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異世界

精霊の庭の定点観測

作者: 澪澄にけ


 最初に迷い込んできたのは、十歳に満たないであろう少女だった。

 「え…うわあ!お兄様、カミーユ、早く来て!すごいの!」

 茂みからもぞもぞと顔を出し、辺りを見回した少女はぽかんと口を開け、這い出てくると同時に声を上げた。

 「ミナ?どこだい?…まさか、この茂みの向こうなのか?」

 「何やってんだよミナ。服を破いたらまたおばさまに叱られるぞ」

 ぶつぶつ言いながら茂みをかき分けて現れたのは、少女と同じくらいの年齢の少年と、二人より少し年長らしい少年。彼らはよく似ている。

 髪や服についた葉っぱを払いながら立ち上がった二人は、そこに広がる光景に目を瞠った。

 四方を茂みに囲まれて誰にも気付かれていなかったが、ちょっとした広場のような空間だった。一面をさまざまな花が絨毯のように埋めていて、小高い位置で傾斜があるため多少距離があるはずの湖も一望できる。折しも日が傾きかけたところで、夕陽を反射した湖面の輝きは幻想的ですらあった。

 「…こんな穴場があったんだ」

 「なんなんだ、ここは?誰かが草を刈って花を植えたのか?」

 「きっと精霊さんのお庭よ!人が作ったようには見えないもの!」

 少女の主張に二人の少年は答えることなく周囲を見回したが、この場所に精霊が関与しているかを判断しかねただけで、精霊の存在を疑っているわけではない。

 この国では精霊の存在は当たり前に認められている。姿を視たり声を聴くことができる人間はごく一部だが、ふわふわと漂う小さな光の塊や風のない日に一本だけ揺れる花、一瞬目を離した隙にひとつだけ消える林檎、何もない空間を前足でひっぱたく猫…そういった出来事から誰もが存在を感じ取ることができた。

 「…よく見ると、咲き頃を過ぎた花も咲くには早すぎる花も、めちゃくちゃに生えてるし全部咲いてる。ミナの言うとおりかもしれないね」

 「でも兄上、うちの領地が精霊のお気に入りなんて聞いたことないよ。精霊は気に入った場所以外にはこういうものを作らないし、たいていの場所はふらっと立ち寄って通り過ぎるだけって先生に習ったのに」

 「きっと新しいお気に入りに選ばれたのよ…あ、それなら私たちは勝手にあがりこんだことになるのね。ごめんなさい精霊さん、これはお詫びとごあいさつです」

 はしゃいでいた少女は言葉の途中から突然かしこまると、ワンピースのポケットから小さな袋を取り出して中身を手のひらに出し、地面に敷いた袋の上に置きなおした。

 宝石のようにきらきら光る、大粒で色とりどりの飴玉だった。

 「ミナ、日が暮れるから今日はもう帰ろう。明日また来ようよ」

 年上の少年に促されて少女は歩き始めたが、茂みに入る前にもう一度振り返った。

 「っ…」

 息をのんだ少女に気付き、振り返ったところで少年たちも絶句した。

 湖面の上を幾つもの光が舞っている。強い輝きを放つもの、赤みのあるもの、青みがかったもの…色合いも強弱もそれぞれ違う光は揺れ、またたき、思い思いに飛び回っていた。

 「…きれい…」

 「…まさか、本当に気に入ったのか?精霊が…ここを…」

 湖畔にいた使用人がその光景に驚き、慌てて屋敷に向かうさまが小さく見えた。  

 

              ◇ ◇ ◇


 「昼間でもぼんやり光ってるのは見えるけど、やっぱり夜のほうが綺麗なのよね」

 いつものように身を乗り出して湖を眺めているのは、あの日の少女──ミナだった。

 ジェルミナル・セイナー。この地に隣接する領地を持つ、子爵家の一人娘である。

 「ミナは相変わらず熱心だね。精霊の定点観測とでもいうのかな?まずはランチを済ませよう。このままだとカミーユに全部食べられちゃうよ?」

 「おっ、今日のサンドイッチはスモークサーモンだ!チキンもあるぞ。デザートは…」

 慌てて戻ってくるミナをニヤニヤしながら見ているのは、この地を治めるゼーマン伯爵家の長男、アトレーユと次男のカミーユだ。

 親同士で親交があったため、三人は言葉も覚えぬうちから一緒に遊んでいた。ミナはみっつ上のアトレーユを本当の兄のように慕い、同い年のカミーユとはお互い遠慮なくものを言う仲だった。

 「今日もお邪魔しています」

 ミナは取り分けた食べ物を薄紙に乗せ、花の絨毯の中心辺りにそっと置く。そして三人のランチがようやく始まった。

 初めてこの場所に来てから数年が経っており、あれから三人は繰り返し訪れるようになっていた。精霊が再訪を許さなければ二度とたどり着けないようにされてしまうので、許されているお礼にと毎回精霊のために“差し入れ”を用意している。それが次に来た時は消えているのも当たり前のことと受け止めていた。

 精霊の光は湖だけでなくこの庭にも訪れるようになっており、ミナは食べ物を置くとその光がはしゃぐように飛び回るのが可愛いと言う。

 近いとはいえミナが毎日遊びに来られるわけではないので、兄弟のみで来ることもある。茂みをかき分けて入るのが少しでも楽になるように、外からはわからないような道筋をつけてみたり、納屋から使用していないベンチを持ち出し、二人で苦労して運び込んだりといろいろ工夫していた。

 この場所は三人だけの秘密…と本人たちは思っているが、侍女や護衛が近くまで付いてきているのだから、ベンチの所在とともに当然両親にも報告されているだろう。子どもたちの秘密基地ならば暴かずにいてあげよう、とそっと見守られているのだ。

 「それにしても人が増えたわね。もともと避暑地として夏は賑わってたけど…今はどんな季節でも“精霊の湖”目当ての観光客がいるもの」

 「精霊のお気に入りの地は他にもあるけど、新しくできることは滅多にないらしいからな。ミナ、湖畔にいる連中から見られてないよな?ここは伯爵家の私有地だから観光客は入れないけど、絶景が見られそうだからって不法侵入してくる奴もいるかもしれない」

 口をサンドイッチでいっぱいにしたミナがカミーユに大きく頷くのを見ながら、アトレーユがぽつりと言った。

 「あれから評判を聞いて、新しく別荘を建てたいっていう申し込みが殺到してるらしいよ」

 「ホテルも予約がいっぱいらしいからなあ」

 「中にはうちの発展が面白くなくて、ここが精霊に見放されるような嫌がらせをしてくる者がいるかもしれない。少し前にカウデン男爵領の“精霊の森”が、何かで精霊を怒らせて見捨てられたことがあっただろう?…そんなことまで警戒しなきゃいけないから、父上が忙しさで倒れそうになってるよ」

 僕がもっと大きければ、父上を助けてあげられるのに…

 そう呟いたアトレーユに、ミナは眉を下げた。「それでお兄様は最近、すごくお勉強してるのね?早くおじさまの力になれるように」

 「それもあるけど、兄上は来年王立学院に入学するから、都会育ちの貴族令息に負けないように頑張ってるんだよ」なぜかカミーユが胸を張って答える。

 「そういうわけじゃ…」とアトレーユは苦笑いを浮かべたが、真に受けたミナはアトレーユのほうに身を乗り出した。

 「お兄様はたくさんご本を読んでるしとっても頭がいいんだから、誰にも負けるわけないわ!大丈夫よ!」

 「ありがとう…休暇ごとには戻るつもりだから、その間この庭を頼んだよ」


              ◇ ◇ ◇


 日傘をくるくると回しながら、今日もミナは湖を眺める。

 「今日は青っぽく光る精霊さんが多い気がするわ。明日は雨になるのかも」

 「その観察が合ってるのかもわからないし、根拠も不明だけど…なぜかミナの予報はよく当たるんだよな」

 カミーユが後ろで笑いながらバスケットを開く。昼時を過ぎているため茶菓子を用意してきたのだ。

 いつものようにミナがクッキーを精霊に捧げ、二人はベンチに並んで座った。

 「休暇が終わってお兄様が帰ってしまって、寂しくなっちゃったわね」

 「その代わり次に会うのは卒業して戻ってくる時だ。もう最終学年なんて早いもんだよな…その時は入れ替わりに、俺たちが入学だけど」

 「お兄様が戻られても、三人そろってここに来られるのはやっぱり長期休暇の時期だけになるのね」

 水筒から冷たい紅茶を一口飲み、カミーユがためらいがちに切り出した。

 「…なあ、ミナ。おじさまに聞いたか?」

 「何を?」

 「…聞いてないんだな。その…俺たちの婚約について」

 ミナは食べかけのクッキーをぽろりと落とした。

 「…えぇ?!」

 「おっ俺も詳しく聞いたわけじゃないんだけど!親同士は割と昔から考えてたらしくて!ほら兄上は次期伯爵で、ミナはひとり娘で、だから次男の俺が婿入りして子爵家を継げば両家の絆が深まって事業も安泰だって…」

 もともと避暑地として、別荘やホテルの建築時にはセイナー子爵領の山から建材を調達していた。精霊の地となってからはさらに需要は増え、両家はともに発展し続けている。

 「事業…ああ、そういうことね」

 「あ、言っとくけど政略結婚って話じゃないぞ!婚約しなかったからって両家の協力関係は変わらない。俺たちの仲がいいから、その気があるならどうかってことで」

 カミーユは早口でそこまで言うと、視線を泳がせながら続けた。

 「俺はその…ミナがいいなら、婚約してもいいと思ってる」

 「カミーユ…」

 「お互い気心も知れてるし、変に気取ったり気負ったりしなくて気が楽だからな!」

 「何回『気』って言うのよ…。でもそうね…カミーユと結婚すればここにも一生、遠慮なく来ていいのよね」

 「…動機はともかく…じゃあいいんだな?父上に伝えるからな!学院を卒業するまでは仮婚約ってことになるけど」

 子どものうちから結ぶ婚約は、その後の情勢の変化や本人たちの相性によって後々問題になることが多い。そのためこの国の貴族は、王立学院を卒業するまでは仮婚約とすることが多かった。

 「わかったわ。婚約の最初の証人は精霊さんね」

 ミナがにこりと笑うと、花々が一斉にさわさわと揺れた。


              ◇ ◇ ◇


 精霊がどんな場所をどういう理由で気に入るのか、人ははっきり理解してはいない。自然豊かなところが多いが、同じような地形と気候であっても選ばれるところとそうでないところがある。選ばれた地はできるだけ精霊を尊重し、長く留まってもらおうと力を尽くす。作物の実りや牧畜の成育など、明らかに他の土地よりも恵まれるからだ。

 だから『精霊を怒らせてはいけない』というのは常識だった。恩恵もあればその逆もあるのだ。ちょっとした悪戯で済まされれば幸いであり、時には苛烈なほどの罰が与えられることもあった。

 「ここを離れている間は不安だったよ。訪れる人が湖を汚したり、建物が増えたことで自然を壊しすぎて精霊を怒らせてないかって…これからもしっかり管理しないとね」

 「怒るどころか…最近湖にも、その周りにも光が増えた気がするの。きっと最初に来た精霊さんたちが、居心地の良さを他の精霊さんに伝えているんだわ」

 アトレーユは昨年学院を卒業してすぐに領地に帰り、父親の仕事を手伝っている。

 替わって王都に行ったミナとカミーユは、出発前にアトレーユへ仮婚約の報告をしていた。

 「婚約者の兄とはいえ、本当はミナと二人になるのは避けるべきなんだろうね」

 精霊用の焼き菓子を取り出していたミナが顔を上げる。「どうして?すぐそばに侍女も控えてるし、部屋で扉を閉めているわけじゃないわ。うちでも伯爵家でも変に疑う人なんていないし、カミーユだって気にしないわよ」

 「そうかな…そういえばカミーユが、今回の休暇は帰らないと言ってきたけど」

 「…ええ。一緒に帰ろうと思って誘ったのだけど…卒業したらめったに会えなくなるのだから、学院の友人との時間を大切にしたいって」

 ミナはうつむき、菓子を花の間に置いてしばらく動かなかった。

 「仕方のない奴だな…入学してからの手紙を読むと、王都の暮らしにずいぶん浮かれているみたいだ。将来をともにする婚約者こそ大切にするべきだろう」

 「学院に行っていた頃のお兄様は約束通り、休暇ごとに戻ってきてくれたものね。

 …本当のことを言うとね、最近はあまりカミーユと話していないの。仲良くなった令息や…令嬢との付き合いのほうが楽しいみたい」

 アトレーユはミナをじっと見つめ、静かに尋ねた。

 「ミナはカミーユを好き?幼馴染みとしてじゃなくて、男性として」

 「…私ね、将来はお父様が決めた方と結婚するものだと教えられてきたの。きっと私のために良い方を選んでくれるから、夫となる方と素敵な恋をしてねってお母様にも言われた」

 「うん。貴族の結婚として理想的な形だね」

 「だからカミーユと結婚するなら、カミーユを好きになろうと思ったの。これまでだって友だちとして大好きだったし、カミーユも婚約してから前より優しくしてくれて…王都に行く前には、ちゃんと好きになってたわ」

 「そうか…それなら尚のこと許せないな」


              ◇ ◇ ◇


 茂みが激しく揺れ、カミーユが後ろを気にしながら顔を出した。

 「ここをくぐってください。少し通りやすくなってるから…髪に気をつけて」

 カミーユに差し出された手を取り、茂みをくぐって現れたのはミナやカミーユと同年代の少女。連れてきた護衛が枝葉を押さえているうちに通ったので、髪も乱れておらずドレスも破れや汚れはない。それでも気になるのか、景色を見る前に身づくろいに余念がないようだ。

 その振る舞いにしろ、隙なく整えたいでたちにしろ、同年代といってもミナとはずいぶん違っている。薄くだが丁寧に化粧の施された顔は、貴族令嬢の見本のようだった。

 「…まあ、なんて美しいのかしら!素晴らしいわ!」

 ようやく顔を上げ周囲を見回した令嬢が感嘆の声をあげる。夏の陽光が湖面を反射し、その上に浮かぶ精霊の光を照らして相互複雑に輝く。他の地では決して見られない、さらにこの土地でもこの場所からしか見られない唯一無二の風景だ。

 令嬢の言葉を聞いてカミーユは誇らしげに、ここが精霊の庭であることを説明した。

 「確かに神秘的な空間ですわ。ゼーマン伯爵家は大変な栄誉を得られたのですね。

 …私などがこんなに特別な場所に連れてきていただいて、良かったのかしら…?」

 微笑みながら見上げてくる令嬢に、カミーユは頬を紅潮させながら答えた。

 「レギーナ嬢だからこそ来ていただきたかったんです!純粋で妖精のような方に相応しい、と、思って…」

 言い慣れない台詞に口ごもるカミーユに、レギーナと呼ばれた令嬢は更に笑みを深くした。「そんな…でも、カミーユ様にそう思っていただけるなんて、光栄ですわ」

 「…そうだ、お、お茶を用意させてるんです。そろそろ届くはず…ちょっと見てきます!」

 照れたカミーユが茂みを突っ切って去るのを、レギーナは微笑みを浮かべたまま見送った。

 そして湖のほうに向き直った時には、完全に笑みは消えて周囲を素早く観察し始めていた。ミナの行う“観測”とも違う、“検分”とでも表現したいような鋭い視線だった。

 「…本当に絶景ね。伯爵家だけで独り占めせず、展望台にして貴族の訪問客をもてなす場所にするべきだわ。ちゃんと道も舗装して…茂みを潜るなんて論外よ、そうでしょう?」

 問われた背後の護衛が答える。「はい。侯爵家のお嬢様にあのような真似をさせるなど、許し難いと思いましたが…このような場所を隠していたとは」

 「うちが経営に参加したら、もっと開発を進めるよう進言して国外の賓客も招くことができるような一大観光地にできるわ。精霊の湖で舟遊びができるようにするのはどうかしら?湖畔を整地して迎賓館を建てれば、きっと王都に次ぐ社交の場になるわね…」

 その時ふいに強い風が吹き、飛んできた一枚の葉がレギーナの頬に当たった。

 レギーナは舌打ちでもしそうな顔つきになって手で払ったが、背後の茂みがざわざわと鳴ったので瞬時に『純粋で妖精のような』柔らかい表情を作り、戻ってきたカミーユのほうを振り返ったのだった。


              ◇ ◇ ◇


 

 暗くなってから再びやってきたカミーユは、湖に踊る光をぼんやりと眺めていた。

 茂みの向こうからかすかな灯りが近づき、やがて厳しい顔をしたアトレーユが顔を覗かせる。

 「ここにいたのか。…暗いから適当に突っ切ったのか?袖が裂けてるし髪に枝が刺さってる」

 「兄上…」

 「侍女に聞いた。昼間ダ・シルヴァ侯爵令嬢をこの場所に連れてきたそうだな」

 「…学院で仲良くさせてもらってるんだ。精霊の湖にすごく興味をもってくれて、休暇はここで過ごすと言うから…友人を精一杯もてなすのは当然だろう?」

 「今年はきちんと帰省したと思ったら、それが理由か…。湖や周りの観光地を案内するのはいい。だが何故ここに入れた?ここは僕たちとミナだけの特別な場所じゃないか。それに」目を逸らすカミーユを睨みながら続ける。「今日がセイナー家の茶会だったからだろう?ミナも来ないし僕も招待されてあちらに行っている。止められる心配がないから連れ込んだというわけか」

 「おかしな言い方はやめてくれ!レギーナ嬢の護衛もいたからふたりきりじゃなかった」

 「…婚約者の招待を断って、別の女性と過ごすのは充分おかしなことだ。大切な用事があるからと、僕が叱っても来なかった理由がこれとはな」

 「婚約者っていっても、仮初めじゃないか!」カミーユが怒鳴る。「…ミナのことは可愛いと思ってたし、結婚しても楽しくやっていけると思ってた。でも学院に入って、自分がどれだけ狭い世界にいたかを実感したんだ。王都育ちの友人はみんな俺よりも大人で、女の子も華やかで…」

 アトレーユは呆れたように答えた。

 「そんなことに目が眩んで、ミナの良さがわからなくなったのか?学院でもあまり関わらなくなったそうだな。帰省も日をずらした上、戻ってきてからも会おうとしない。…避けられていることに気付いているから、ミナもこの場所に来なくなってしまった。

 お前はどうしたいんだ?」

 カミーユはベンチの縁を強く握りしめたまま、返事をしなかった。


              ◇ ◇ ◇

 

 いつものように遠くを見つめていても、今日のミナは恒例の精霊観測をしているわけではなさそうだった。表情にも生気はなく、しおれた花のようだ。

 「ミナ…」

 追ってきたアトレーユに声をかけられても、ミナは振り向かない。

 「…ごめんなさい。これからは勝手に出入りするわけにはいかないけれど、どうしても最後に来たかったの」

 「最後なんて言わないでくれ。ミナならいつだって好きに来てくれていいんだ」

 「そんなわけにもいかないでしょう?…婚約の話が白紙になったのだから、カミーユはきっとすぐに、好きになったという方に求婚するわ。そうなったらもう…」

 感情が抑えきれなくなったのか、ミナは口元を押さえて顔を伏せた。

 「…久しぶりに両家が揃った理由が、こんな話で残念だよ。弟の一方的な希望で解消となってしまって、ミナにもご両親にも本当に申し訳ない」

 アトレーユは頭を下げる。「あいつも侯爵家への婿入りを望むなど…叶わなければどういう道を進む気なのか、それすら考えていない。令嬢も好意を持ってくれているから大丈夫だと言うばかりで…」

 「これからは仮婚約という…足枷もなくなって、堂々とお近づきになれるとも言ってたわね。お互いに想われているのなら、きっとカミーユの願いは叶うわ。精霊に気に入られた豊かな土地を治めて、王家からも注目されているゼーマン伯爵家であれば、ダ・シルヴァ侯爵家にも引けは取らないもの」

 ミナは『足枷』という言葉を発する時、かすかに声を詰まらせた。アトレーユもそれに気付き、弟の残酷な表現に怒りをおぼえている。

 「カミーユの今後のことは両親に任せて、もう僕は関わらないよ。…少し気になる点があるから、注意を促すことはするけどね。ミナもあいつのことはもう考えなくていい。 

 だから…もうひとりの幼馴染みである僕のために、今まで通り遊びに来てくれないか?」

 精霊たちも、ミナに会えないのは寂しいと思うよ。

 そう付け足した言葉に呼応するかのように、ミナの足元の花が揺れて小さな光がいくつも浮かび上がった。

 自分の周りを優しく囲う光を見つめていたミナは、やがてこらえていた涙を溢れさせる。

 「…うっ…うわあぁぁぁんっ!」

 「ごめん…カミーユが傷付けて、ごめんね…ミナ」

 


              ◇ ◇ ◇


 『…学院で今いちばんの話題といえば、第二王子殿下が婚約されたことです。きっとお兄様ももうご存じですよね?

 殿下は一学年上なので私などはお見かけすることすら稀なのだけれど、婚約者に選ばれたブランカ様は私と同じクラスで仲良くしていただいています。筆頭伯爵令嬢なのに控え目でお優しくて、とっても素敵な方なの。ブランカ様を選ばれたのだから、殿下は見る目があってしっかりした方なのね!…こんな言い方は不敬になるかしら?

 私自身の近況といえば、定期試験を終えて、休暇に入るのが待ちきれなくて落ち着かないことくらいです。精霊たちの様子は変わりありませんか?早くお庭に行きたいわ。もちろんお兄様にお会いできるのも楽しみにしています…』

 ベンチに座り、アトレーユはミナからの手紙を読んでいる。穏やかな笑みを浮かべながら読み終えると手紙を丁寧に封筒に戻し、持ってきた筆記具を広げて返事を書き始めた。

 『ミナ、元気そうで何よりだ。僕は今精霊の庭でこの手紙を書いている…』

 二枚目へと書き進んだところで、アトレーユはふと手を止めて自分が書いた一文を見る。迷った末に書き直すことにしたらしく、新しい便箋を取り出したところで書き損じが宙を舞った。

 「あっ…」

 慌てて掴もうとした手が空を切り、便箋はからかうようにひらひらと飛び回る。

 さんざん翻弄されたアトレーユがようやく取り戻した便箋には、『本音を言えば庭への再訪より、僕との再会のほうを待ち遠しく思ってほしい』と書かれていた。


              ◇ ◇ ◇

 

 「せっかく来てくれたのに、あいにくの天気だったね」

 アトレーユは片手で傘をさしかけ、もう片方の手で茂みをよけてミナを通す。

 「あら、雨の日もこの庭は素敵よ。花も緑も雨粒を受けて、鮮やかで活き活きして見えるもの。雫に混ざって精霊さんが光ってるの、わかる?」

 ミナは楽し気に庭に足を踏み出す。花を踏まないよう注意しながら、水蜜桃を三つ地面に置いた。菓子では濡れて崩れてしまうので、今日は果物にしたのだろう。

 「ミナがうちに来てここに寄らないわけがないのはわかってたけど、さすがに今日は早めに切り上げて屋敷でお茶にしよう。身体が冷えて体調を崩してはいけないからね」

 「…そうね。無理を言ってごめんなさい、お兄様。今日のうちに来ておきたかったから…」

 明日は学院に残っていたカミーユが帰省してくる。そうなるとミナは伯爵家へ遊びに来ることを遠慮してしまうのだ。

 「…今年もダ・シルヴァ侯爵令嬢が来るそうだ。父上が婚約の打診をしているが、当人の意思が固まってから、などと貴族らしからぬ返答で引き延ばされている。格下だからと舐められているようでいい気はしないね」

 「当人の意思って…レギーナ様もカミーユを想っているのではないの?」

 「さあ、あの令嬢の思惑はよくわからない」

 アトレーユは首を振り、ミナに笑いかけた。「あの二人のことは考えなくていい。去年そう言っただろう?…手紙のやり取りをしてくれて、休暇ごとに前と同じように訪ねてきてくれてありがとう。あんな男の兄だし、兄弟まとめて縁を切りたくなっても無理はないのに」

 「あんな男って…」ミナは目を丸くしたが、すぐにくすりと笑った。「変わらず遊びに来ていいと言ってもらえて、私のほうこそ感謝しているの。ここで精霊さんを眺めるのは大好きだし、お兄様のことも大好きなのは変わらないもの」

 アトレーユはかすかに動揺したが、それを隠すようにミナに質問する。

 「ミナはこの一年で、カミーユへの気持ちは落ち着いたかな?」

 「…ええ。あの時はとても悲しかったけど…もう大丈夫。今はレギーナ様とうまくいくといいと思っているわ。学院でも頑張ってアプローチしているみたいだし、ライバルが多いから大変そうで同情してるくらいよ」

 「そうか、それなら…」アトレーユは片膝をつき、ミナを見上げた。

 「お、お兄様?濡れてしまうわ!」

 「ミナ、僕と結婚してくれないか?」

 …雨を受けて重たげに揺れていた花々から、一斉に光が転がり出てきて二人の周りに浮かんだ。

 「お兄様?!」ミナはアトレーユの言葉に衝撃を受け、光が目に入っていないようだ。

 「ミナはひとり娘だから、伯爵家を継ぐ僕の妻にはできないと思って諦めていたけど…結局学院を卒業するまで、未練がましく婚約者を探さずにいた。カミーユと婚約したと聞いた時は今度こそ吹っ切ろうと決心したし、心から祝福していたんだ。

 それなのにあいつは、あっという間にミナを蔑ろにして…本気で諫め続けたつもりだけど、どこかで婚約が解消されることを期待していたかもしれない。自分でも卑怯だと思」「お兄様は本当に心配してくれてたじゃない!卑怯なわけないわ!」

 思わず、といった感じでミナが遮った。傘を無意識に握りしめながら後を続ける。

 「でも…お兄様が言ったとおり、私は子爵家を、お兄様は伯爵家を継がなきゃいけないのに」

 「両親にも、子爵夫妻にも相談してある。結婚して子どもが二人以上できたら、ひとりに子爵家を継いでもらうことで了承をもらったよ。できなければ縁戚から養子を取ってもいいから、と」

 「…いつの間にそんな…」

 「あんなことがあって今度は兄が、なんて許してもらえないかもしれないと思ったけど、ご両親はミナの気持ち次第だと言ってくださったんだ。

 だから教えてくれるかい?ミナの気持ちを」

 雨は徐々に止みつつあったが、二人とも気付かず傘をさしたまま見つめ合っている。

 「…学院にいる間も、お兄様がくれるお手紙に励まされていたわ。私が立ち直るまで見守ってくれて、いつも優しくしてくれて、本当に嬉しかったの。

 …これからは私が、お兄様の力になりたい。私で良ければ、よろしくお願いします」

 アトレーユは勢いよく立ち上がった。傘を放り出しているが、雨はちょうど止んだところだったので問題はない。「本当に?本当に結婚してくれるの?」

 「はい、おに…アトレーユ様」

 名前呼びに感極まったのか、普段は落ち着いた性格のはずのアトレーユが喜びを隠さずにまくしたてる。「ありがとう、嬉しいよミナ。ここで求婚することは決めていたんだけど、本当は晴れて湖の見渡せる日を選ぶつもりだったんだ。だけど…もう関係ないのはわかってても、カミーユが戻ってくると思うとつい焦ってしまって…とにかくすごく嬉しい」

 「雨の日もここは素敵だって言ったでしょう?…あら、いつの間にかあがっていたのね」

 ミナは傘を閉じながら話を続けようとしたが、湖に目をやって目を見開いた。

 「お兄様、見て!虹が…」

 即座に呼び方が戻ってしまって少し残念そうなアトレーユも、湖に視線を向けると歓声をあげた。「すごいな、あんなにくっきりと、大きくかかる虹は初めて見た…」

 二人は並んでどちらからともなく手をつなぎ、虹が消えるまで見つめ続けた。


              ◇ ◇ ◇

 

 求婚から一夜明け、ひとりで庭に来て精霊に山ほどの菓子を捧げていたアトレーユには、振り返る前から好ましくない相手が来たことがわかったようだ。ミナがここに入ってくる時であれば、あれほど茂みは騒がない。長年通い慣れているせいもあって要領良くくぐり抜けられるのだ。

 「…やだ、手を枝に引っ掻かれたわ!もっとしっかり押さえておいてよ、なんならその剣で刈り取ってしまえば…ま、まあ、アトレーユ様!」

 連れて来た護衛に小声で悪態をつきながら入ってきたのはレギーナだ。この態度からしてカミーユは一緒ではなく、ここにアトレーユはもちろん人がいることも想定していなかったのだろう。

 「ダ・シルヴァ侯爵令嬢、伯爵領へようこそ。弟がお世話になっております」

 何も聞こえなかったような顔で、アトレーユはベンチから立ち上がり挨拶をする。

 それに安心したのか、レギーナは満面の笑みを浮かべた。「挨拶が遅れて申し訳ありません。レギーナ・ダ・シルヴァでございます。昨年訪れた時もお会いしたかったのですが、機会に恵まれず残念に思っておりました」

 実際はアトレーユが仕事にかこつけて避けていたのだ。

 「カミーユは一緒に来ていないのですか?」

 「ええ、今はご両親とお話をされていて…どこでも自由に見ていて構わないとのことだったので、昨年連れて来ていただいて一目で気に入ったこの場所を探していましたの。 

 美しい避暑地の神秘的な庭で、素敵な貴公子とめぐり合うなんて…まるで恋愛小説の一場面のよう」

 自分が主人公の役回りであると臆面もなく告げているが、口調や仕草はあくまで純粋な少女がロマンチックな雰囲気に酔っているかのように見せている。

 だがアトレーユには効果がなかった。「貴女のお相手は弟では?婚約のお返事を引き延ばされて、ずいぶん悩んでいましたよ」

 「まあ…困りましたわ」レギーナはため息をついた。「学院で良き友人としてお付き合いさせていただいてますが、私はそのようなつもりは…。はっきりお断りしては残りの学院生活でカミーユ様が決まりの悪い思いをされると案じて、遠回しに諦めていただこうとしていたのですが」

 レギーナが学院ではもちろん、休暇で領地に来ている時もさんざんカミーユに気を持たせる態度でいたことをアトレーユは知っていた。それでいて平然とこのような台詞を言えることに不快感を隠せずにいる。

 「…わかりました。お気遣いを察することもできず申し訳ありません。カミーユにはもう貴女を煩わせないよう言い聞かせます。父にも伝えておきましょう」

 「え、あ、待ってください!カミーユ様の気持ちにお応えできないのには理由があって…私は、アトレーユ様をお慕いしているのです」

 去りかけた足を止められ、レギーナから発せられた言葉にアトレーユは眉をひそめただけだった。

 「…信じていただけないでしょうね。国王陛下の在位二十年を祝う記念式典…あの時は国中の貴族が王都に来て、連日夜会や園遊会が開催されました。その内のひとつ、未成年の令息令嬢が参加した茶会でアトレーユ様をお見かけして…。

 私はまだ学院にも入学していない年齢でしたが、あれからずっと密かに憧れていたのです」

 レギーナは頬を染め、声を震わせる。

 「学院は入れ違いで在学期間が重ならず、とても残念でした。カミーユ様と親しくなったのは偶然ですが…。こうしてアトレーユ様にお会いできた喜びで、はしたないと思われても気持ちを告げずにはいられなかったのです。…ああ、私がひとり娘だということはお気になさらないで。子どものうちのひとりにどちらかの家を継がせればよいのですから」

 受け入れられることを前提に話すレギーナに、アトレーユは心からの笑みを浮かべた。

 「そうですね。私もその方法によって、愛する女性と婚約することができました。

 …ですので大変光栄ですが、貴女のお気持ちに応えることはできません」

 その言葉に、レギーナの笑顔が一瞬で崩れる。「…そんな、カミーユ様からは何も…」

 「昨日決まりましたからね。今頃両親から聞いているでしょう」

 相手が隣の子爵家の令嬢であることを聞くと、動揺していたレギーナは立ち直ったようだ。

 「…家同士の事業提携のためということですわね。それならば格上の侯爵家である私と縁を結ぶほうが、領地のためにもなりますし…妻としても」私のほうが、と言いたげに言葉を切る。だがアトレーユは動じない。

 「愛する女性と、と言いましたよね?両家が更に深く結びつくことは確かですが、これは政略ではありません。私が望んで婚約してもらったのです」

 「なっ…次期伯爵ともあろう方が、良縁をふいにして個人的な感情で妻を選ぶなど…」

 「領地の発展を考えるのであれば、貴女を選ぶほうが危険ですね。

 伯爵領に精霊が住むようになったことで、参考のためにいろいろと調べたのですが…以前精霊を怒らせて領地が廃れたカウデン男爵家は、ダ・シルヴァ侯爵家の分家ですよね?侯爵が横やりを入れ、精霊の森を大規模に開発しようとして怒りを買ったという噂がありました。ドレスを汚さずピクニックがしたいという娘の望みを叶えるため、遊歩道を敷こうとして霊木を切り倒したとか…」

 切り倒した直後に雲ひとつない快晴が一転して嵐が吹き抜け、その夜のうちにカウデン領の森から無数の光が去っていくところを大勢の人間が目撃した。

 「…出鱈目ですわ!そんな噂に惑わされないでくださいませ!」

 もはや純情可憐な令嬢の仮面をかなぐり捨て、レギーナは叫ぶ。

 「そうですね。噂は噂だ…精霊を怒らせた男爵領はともかく、なぜかダ・シルヴァ侯爵領までもがそれから徐々に衰退しているというのも…それが精霊の罰だというのも、噂に過ぎませんが」

 令嬢とは思えない眼で睨みつけられながら、アトレーユは淡々と告げる。

 「カミーユにこの地の開発について、それとなく吹き込んでいると聞きました。やはり貴女には精霊を尊重する気がないようだ。そのような方にここに来る資格はない。怒りが向けられないうちに、お帰りになったほうがよろしいかと」

 「…これほどの屈辱、許せませんわ!侯爵家から正式に抗議を…」

 言いかけたレギーナに向かって、突然大きな蜂が飛んできた。ひっ、と後ずさるレギーナをかばい、これまで存在を消していた護衛が飛び出して蜂を払う。だが今度はやにわに突風が吹き荒れ、何枚もの葉や小枝が舞い上がってレギーナたちを打ち始めた。

 「…もう、なんなのよこれっ…!」闇雲に手を振り回していたレギーナはふと前を見て固まった。

 すぐそばにいるアトレーユは困ったような顔で見ている。蜂も風も襲っているのはレギーナに対してだけで、アトレーユの周りには小さな光が楽し気に飛び回っていたのだ。

 何か言おうとして口を開きかけたレギーナは、結局黙ったまま護衛とともに茂みをかき分けて逃げるように去った。茂みも簡単には出してくれなかったようで、小さな悲鳴が聞こえる。

 足音が遠ざかり、アトレーユがため息をついたところで再度茂みが揺れた。

 「…カミーユか。話を聞いていたのか?」

 「兄上…」

 髪は乱れ、額や頬に擦り傷を作ったカミーユが現れる。ひどい顔色だった。

 「ミナと婚約したって聞いて…信じられなくて、兄上と話したくて探しに来たんだ…」

 「ダ・シルヴァ侯爵令嬢のことより、そちらの話が先なのか?…言っておくが仮婚約ではないよ。僕は学院を卒業しているし、もう次期伯爵として実務も担っているからね。

 …幼い頃からお前は、嫡男の僕にはミナを取られることはないと安心していたな。自分で手放しておいて、僕が手に入れるとなると不満なのか?」

 「そ…そういうわけじゃない。けど、ミナは」

 「まだ自分のことが好きなのに、家同士のことを考えて断れなかったとでも?」

 アトレーユの鋭い視線に、カミーユは俯いた。

 「お前があの令嬢にうつつを抜かしている間に、ミナはお前から受けた傷を乗り越えて前を向いてくれた。そんな彼女にどちらの家も無理強いなどするわけがない。むしろ断られて当然だったのに、ミナは応えてくれたんだ…絶対に離す気はない」

 「…レギーナ嬢があんな人だったのも…兄上を好きなことも…知らなかったんだ」

 「だからなんだ?今頃になって間違いに気付いたから、ミナを返してほしいとでも?            

 …そもそもダ・シルヴァ侯爵令嬢が僕をずっと好きだったというのは嘘だ」

 「どうしてわかるんだよ?」

 「あの令嬢があまり関わりのない令息に近付く時の常套句だからさ。式典の茶会は余程の事情がない限り貴族は皆参加していた。一方的に見初めて憧れていたと言われたら、顔を合わせた覚えがなくても否定できないからな…同じことを言われた高位貴族の令息を何人か知っている」

 衝撃を受けるカミーユに、アトレーユは憐れむような表情を向ける。「だが高位貴族の間では令嬢が精霊を怒らせたこと、そのせいで侯爵家が傾きかけていることは薄々知られている。隣国出身の侯爵は以前から、精霊への敬意が欠けていると評判だったからな。…彼らには相手にされなかったから、お前のライバルは同じ伯爵位かそれ以下の家だったはずだ」

 「…なんで教えてくれなかったんだ」

 「お前が『友人』と言い張っていたせいで…ミナという婚約者がいるのに馬鹿なことはしないだろうと信じていたせいで、早いうちに調べることをしなかった。気付いた時にはお前は令嬢に夢中になり、話を聞こうともしなかっただろう?

 …ミナを捨ててまであの令嬢を望むなら、もうそれでも良いと思った。財政的に厳しくはあっても格上の侯爵家だ。お前が婿入りするのであれば、うちからも援助するつもりはあったからな」 

 カミーユは全身の力が抜けたように、その場に座り込んだ。 

 「…はは、俺は本当に馬鹿なことをしてたんだな。結局レギーナ嬢は、俺を選ぶ気はなかったのに」

 「それは違う。おそらく最近まではお前を選ぶ可能性は高かったと思っている」

 「…?」

 「公爵家や侯爵家に避けられている状況なら、精霊に気に入られ羽振りの良くなった伯爵家の令息というのは悪くない相手だ。急に欲を出して嫡男の僕のほうを狙ったのは、想像に過ぎないが…第二王子殿下が筆頭伯爵令嬢と婚約したのがきっかけだろう」

 突然関係ない二人の話題になり、カミーユは怪訝な顔をする。「どうしてなんだ?殿下と伯爵令嬢は在学中だから、もちろん学院では騒ぎになったけど…」

 「王家との縁を繋ぐことも諦めてなかったんだよ。うちからの婚約の打診も、殿下が婚約者を決めるまではと返事を濁していた。学院でダ・シルヴァ侯爵令嬢は殿下に近付こうとしていなかったか?」

 覚えがあるのか、カミーユは呆然としている。

 「それなのに殿下は伯爵令嬢を選んだ。自分より下に見ていた相手が王子妃になるのが悔しくて、せめて嫡男と結婚してゼーマン伯爵家も手に入れようと狙いを変えたんだろう」

 ミナとこまめに文通をしていたアトレーユには、手紙で知った学院の様子と社交界の情報を結びつけて想像することができた。

 「そこで見ていたならわかっただろう?あの令嬢はこの地の精霊にも嫌われた。万が一またお前に言い寄ってきたとしても、もう祝福してはやれないよ」

 「流石にそれはないだろ…」カミーユは力なく笑った。

 「それに、精霊に嫌われたのは俺も同じだ。ミナを傷付けた上にレギーナ嬢をここに連れて来たんだから、当たり前だな」

 ミナとカミーユとアトレーユは、もともと茂みを通り抜ける時に苦労することはなかった。行き来に慣れているせいだけではなく、精霊に許されているからだ。

 だが最近はカミーユが出入りするたびに髪を枝に引っ張られ、顔や手に擦り傷を負い、服は裂け土に汚される。

 「…もうじき、俺はここに入れなくなるかもしれないな」

 アトレーユの周りにだけ浮かぶ光を淋しそうに眺め、カミーユは泣き笑いの表情を浮かべた。


              ◇ ◇ ◇


 「…それで、カミーユはこれからどうなるの?」

 「騎士や文官になるための課程は修めてないからね。婿入り先を探すことになるだろう。今ならうちと縁付きたい家は多いから、父上はできるだけ良い条件の相手を見つけてやるんじゃないかな。

 …学院での様子を知っている令嬢には、敬遠されるかもしれないけど」

 ミナとアトレーユはベンチに座り、静かに湖を眺めている。

 「昨日、カミーユから謝られたの。傷付けてごめんって、自分が馬鹿だったって…

 でも今はカミーユのほうが辛いはずだわ。レギーナ様に失恋して、残りの学院生活も居心地が悪くなるだろうし」

 「それはミナも耐えてきたことだ。状況が変わったからといってミナにしたこととは話が別だよ」

 「うん、でも…もういいの」ミナはバスケットから慎重にキッシュを一切れ取り出すと、紙に載せて地面に置く。「私が作ったからいつもほど美味しくないかもしれないけど、よかったら精霊さんも食べてください。…どうしよう、これだけ明日になっても残ってたら…」

 「え、ミナが作ったの?」アトレーユは急いでキッシュに手を伸ばす。「それなら僕がいちばんに味わいたいな。精霊よりも先に!」

 キッシュに勢いよく噛り付くアトレーユを、ミナが不安そうに見守る。

 「…うん、美味しいよ。ミナも食べなよ」

 飲み込んでにっこり笑い、アトレーユはもう一切れ手に取ってミナの口元に持っていった。

 「…これはちょっと、恥ずかしすぎるんだけど」

 「おばさまに言われたんだろう?『夫となる方と素敵な恋をしてね』って」

 強引にキッシュを食べさせ、赤くなるミナを幸せそうに見ていたアトレーユはベンチから立ち上がり、ミナの前でいつかのように膝をついた。

 「…前に求婚したときは、雨だったし焦ってたしで散々だった。きちんと想いを言葉にすることも忘れてて、後で我ながら情けなくなったよ」

 「私にとっては素敵な思い出よ?雨だったからこそその後見事な虹が見られたし、お兄様が焦る姿も貴重だったし」

 「貴重って…ともかく僕の気が済まないから、あらためて言わせてくれ。

 ジェルミナル・セイナー子爵令嬢、愛しています。僕と結婚してください」

 ミナはベンチから滑るように降り、アトレーユと目線を合わせた。

 「喜んで。私も愛しています、アトレーユ様」

 「ありがとう。幸せにするよ…この地の精霊に誓って」

 アトレーユは振り返り──()を正面から見据えた。


              ◆ ◆ ◆


 …先ほどは目が合ったと思ったが、どうやら偶然だったようだ。アトレーユは精霊が視える類の人間ではなかったはずなのに、と柄にもなく少々うろたえてしまった。

 ──気ままに国中を放浪していて、この地にたどり着いた。前にも来たことがあるはずだが、地形が変わったのか現在管理している者の手入れが良いのか、以前は通り過ぎただけだったのに今回は惹きつけられた。湖の美しさが気に入り、いちばん眺めの良い場所に昼寝用の庭を作ってしばらく過ごしてみることにしたのだ。

 人間の子どもが三人もやって来た時は、厄介だと思う反面好奇心もあり、追い出さずに様子を見ることにした。どうやら庭を荒らすこともなく精霊を敬う心もあるようだったので、出入りを許すことにしたのだ。…飴玉が気に入ったから、だけではない。

 高位である私が定住を決めた途端、興味を持って集まっていた下位の精霊たちもここに落ち着くことにしたようだった。

 放浪が長かった私は、しばらくは庭から動かずのんびりすることにした。『しばらく』の感覚が人間とは違うので、何年になるか何十年になるかはわからない。気が向けば周囲に住み着いた精霊と交流し、好みの花を気ままに咲かせてまどろむ日々を送る。

 その後も通ってくる三人の子どもの名前や関係性は、交わされる会話から少しずつ知った。長年この国で暮らしているので、貴族や学院の制度も理解している。

 カミーユとミナが婚約した時は悪くないと思った。兄弟ふたりともミナを好きなことは明らかで、どちらと結婚してもミナはこの先ずっとここに来ることができる。見守り続けてきた年月により三人ともに情は感じているが、私がもっとも気に入っているのはミナだからだ。…飴玉をくれたからというわけではない。

 そのミナをカミーユは裏切った。さらに不愉快な令嬢まで連れて来た。

 はじめは新顔に興味を持って見ていたが、本性がわかると庭を汚された気分になった。  

 後からやってきて住み着いた中に、カウデン領の森から来た精霊もいる。レギーナの所業を聞き、たぶらかされたカミーユの愚かさに失望した。

 二度と入れないようにするつもりだったが、アトレーユがどう捌くかを知りたくて最後の機会を与えたのだ。

 結果によってはこの地を見捨てるつもりでいたが、アトレーユのほうは正しく成長していたようだ。幼い頃からミナを想っていたのに長男だからと諦め、手紙に告白同然のことを書きかけていたのを見れば応援したくもなる。ミナに求婚した時はよくやった、という気持ちを込めて虹をかけてやったものだ。

 これまでもミナが精霊で謎の天候予測をしたときは、気まぐれに実現してやることがあった。他の精霊からもミナは好かれていて、面白がって協力してくれるのだ。

 逆にレギーナは更に嫌われた。

 森にいた精霊が領地を衰えさせた時、無関係な領民が苦しむ非情な罰だと人間が言っていたらしい。非情と言われても精霊の感覚はもともと人間と違っているし、やったことと見合うかを量る天秤も持っていない。

 ならば今回の罰はどうするか。この地に手を出すことは阻止されたが、レギーナはミナを傷付けた元凶ともいえる。他者を巻き込まず、本人のみに降りかかる災難ならば良いだろうか。精霊に厭われていることを周りに知らしめるような、些細ではあるが無視もできないような。…昆虫や爬虫類と親しい精霊たちが既に何か企んでいるようだが、しばらくは静観しておこう。

 カミーユは浅はかだったが、単純なだけで悪い人間ではない。結果的にミナも幸せになれそうだし、これまでの付き合いもある。今後も来たければ締め出すことまではしないつもりだ。…出入りに少しばかり苦労はするだろうが。

 ともあれこの地は守られた。当分は落ち着くことができそうだ。

 そう、ミナとアトレーユの結婚を見届け、やがてふたりの子どもがこの庭に遊びに来るまで。あるいはその子の成長を見守るくらいまで。もしかしたら、その先も。

 人間を観察するのは面白い。いつかアトレーユが言っていた『精霊の定点観測』という言葉は、ミナだけでなく私の側にも当てはまる、絶妙な表現だったといえる。

 …さて、ふたりも帰ったことだし、私もキッシュの味見をさせてもらうとしよう。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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