第一話「惨状の赤い海」
――血の匂いがする。不思議と、この匂いは嫌いじゃない。
しんと静まり返った部屋の床には二体の肉塊が散らばっている。
肉塊や椅子の破片、折れたナイフや黒い九ミリ拳銃が、床に広がる赤い海に沈んでいた。
飛散した赤い液体が、壁の一部をも侵食している。
赤で埋め尽くされた部屋に、二人の人間がいた。
一人は二十代前半の長身の男で、黒い髪に整った顔立ちをしている。
同じく黒の目には優しさとは、かけ離れた何かが見える。
彼は床に広がる赤い液体に靴を浸け、右手にサバイバルナイフを握っている。
その刀身には、床に広がるものと同じ液体が伝い、床に雫を落としていた。
もう一人は幼い少女で、部屋の隅に寄り、壁に背をつけている。
四、五歳くらいだろうか。
少し伸びた、それでも短い黒髪を右で結っている。
首には銀色の分厚い鉄製チョーカーが着けられていた。
少女の細い足は床へと自身を委ね、小さな手は力なくぶら下がり茶色い床板に指先をほんのわずかに触れさせている。
彼女は床に散らばる肉塊から、立っている男へと目を移した。
髪と違って真っ赤なその瞳には、悲しみや怒りなどはなかった。
天井から降り注がれる電灯の明かりが、下に広がる異様な光景をうっとうしく誇張する。
「あーあ、動かなくなっちゃった」
少女の父親のものであっただろう目玉を踏み潰し、男は口元に笑みを浮かべた。
床に散らばる塊を軽く跨ぎ、彼は少女のもとへと近づいていく。
わざと足音を鳴らし、一歩一歩、距離を縮める。
少女は叫ぶこともせず、嘆くこともせず、言葉を発することもせず――ただほんの一滴だけ、涙のようなものを頬へ流した。
二人の距離は着実に縮まっていき、やがて男の影が少女を覆う。
彼は手に持っていた得物を一度くるりと回し、その切っ先を少女へ振るった。
「! げほっ、っ……」
床に横たわる少女は咳と共に、口から赤を漏らす。
彼女の胸部には、いくつもの刺し傷があり、細い腕や指は折り曲げられていた。
男のナイフは彼女の心臓に深く、身を沈めている。
少女は激痛に涙を流し小さく息をしては目をつむり、痛みを嫌がって悶えた。
「良い顔だ。実に痛そうだねえ」
男はナイフを抜かず、代わりにナイフの柄を踏んでさらに深く押し込んでいく。
激痛が少女の体を一瞬で支配した。
「あッ!」
少女は痛みに目を見開き、口から濁った声を血と共に吐き出した。
視界がぶれる。
見える物すべてがにじんでいく。
少女の赤い目は、ぶれた視界に色の塊のみを捉えていた。
――おとうさんとおかあさんは、ころされたんだ。
――この人が、ころしたんだ。
四継の思考は動きを速めていく。
喉奥から突き上がる空気は短い息となって四継の口の外へもれ出る。
入りまじる思念の中で、一つの願望が無意識に彼女の頭をよぎった。
――この人を殺さなきゃ。
薄れていく意識の中で消えていく音たちを尻目に、男の笑い声が小さくこだましていく。
やがて少女は、その音さえも聞こえなくなっていった。
視界を白が埋めつくし、捉えていた色の塊すら見えなくなってしまった。
まぶたが徐々に下がっていき、視界は白から黒に変わっていく。
無音の世界で冷感が彼女の体を駆け巡る。
少女のまぶたは完全に閉じ、心臓は音を消した。
* * *
意識が体に流れ込み、自然とまぶたが上がる。
少女が目を開けると、彼女はどこまでも広がる真っ白な世界で立っていた。
少なくとも見える限りでは物体は何一つなく、見上げた先も、見下ろした場所も、ただの白しかない。
そのため、ここが部屋のような一つの空間なのか、天井や地面があるかどうかさえ明確には分からなかった。
ただ少女は、白の上にしっかり足をつけている。
だから少なくとも彼女の下は「足場」と呼んで良いだろう。
先ほど男から与えられた激痛はどこかへ行ってしまっている。
少女は不思議に思い、刺された部分へ目を向けた。
赤く染まっていた服は、元々の色だった白だけになっている。
加えて、いくつもつけられた身体の傷は、破れた服の穴もろともなくなって元に戻っていた。
しばし少女は口を閉じていた。脳内で、「死」という言葉が大きく浮かぶ。
そしてこの世界が、死後の世界なのか、どうなのか。
天国か、地獄か、それともその境目なのか。
――あの男の人は外に出て、皆を襲っているのだろうか。
彼女の思考が錯雑する。
無音の世界は極めて静かだったが、脳内の狂騒のせいで少女は、まるで都会の人混みの中心にいる感覚に襲われていた。
その脳内喧騒を打ち砕くように、彼女の視界に色が出現した。
突然何かが現れ、少女はそちらへ目を向ける。
瞬間、目を見開いた。
「ぱぱ、まま……」
現れたのは彼女の父親と母親――の骸。
男によって元の形を失う前の体躯。
少し遠くの方で、二つの骸は白の上に横たわっていた。
それを目にして、彼女の心臓が激動する。
一歩、少女は右足をゆっくり前へ出した。
少しして今度は左足を前へ。それを繰り返していく。
その繰り返しは徐々に速さを増す。
やがて彼女は親のもとへと辿り着き、その場に崩れた。
少女の目が捉えるのは二人の体の傷のみ。
父親の胸を穿つ刺し傷、母親の首に刻まれた切り傷。
先ほどまでは男によって無惨に砕かれ、原型を失っていた物が明確にそこに鎮座し、少女の記憶を鮮明に呼び覚ました。
父親は男と戦い、母親は少女を守っていた。
しかし父親が苦戦する中、男が少女を守る母親へと狙いを定め、父親は母親を庇い胸をナイフで貫かれた。
母親は臨戦態勢に入り交戦するが、男が狙いを少女へ変え得物を振るった。
母親は彼女を庇い、男の振るった銀の刃は母親の首の肉を裂き大量の血をそこに撒き散らした。
母親は少女を庇い死に、父親は少女を守る母親を庇い死んだ。
もしそこに、彼女がいなければ?
二人は気兼ねなく戦えたかもしれない。
そこに戦えない者がいなければ。
そこに守る必要のある者がいなければ。
二人は死ななかったかもしれない。
少女の思考は渦を巻く。
呼び覚まされた惨劇に遥か底から黒い何かが押し出される。
乱れた思考に入りまじる一つの願い。
それは不確かなものから徐々に、着実に量を増し、形を成していく。
無秩序に侵食し止まることのないソレは――。
『こんにちは、高山四継ちゃん』
「っ……!」
少女の耳元から突如として声が現れた。
思考に意識を捕らわれていた少女は肩を震わせ、慌てて後ろを振り返る。
声は少女を、高山四継と呼んだ。
「え……どうして」
振り返った先に見えたのは、彼女が見慣れたもの。
いつも鏡の前で見る、自分自身の姿。
まるで幽霊のように全体的に薄く透けているが、ソレは確実に、四継だった。
少し長めの黒髪を右側で一つに結い、その両目は血のような赤に染まっている。
自分と同じ人間が現れ、彼女の思考は一瞬停止する。
呆然と目の前のものを見つめ、小さく短い言葉をこぼした。
「さあ、どうしてだろうね? ……そうだねえ、私は君の中にいる。君以外の誰でもないよ」
「わたしの、なか……」
四継と同じような顔をした少女は口もとに人差し指を当てて笑う。
その声すらも、四継と同じだった。
彼女の言葉を受けて四継は、さらに困惑する。
「にしても、可哀想だよねー」
「へ……?」
「その人たちだよ」
何のことか分からない様子の四継に、少女は前へと指を指した。
四継は彼女の指を追うようにその先へと目を移す。
少女が指した先は四継の後ろ、横たわる彼女の両親である。
「可哀想にね。刺されたとき、切られたとき、凄く痛かったんだろうなあ。君を庇って……君がいなかったら? 君がちゃんと自分の身を守ってすぐに逃げていたら? 存在しないとはいかなくても、君があの場に居さえしなければ? ああっ、なんて可哀想な人たちなの!」
「っ……」
四継の後ろで少女はくるくると回り舞い、大きく手を広げては誰に言うでもなく言葉を吐いていく。
かと思えば、動きを止めて祈るように手を組んで哀れみ嘆いた。
叫ぶように大きく吐き出された声は白い世界にこだまする。
広く散乱する彼女の言葉は研がれて四継の心へと降り注いだ。再び四継の心臓が揺さぶられる。
――君の父親と母親は、君が殺したようなものなんだよ。
耳元で囁かれた言葉が、はっきりと形をなして四継の脳へと侵入した。
それに刺激され、先ほど生まれた黒い何かが、再び勢いよく押し出される。
少女は口もとに笑みを浮かべた。最初は薄かった彼女のその手足は、徐々に濃くなっていっている。
やがて普通の人間のように、体全体が明確にそこに現れた。
「でも今の君なら、あの男に痛手を負わせ、復讐することができるよ」
「わたし、が……? でもわたし、しんじゃったと、おもう……」
「うん、そうだよ。君は死んだ。けど、私が手を貸せば、君は力を手に入れられる。そうして手にいれた力で、君はあの男を殺すことができるんだよ。――さあ、どうする?」
「……わたし、やる」
少しの間があって、四継は答えを出した。
低音をまとう声が、はっきりと彼女の意思をそこに示した。
「いい返事だ。力を手にいれるにはそれなりの代価――君に渡してもらわなきゃならないものがある」
「なにをあげればいいの?」
「簡単さ。『痛み』だよ」
「いたみ……?」
「うん。あの男を倒すためには武器になる可視物と、力を強化するための不可視物である『痛み』が必要になる。まあ可視物は既に君の近くにあるだろう」
少女は顎に手を当て、思い出す仕草をして答える。
そして手を離し、四継を見つめて言葉を続ける。
「けど君の場合は五歳。五歳が武器を手にしたところで、あの男には勝てっこないんだ。だから、君自身の力を強化するしかない。そのために痛みが必要なんだ。ちょっとした力がほしいなら少しの痛みを、強い力がほしいなら、激痛を。でも、あの敵は凄く強そうだから、普通よりもさらに多く痛みが必要になる」
「……?」
四継は少女の言うことが途中から分からなくなり、少し困ったように首をかしげた。
少女は小さくため息をついて頭を掻き、彼女に端的に説明してやる。
「んー、簡単に言うと、あの男の人を倒すには、君が物凄く痛い思いをしなくちゃいけないってこと」
少女の声が消え、白い世界は久々に静かになった。
続く沈黙のなか、彼女は四継の答えを待つ。
「……やる」
四継は小さく、だがはっきりと意思を述べた。
「良いの? すっごく痛いよ?」
「それでも、あのおとこの人が、あのまま他の人を傷つけなくなる、なら……」
「……分かった。じゃあ、暴れられるとちょっと困るから、拘束するよ」
少女は四継の手を引き、両親から離れたところで彼女を寝かせて馬乗りになる。
すると下から鉄の輪が伸びてきて四継の両手足に巻き付いた。
その輪は下の白い地面にくっついており四継がもがいても外れない。
どこから降ってきているのかわからない光に、銀の輪が煌めく。
「これは邪魔だから、取るよ」
少女は四継の首につけられていた鉄のチョーカーを指で弾いた。
硬いチョーカーに爪が当たり軽い音がする。
すると分厚いチョーカーに縦のヒビが入り、真っ二つに割れて左右に落ちた。
少女はどこかからナイフを出し手の中で回す。
光るナイフを目にして四継は体を強ばらせる。
しかし止めようとはせず、唇を噛み締めて痛みを待ち構えた。
「じゃあ、やるよ」
少女は一つ声をかけ、ナイフを少女へ振るった。
「っ……! いあぁあああ! っ!!」
初めは腕に突き刺し、勢いよくナイフを抜く。
噴き出た血は四継の服や少女の顔を真っ赤に染める。
走る激痛に四継は大きく声をあげた。
一度叫びが止んだ後も痛みは絶えず体を流れ、四継は声を押さえて何とか耐えようとする。
「あ、は……はあ、っ……」
再びナイフが振られ、光る穂先に四継の恐怖が掻き立てられる。
少女は、今度は胸へと突き刺した。
そしてそのまま奥へ体重をかけてナイフを押し込む。
「……ひ。ぁあああ! っ、っー! げほっ、う、ぅうう!」
容赦ない痛みが押し寄せ、喉から強制的に悲鳴が押し出される。
四継は押し出された声に喉を潰され咳をもらした。
無意識に涙が溢れ出て血や汗と混ざり、彼女の髪や服を濡らしていく。
少女は押し込んだナイフを捻り、体内で無理矢理にでも動かしていく。
本来、彼女のような非力な幼児には出せない力で肉を押し破る。
「あぁあ! げほっ、あ! っ……っ――」
悲鳴と共に喉から血が押し寄せ、口から溢れて頬を伝う。
血は首や、下の白い地面を赤へと変えていった。
四継の意識は徐々に薄れていく。
目の前で光が煌々と輝き視界をぼやけさせる。
ときおり赤が飛び出てはチリッとした痛みのようなものが体を駆け巡った。
自身の息がやけに大きく聞こえ、四継は目の前の少女の顔がしっかりと捉えられなくなっていく。
少女が再びナイフを振るった直後、四継の意識は遮断されてしまった。