43話 仮面の女
「オモヒカネっていうのは――」
声をあげたのは深月だった。
テーブルを挟んで九十九の前に深月が、そしてさきほどテーブルが出てきた奥の障子を背後に、ロマンが片膝を立てて座っていた。
「日本神話に出てくる知恵の神様よ。思金神とか、常世思金神とか呼ばれてる」
静かな和室は、久々に清浄な空気に満ちている気がした。
九十九が頷く。その目線は、続きを促すように深月の目を向いたままだ。
「神様って、火や水や、岩みたいな自然現象とか、船や食物みたいなものが多いんだけど……。オモヒカネは、そのなかでも『知恵』っていう目に見えないものを司っている珍しい部類ね。天岩戸の話は知っている?」
「さあ、どうだったか」と肩を竦めるロマン。
「弟の狼藉に嫌気が差したアマテラスが、天岩戸に閉じこもったって話よ。知らない? 太陽が隠れてしまって、世界は闇に覆われた。そのときに、知恵を出したのがオモヒカネ」
「……宴会をした、というような話じゃなかったか?」
「その宴会をしようって知恵を出したんですよ」
九十九がそう言い添えた。
深月が頷き、また口を開く。
「作戦を練ったってこと。現実的には、これは皆既日食のことじゃないかって言われてたんだけど……」
深月は言葉の途中で九十九を見返す。
「そのオモヒカネが『学者』なの?」
「ええ。そのとおりです」
九十九が頷くと、ロマンの目が僅かに鋭くなった。
それは異形ではないのか、と、ロマンが口にする前に、深月が先に尋ねる。
「知恵の神様が実際にいるってこと? それとも、知識に特化した異形をオモヒカネって呼んでるの?」
「好きなようにとらえてもらって構いませんよ。いまはね」
九十九はニコリと笑った。
「実際に見てみないと、信じられないでしょうから」
まるでここにいるのは本物のオモヒカネである――そう言いたげでもあった。深月はその笑みに少しだけ気圧されて、すぐには何も返せなかった。
「どちらにせよオモヒカネはこの屋敷の地下から動けません。せいぜい屋敷の中に触手を伸ばす程度です。それでも、僕らにとっては無くてはならない存在ですから」
九十九はそこまで言うと、一旦言葉を切ってから咳払いをした。
「……それでですね。僕らが何をしてほしいかというと――」
すべて言い終わる前に、言葉と同時に動いたのはロマンだった。
目の前を影が駆け抜け、音がしたと思ったときにはもう、テーブルの上に罅が入り、足が乗った形跡が一つきり。
外に続く障子が開け放たれた音に目線が追いついたときには、ロマンの両方の腕が全裸の女の頭を掴んでいるのが見えた。
「……困ったことに、ここは定期的に襲撃を受けているんです」
噛みつく暇も与えず、勢いよく胸の前で頭同士をかち合わせる。その豪腕によって互いの頭が顔全体で口付け、潰し合い、ぶじゅりと音をさせて、女のつけていた仮面のようなものが崩れ果てて地面に落ちる。
悲鳴さえあげる暇が無いまま、女たちの顔はぐじゅぐじゅと潰し合わされ、あっという間に赤いジュースと肉片を地面に滴らせた。ロマンの両手が柏手でも打つようにバチンと合わさると、力を失った女の体がぐったりと動かなくなった。
その様子を、生け垣や地面から女たちが警戒するように眺めていた。
女たちは、みなぐっしょりと全身濡れていた。潮の匂いをさせ、長い髪をぴったりと体に張り付かせたまま、四つ足で地を這い移動していた。顔の上半分は笑ったおかめの仮面がついていて、下半分は三日月のように左右に伸びた口だけが笑っていた。その口の中からは蛇のような先端の細い長い舌が、ちろちろと覗いている。
女だとわかったのは、胸にそれぞれ二つの膨らみがあり、股は何もぶら下がっていないからだ。だが、その股の間はつるりとしていて、本来存在すべき穴は何も無かった。
ロマンはぐったりとした女をひとつ投げ捨てると、鋭い目線を向けた。
「……来い」
それを合図に、女たちがロマンに群がった。
もうひとつの死体を振り回し、最初に飛びかかってきた女の胸の間に貫通させると、貫通した女ごと死体をかなぐり捨てる。
「彼女らの撃退をお願いしたかったんですけど……」
「狙いは、オモヒカネなの?」
「だと思うのですが、いまいちはっきりしません」
首を振る。少し困ったようなその表情に嘘は無いようだ。
「まあ、そうね。異形の行動原理っていろいろだもの」
九十九は改めて深月を見ると、姿勢を正した。
「……できれば、根本的な解決もお願いしたい」
「もし、解決できたら?」
「……そうですね……。この世界のことについて、貴女の知りたいことを答えましょう」
外で女の金切り声が響き渡る。ロマンによって解体されていく痛みに声をあげているのだ。
深月はその声に少しだけ眉を顰めてから、九十九を見返した。
「……わかった。でも、何かヒントになるようなことは無いの? あいつらの王を狩ったとか、巣を駆除したとか……」
「ありませんよそんなの! だいたい、オモヒカネだって頭脳専門ですから、戦えないんです! ただ……」
「ただ?」
「少し、不可解な事を言われたことがあって……」
「それは?」
「僕らに対して、『姿を返せ』……と」
「……姿を返せ?」
今度こそ、深月もその言葉の意味をはかりかねた。
そのころ、外ではロマンが指先を異形の喉奥へと突き立てていた。大きく開いたあぎとの中で、女の喉がごくりごくりと指先ごと呑み込もうとする。ロマンが一瞬眉を顰めたその瞬間、もう片方の腕に女が噛みついた。
――こいつら。
少しばかり隙を見せすぎた。いまさら後ろの剣を取るにも、腕が足りない。
なにか武器があれば面倒なことにならない。
いや――。
――鬼になることを望んだなら、わかるだろう!?
頭の片隅に、忌々しい声が木霊した。こんな奴らなど、まったく相手にならない。黒刃を使うほどでもない。だというのに、わざわざ邪魔しやがって――。
ロマンの瞳が不意に見開いた。
腕を喉奥へと更に押し込む。肘まで喰われかけていた腕が、ぐんと伸びる感触があった。指先が拗くれて絡み合い、長い触手か槍のごとく体を貫いていく。もはや本来の腕の長さを超越し、体を串刺しにしていく。
「おぼおおおおおっ!」
異形の悲鳴が轟く。やがて異形の尻の間からぷつっと小さな音をさせたかと思うと、性器すら存在しないつるりとした足の間に大穴を開けた。いくつもの触手が絡み合い、指先で一本に絡み合ったドリルの先から、ぼたぼたと血と肉が地面に流れ落ちる。
「おごおっ……ごっ! ごぼっ……」
ロマンの腕で串刺しとなった異形は、びくびくと体を痙攣させてもがく。まだ生きている。ロマンは暫くそれを眺めた後で、再び腕に力を込めた。捻れた触手の端々から、長い爪のような棘が伸びた。今度は腕を一気に引き抜く。棘が異形の腹の中をずたずたに引き裂いていった。
ロマンが口の中から腕を引き抜いた時には、触手は収束し、あとには人とほぼ変わらない腕が――血にまみれた腕が――そこにあるばかりだった。




