プロローグ
あなたは、もし死ねない世界に生まれてきたとしたらどうしますか?
そして、もしその世界で人を殺すことのできる人間だったとしたら――あなたは人を、殺せますか?
* * *
この世界では人間に死の権利はなかった。
寿命などなく、事故や自殺、他殺でさえも人は傷つくだけで、死ねはしなかった。
ただ、この世界の人間は、人を殺すことができる「可殺民」と、その逆で人を殺すことができない「不可殺民」に分かれている。
生きるのが辛くなり死にたくなった時は、『絶命管理機関』と呼ばれる組織に所属している可殺民に、殺してもらうという制度があった。
そうすることで、可殺民は合法的に人を殺すことができた。
「それでは、始めましょうか」
二十代前半ほどの女性は、赤い字で『絶命承諾書』と書かれた書類を手にして言った。彼女は、高山四継。
絶命管理機関に所属する可殺民である。
四継の目の前には、八十路を越えた老婆が座っている。
しわだらけの痩せた手に持つのは一枚の写真のみ。
二人しかいない室内には時計もなく、分厚い壁は外の音を遮断し静寂を作り出している。
天井や床、壁は白く、老婆の座っている椅子ですら真っ白だった。
四継の腰まで伸びた黒い髪や、身にまとう黒服は室内で異物のように、はっきりとその姿を見せている。
首に取り付けている銀の鉄製チョーカーは電光を眩しく反射させていた。
装飾が全くない簡素なそれは、かなり分厚く、まるで奴隷の首輪のようである。
そのチョーカーは、可殺民にのみ着用義務が課せられているものだった。
四継とは反対に、老婆の短い白髪や白装束は室内に溶け込んでいた。
「本当に、良いんですね」
「はい。お願いします」
老婆は問われて、迷いなく答えた。
「……分かりました。では、目をつむり無心になってください」
四継が言うと老婆は彼女の指示通り、静かに目を閉じた。
四継は書類を机に置き、首のチョーカーに手を触れる。
次の瞬間、チョーカーが元の形をなくし銀色の鎌へと変形した。
光を受けて閃閃と輝いているソレは、彼女が持つにはあまりにも大きく、あまりにも凶悪だった。
「来世では、神の御慈悲があらんことを――」
四継は獲物を、老婆に向けて振り下ろした。
鋭い刃は肉を切り裂き、血しぶきが四継と部屋を赤く染めていく。
床に広がる血の海に、老婆の首のない体が沈んだ。
力をなくした老婆の手から写真が落ちる。
写真に写る親子と老夫婦は皆、幸せそうに笑っていた。
「さようなら。優しいおばあさん……」
彼女は小さくつぶやき黙祷を捧げた
――ごめんなさい……ありがとう。
最後に聞こえた言葉は四継の頭の中で響き渡り、しばらく消えてはくれなかった。
四継は絶命作業を終え、遺体を納棺すると鎌をチョーカーへ直し機関の基地の自室に戻った。
赤く染まった服を着替え、淡々と書類仕事に取りかかる。
書類仕事を終えると、彼女はその場で軽く伸びをした。
窓から見える空は、まだ明るい。
四継は部屋から出て基地の外に行き、デパートに向かった。
閑散とした道は徐々に人通りが増え、人々の足音がいっそう大きくなる。
人々が忙しなく行き交うなか、道の端で五歳ほどの少女が一人立っていた。
チョーカーを着けていないため不可殺民だろう、人にぶつからないようにして辺りを見回していた。
四継は彼女のもとに行き声をかけ、しゃがんで視線を合わせる。
「どうしたの? 迷子?」
「うん。お母さんと、はぐれちゃった……」
「そっか……あなたのお名前とお母さんのお名前、教えてくれるかな? お姉さんが探してあげる」
「わたしは真里! おかーさんは志帆だよっ」
「真里ちゃんに志帆さん、ね。お母さんはどんな服着てた?」
「えっと、ね。白と黄色の……」
少女から母親の特徴を聞き、四継は立ち上がって辺りを見回す。
雑踏の中に該当する者がいないことを確認し、少女の手を握って彼女の母親を探しに歩き出した。
「っ、真里!」
しばらく歩いていると近くで少女の名前を呼ぶ声がして、人混みの中から女性が出てきた。
「ママっ!」
少女の言っていた特徴とほとんど合致しているため、おそらく母親だろう。少女はそちらへ駆けていった。
四継はそれを見て微笑み親子が帰るのを見届けようとする。
「ほら、お姉さんにお礼してきなさい」
「はーいっ」
母親に言われ、少女は四継の元に戻ってきた。
四継は戻ってきた彼女を怪訝そうに見つめる。
「? どうしたの?」
「お母さんがお礼だってっ。お姉ちゃん、ありがとうっ! それと……」
少女は、まだ何か言おうと四継に近づいた。
瞬間、四継の腹部に激痛が走る。
彼女が不思議そうにして下を向くと、四継の腹部が赤く染まっていた。
その先、少女の手には――ナイフが握られていた。
「ひとごろし……おばあちゃんを返してよ」
「っ……」
四継は腹部を押さえてその場に倒れ込んだ。
相手が不可殺民なため幸い死にはしないが、激痛に襲われて四継は顔をしかめる。
霞む視界に見えたのは、大喜びで戻っていく少女と、なにも咎めず口元に笑みを浮かべた母親だった。
これは死ねない世界のお話。
とてもつまらない、人間の憎しみと苦痛の物語。