太陽を失った
「だからそれは違うと前にも言っただろう!」
今日も今日とて飛び交う怒号と罵倒の言葉の数々。言ってもなければ、よくそんなに毎日怒鳴っていられるなこいつは、と思いながらもその言葉を真摯に聞いているフリをして聞き流す。前は理不尽に怒鳴られる度に泣いて、泣いて、泣き喚いていたものだが聞き流すことができるようになったのだから成長したと感じる。どちらかと言えば、感情が機能していないといった方がいいかもしれないが。
この更年期ジジイは、菅田と言いすみれが新卒で入社した年の夏に大阪支部から転勤してきた。勿論すみれは菅田が東京に転勤してきてから初めて会ったのだが、以前からいた人は東京と大阪といえど仕事の関わり上関係も濃かったらしい。これが全ての地獄の始まりだったと言ってもいい。何がそんなに気に入らないのか、毎日怒鳴り当たり散らしていた。転勤してきて初っ端、
「こんな緩い環境でヘラヘラ仕事をして金貰ってんのかお前らは、いいご身分やな。」
と鼻で笑いながら言っていた。ぶん殴ってやろうかと思った。どれだけ全員が熱意をもってやっているのか知らないのかこいつは。そんなことを思ってはいても仮にも上司となった人を本当に殴れるはずもなく、全員が固く唇を噛んでいた。血の味がした気がした。
そんな菅田からみんなの盾になり守ってくれていたのが湊本だった。誰かが理不尽に怒鳴られていれば、どんな状況でも飛んできて、怒り狂う菅田を宥めながら遠ざけてくれた。しかしその行動を菅田が気にいるはずもなく、今まで分散されていた矛先が湊本に一点攻撃と変化していった。今まであんなにも笑顔でいた湊本の顔は徐々に隈が濃くなり、頬までこけていった。そんな彼を見ていたはずなのに、自分がその間に入る勇気はなく、毎日聞こえる怒号を息を殺して聞いていたものだ。今思い返しても最低過ぎて死んでしまいたくなる。
後から聞いた話だが、菅田は湊本に対して暴力も振るっていたらしい。しんどかった、辛かっただろうに湊本がすみれ達にそれを言ったこともなければ、
「もう大丈夫だよ、ほら仕事仕事〜」
こけた頬でいつでもすみれ達に笑っていた。その笑顔の裏に湊本さんは何を考えていたのか今となってはわからないままだ。
「大変申し訳ございません。すぐに対応いたします。」
「お前は俺を舐めてるのか?ったく、あんなヘラヘラした男の下で働いていた奴はほんとに使えないな…」
そもそもこれはお前の仕事だし指示すら出さなかったではないか。こんな案件そもそも知らないわ、そんなことを言っても解決はしないので、深くお辞儀をして座席に戻る。お前のせいで死んだも同然なのに、あの男は人間の心がないのか。あ、でも何も感じなくなっている自分も同じかもしれない。なんてことをふと思いながら仕事を再開する。すみれが周りを見渡すとインターンに参加した時の活気と笑顔はなくなり、皆が隈を作り息を殺して仕事をしていた。こんな会社ではなかったはずなのに。太陽を失ったこの会社は、毎日がお葬式のような雰囲気だった。外はあんなにも綺麗な秋晴れなのに。湊本さんに似合う季節になったはずなのに、一番そこにいて欲しい人はもうどこにもいない。
すみれはだってこんな会社今すぐにでも辞めてしまいたい。逃げてしまいたい。でも、残された部下はどうなるのかと多少なりとも気にかける心は自分にも残っているようだった。湊本がいなくなり、そのポストには自分が入ることになった。絶対にどう考えても役不足なのになぜだと思ったが、菅田がきたことで退職者が増加し言ってしまえば人手不足なのだ。そんな不本意な形で昇格した。本来なら憧れの湊本に追いついたと素直に喜べたはずなのに、全く嬉しくもなければ今後の自分を想像して吐き気がした。どういうことかと言えば、今まで湊本が背負っていた全てのことがすみれに降り注ぐのだ。仕事に関してのことは問題ない。誰よりも丁寧に仕事をし、誰よりも丁寧に仕事を教えてくれていた人だ。湊本の下で働けたからこそすみれは仕事に対しての熱意も丁寧さも全て引き継げたと思う。問題は更年期ジジイの対応だ。自分がこの立場になって初めて、どれだけ湊本が背負ってきてくれていたのかを体感したのだ。向けられる言葉の刃に、すみれの体に伸びてくる気持ち悪い手と顔。多分男ではなく、女だから暴力ではなくそのようなセクハラに変わったのだろう。そんな毎日を送っていれば、感情が失われていくのも当たり前だろう。湊本が亡くなったとき、一つも遺書などは出てこなかった。本当に一つもだ。会社の恨み辛みを書き綴った遺書や辞表が出てきてもおかしくなかったはずなのに。飛び降りたビルからはいつも湊本が使っていたバックと白のダリアが一本落ちていたらしい。