカーテンの隙間から漏れる冷たい光が、ベッドの上に座る彼を優しく縁取っていた。
アーサー!?。
いつからそこにいたのか。彼の金色の髪が淡く輝き、落ち着いた眼差しがまっすぐにこちらを捉えている。
「どうしてここに……!?」
「どうしてって……毎晩ここで会うのが約束だったけど?」
そうなの!?
驚きに声を上げそうになるが、間一髪で飲み込む。そんな約束、私は知らない。それならそうと、なぜ小説の中で描いてくれないのか。もしこんなシーンがあったとしたら、読者として発狂していたかもしれない。
だって、話の中のアーサーは──あくまでリディアの良き剣のライバルであり、それでいて、彼女が殺すべき相手でもあったはずなのに。
「ごめんなさい、やっぱり記憶があまり戻っていないみたいで……」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。アーサーは小さく息をつき、優しく微笑む。
「よっぽど酷い戦場だったんだろうね」
その声音は穏やかで、まるで本当に私を気遣っているかのようだった。
今まで私が知っていたアーサーと同じ顔をしているのに、こんなにも違って見えるのはなぜだろう。こんな柔らかい声で、誰かに言葉をかける人だったの?
「……アーサーは、戦場に出たことはある?」
気がつけば、問いかけていた。
「何度も。戦いが好きな国だから」
「嫌になることはないの?」
「どうだろう。あまり考えたことはないかな」
「そう……」
考えないようにしているのかもしれない。その先はあまり深く聞くべきではない気がした。ふと、心の奥底に引っかかる違和感に気づく。
――そもそも、どうして私はアーサーを殺すように命じられていたんだっけ?
理由が、よく思い出せない。
「ねえ、リディア」
明かりひとつない光景の中で、月の光だけがアーサーを照らす。
「やっぱり、あの相手は俺じゃだめ?」
「え……?」
あの相手とは、一体なんのことだろう。
「ここ最近では剣でも発散しきれなくなってきているはずだよ。力も加減できなくなってるみたいだし」
「加減……もしかして、剣の練習をしてくれていたの?」
「そうだけど、でもそれは、リディアが無理やりそうさせただけで、本当に求めていることは違うから」
だめだ、アーサーの言っていることのほとんどが見えてこない。私はアーサーに無理強いでもさせていた?
はあ、小説のシーンであれば手っ取り早く状況が把握できたのに。
「……あの、どうしてそうなってるのか簡単に教えてほしいのだけど」
「簡単に?」
ぴくりと、アーサーは反応するように私を見た。
「それは、リディアの許可が出たということで解釈は合ってる?」
「え? うーん、そうだと思うけど」
いや、違ったらどうしよう。忘れてましたがどこまで通用するかもわからないし、いっそ記憶喪失ですって言ったほうがマシなのかな?
でも、小説の中のリディアにはとにかく敵が多くて、油断一つできなかった。
「それなら、遠慮なく──」
「えっ……え?」
突然、ベッドに押し倒され、組み敷かれている。何これ、なんでこうなったの?
「待って……これは一体」
「リディアがいいって言ったんだよ。俺も、こうしたほうがいいと思う」
アーサーに両手首を拘束される。しかも片手で縛り上げられてしまうのだから、自由が利かない。
「面倒な呪いだ。強いリディアに嫉妬した誰かの仕業かな」
「ねえ、待って……っ」
「大丈夫だよ、少なくとも俺はずっとこうしたいと思っていたから。リディアを初めて見たときから」
私たちは殺し合う運命のはずで、それをアーサーもわかっているはずだった。だからこそ私に近づいたんじゃないの?
「ねえ、リディア。俺のこと好きになって」
そうして、首筋にアーサーが口づけを落とした。