自己中こそ人間?
最近、動画サイトで交通事故の動画を見ました。
タイトルは『煽り運転に仕返しスッキリ』みたいな感じだったと記憶しています。
ノロノロと走ってらっしゃる車の後ろにビタづけしている車がいて、撮影者は距離をとってその後ろを走ってらっしゃるようでした。
やがてビタづけの車が追い越そうと右へ出た時、ノロノロの車がいきなり右折しました。
ビタづけしていた車がぶつかりそうになり、道路からはみ出して壁か何かに激突して止まりました。
これについているコメントが、私が見たところ『すべて』同じようなものでした。
『これはスッキリ!』
『煽り野郎ざまぁ!』
『よくやった!』
私はコメントしませんでしたが、正直みんなの気持ちがわかりませんでした。
事故が起こったのにスッキリしていることがまずわかりません。こういうのを見ると職業柄か、『こうしていれば事故は起こらなかったのに』ということを両方の立場に立って考えてしまいます。
何よりこの動画、私にはどちらの車もが『自己中』にしか見えなかったのです。
そしてどちらがより自己中かと問われれば、迷うことなく私は煽られていた車のほうがより自己中だと答えます。
大体、その動画を見る限りでは、それがほんとうに煽り運転なのかどうかもわかりませんでした。
前の車が常識はずれに遅いから、またペースが速くなったり遅くなったりギクシャクしてるから、後ろの車は車間距離が詰まってしまい、追い越しの機会を覗っていた。見晴らしのいい直線で追い越しに出たらタイミングよく(悪く?)前のノロノロ車がいきなり右折した。
そんな感じにも見えました。
もちろん後ろの車が我慢してついて走るなりしていれば事故は起こらなかったことでしょう。
右側にゆっくりと出てパッシングでもして自車の存在をアピールしておいてから追い越すという手もありますが、こういうノロノロ車にあるあるなこととして、それをバカにされたと勘違いして追い越し妨害に出ることもありえますから難しいです。
とりあえずノロノロ車のほうは、ちゃんとしたウィンカーを出して、右折の時に当然するべき義務として安全確認を行なっていれば、この事故は起こらなかったものでした。
私なら、そのままずっと直進するつもりなら後ろの車を先に行かせます。もうすぐ右折するけどどこで曲がるのかよくわからず迷っているのなら、『ここかな?』というところでいちいちウィンカーを出します。後ろが近くて嫌なのなら『もうすぐ右折する』ということをアピールするため何度も短いウィンカーを出します。大抵はそれでわかって離れてくれるものです。それでも車間距離を取らないなら無視すればいいだけのことです。
道路交通で守るべきものは言うまでもなく、事故を起こさず起こさせず、不必要に渋滞の元にならないこと──つまりは交通全体の『安全』と『円滑』です。
そこにおいて自分の都合を最優先することを『自己中』と言います。
もちろん自分の都合も主張すべきですが、それを最優先してはいけません。
私は自分が2秒待てばそのへん一帯の交通がスムーズになると判断した時には待ちます。
ところが日頃公道を走っていて感じるのは、どなたも自分の都合最優先だな……と。
交差点で延々と右折待ちしている車がいて、直進車が切れたと思ったところに平気で脇のコンビニから出てきて右折待ちを継続させようとする車とかよく見ます。私ならまず右折車が右折する空きを作ります。私がコンビニから出るのを2秒待てばいいだけのことです。
動画で見たノロノロ車は『自分がもうすぐ右折するからスピードを出す必要がなく、ゆえに常識はずれに遅く走っていた』『自分が曲がるところだから周囲の危険も確認せずウィンカーを出すなり(あるいは出さずに)右折した』というのなら、これは完全に自分の都合最優先、つまりは自己中です。
自分が不快な目にあったからといって、不快にさせた相手の車に『ざまぁ』しようとは私は思いません。
それは交通全体の安全と円滑を阻害する行為になります。
それでは自己中最優先の相手の車と同じ土俵に上がることになり、もしそれで事故が起こってしまったら、自己中が原因で事故を起こしてしまったことになります。
件の動画を見て『スッキリした』と仰る方々は、自己中を支持しているという一点だけを見ても、同じ自己中なのではないかと私には思えました。
最近『なろう』で読んだ小説が2作品続けてその事故動画を思い起こさせるものでした。
一つは大好きな相互さんの作品です。
汚い大人たちに母親を凌辱されて殺され、中学生女子である自分も犯されて妊娠させられ、しかし汚い大人に社会的権力があるばかりに警察に事件をもみ消され、『呪い』を駆使して自力で復讐をするというもの。
作者さんは『復讐は何も産まない』というよくあることばを否定する言葉を主人公に語らせますが、それで中学生女子は次々と男と関係をもち、次々と子供を産み、産んだ赤ん坊を呪いのための生贄として殺します。結局不幸を周囲にまき散らし自分も不幸になっただけで、やはり何も産まなかったのです。
自分の復讐のために憎い相手のみならず幼い命を次々と殺す……。
まぁ、それでしっかり呪いは発動しましたし、そうでもしないと汚い大人たちは権力をいいことにやりたい放題だったので、新たな被害者が出ない平和を産んだともいえますが、やはり赤ん坊たちが不憫です。
しかも女子中学生はそんな新たな被害者となる女の子たちのことを考えてではなく、ただ自分の復讐のために、自分が産んだ赤ん坊を何人も殺したのです。
どうしても復讐したいにしろ、赤ん坊を殺さなくても出来る方法はなかったのでしょうか。
もう一作品はランキングに長いこと乗っている人気作品です。
顔に醜い痣をもって産まれたために忌み嫌われる女の子が主人公です。両親は痣がないだけでそっくりの妹ばかりを可愛がり、主人公を精神的に痛めつけます。
やがて主人公は女神の生まれ変わりであり、顔の痣がその証だということが判明します。
彼女を精神的に痛めつけた両親も妹も周囲の人々も、手のひらを返したように主人公を持ち上げはじめます。みにくいアヒルの子かシンデレラかといった感じです。
『私たちの育て方がよかったのです』とか豪語する両親に、主人公は復讐を企てます。『あなたたちの育て方で娘がどんなふうに育ったか、見せてあげる』というわけです。
これ以上はネタバレになるので書きませんが、彼女は何をされても笑っている慈悲深き『女神』などでは既になく、自分の黒い憎しみに突き動かされる『人間』だったのです。
結局、彼女も、彼女を精神的に痛めつけた人間どもと同じだったのです。
醜い精神性に対し、同じく醜い精神性でやり返す。
けっしてそこから外れて女神になることは出来なかったのです。
作者さんはそれを『人間であることのかなしみ』として描いていたように思い、★5をつけました。
自己中こそが人間なのでしょうか。
自分の復讐のために周囲を不幸にし、関係ない人たちまで巻き込んでしまうやり方でこそ、人間はスッキリするのでしょうか。
なんだかやりきれなくなりました。