38話 人と鬼の境界線
「うぐっ……うっ」
耳を押さえた指先から血を流す深月を横目に、脂肪の塊のようなものを見る。
木魚達磨。
確かに木魚のようでもある。達磨といえば達磨だ。昔、何かで聞いたようなことがある。外国の店で更衣室に入った女が攫われ、手足を切り落とされて達磨として見世物にされる、というような都市伝説だった。本当かどうかはわからないが、手足が退化しきり、胴体だけの体は達磨にそっくりと言っていいだろう。
――だが何故こいつだけ……。
そこまで考えて、当たり前のことに気が付いた。
――……いや違う。こいつだけ、なんじゃない。俺が……。
以前より強化されている。
ただそれだけのことだ。人間では許容できないレベルの覚醒刺激も、ただ少し耳鳴りがするという程度のことに抑えられてしまっている。心当たりといえば、前回、耳を自らぶち壊してその間に再生させただけだ。
たったあれだけのことで。
――……俺はあいつとは違う。俺は人間では、ない。
人間の反応はいまの深月のようなものである。自分に言い聞かせるようにぐっと心に刻みこむ。忘れるところだった。ロマンは左右に大きく揺れている肉の塊を見やると、勢いよく飛び出した。
ぶよぶよとした厚い脂肪についている瞳目がけて、鉄パイプを叩き込む。近くで見ると、複眼のように網目状のそれが見えた。深月は行動不能になっていて正解だったかもしれない。瞳を割りながらぶぢりと入り込んでいく鉄パイプを、片手に力をこめて奥のほうまで押し込むと、ぐりぐりとかき回してやった。割れた眼球から液体が飛び散る。手足が無いぶん邪魔をされなくて助かった。だが、口となると話は別だ。牙の並ぶあぎとを開いた頭に向け、腕を思い切り引く。首の無い頭に向け、勢いよく殴りつけた。頬の脂肪のぐんにゃりとした感触と、確実に骨を叩きつけた堅さを感じた。脂肪の塊は衝撃でバランスを崩してひっくり返る。ばらばらとなにか小さなものが落ちてきたのをちらりと見ると、割れた歯だった。
すぐさま倒れた達磨に飛ぶと、赤く腫れ上がった顔面に向けてもう一発右の拳を叩き込んだ。ごじゃっ、とどこか血を含んだ固い音がする。鼻がへし折れたようだった。もう一発。ぐるぐるとどこを見ているかわからない目が僅かに浮き上がった。更に一発。二発。三発目の前に、血まみれになったあぎとが愚かにも噛みついてこようとした。残った最後の鉄パイプを喉奥へ突き込んでやる。ぎちぎちと鉄パイプを地面に突き刺すようにすると、喉奥を通った棒きれは地面とつなぎ合わされた。少しばかり邪魔になったが、ようやく三発目を叩き込んだ。眼球に直接拳が入ってしまったのか、ぶじゃりと音を立てて潰れた。
びくびくと脂肪を揺らす達磨。
衝動が内側から駆け上ってくる。このまま瞳を引きずり出し、脳をかき回してやる。血を浴び、肉を喰らい、内臓を引きずり出して我が糧としてくれる……。
暗い欲望が形になろうとしたとき、背後から声が聞こえた。
「……ロ、マン……」
はたと我に返る。後ろのほうで、倒れ伏した深月がロマンを探していた。
なるほど。早く仕留めなければ制限時間が来てしまう。悠長に異形で遊んでいる暇は無いのだ。
といってももはや声を出せるかどうかというところだが、念には念を入れた方がいいだろう。
ロマンは血まみれの手で黒刃を抜くと、厚い脂肪の隙間に黒刃を突き刺した。あれほど中のほうも蹂躙してやったというのに、心臓には到達していなかったらしい。ここの階層の異形は厚い脂肪で自らを守っているのではないかとすら思えてくる。それにしたって邪魔でしかないし、人間だってここまでにはならないだろうが。
苦労して何度か脂肪をカットすると、神経に繋がれたそれらしきものがずるりと内側から引きずり出された。心臓というには奇妙だった。赤い血にまみれた肉の塊のようなものが出てきて、それがドクドクと波打っているのだ。
心臓まで脂肪まみれだったらしいが、むしろこれは肉に守られていたといったほうがいいだろう。
ロマンはなんの感慨もなくそれを地面に落とすと、そのままぶちゃりと踏み潰した。少しだけいつもより肉が多い気がしたが、ほとんど同じ感触がした。
心臓を踏み潰したことで、木魚達磨の生命も尽きたようだった。ときおりぴくぴくと筋肉が動いてはいるが、それもじきにおさまるだろう。
ロマンは黒刃を振って、液体を飛ばした。
――……。
あの衝動はなんだったのだろう、と少しだけ思う。
――……いや……、当然か。
自分は鬼なのだから。
人を喰らおうが、異形を喰らおうが、それがどうしたというのだろう。人間どもだって、同じ人間を食って生き延びている。いまはそういう時代だ。それが正しいことなのだ。
少しばかり本物の人間と一緒にいたせいで、自分が人間だと錯覚しかけていただけなのだ。そうに違いないと、自らを戒める。
そこまで答えを出すと、後ろを振り向いて本物の人間を見た。
深月は地面に転がっていて、耳から相変わらず血を流していた。これはどうすべきなのかと、一瞬判断に迷う。
このまま深月が死ねば、自分の拘束も解かれるだろう。人間ひとりここで死んだからといって、だからといって何なのだ。
――それとも、死んでいるのか……。
ロマンは足を踏み出し、深月にそっと近寄った。小さくその肩が揺れている。まだ生きてはいる。脳をやられる感覚は知っているつもりだが、ただの人間ではもはやどうしようもできないかもしれない。
「おい、生きてるか」
その横で片膝をつき、肩を揺さぶろうとしたそのときだった。
「いや、驚いた。強いね、きみ」
不意に届いた声に、ロマンは振り返った。
勢いよく立ち上がり、黒刃に手をかける。
「そう警戒しないで! 彼女をなんとか治療したいんじゃないか?」
「……誰だ。姿を現せ」
ロマンは表情を変えず、黒刃に手をかけたまま言った。
ガサガサと木々が鳴り、入り口を隠していた植物をかきわけて誰かが入ってくる。ロマンはしばし睨むようにそこを見ていたが、その表情の眉間にだんだんと皺が寄り、戸惑いの色すら浮かんだ。
「えーっと……やあ、でいいかな?」
なんとも言いがたい表情で、入ってきた人物をまじまじと見つめる。
予想よりも小さなその姿は、深月よりも小さな子供と言ってよかった。だがその姿は、見るからに異常だ。なにしろ頭からは黄色い三角の獣の耳を生やし、衣服はどこぞのファンタジックな巫女のようで、赤い袴から見えるふさふさとした黄色い尾は、ゆらりと揺れている。いわゆる美少女の類でもあるが、こんなところで会うようなものでは無い。
「……」
ロマンは黙り込んだ。目が困惑に見開き、頭に大量の疑問符さえ浮かぶ。
当然だ。
人体を醜悪に歪めたような異形が数多く存在しているこの世界で、これほど「それらしい」生物にはいまだお目にかかったことがない。
どちらかといえば二次元やゲームの中でしかお目にかかれないような――ある意味でふざけた見た目の――生物に出会うとは思ってもみなかったのだ。だが生物かどうかも怪しい。それは実際に、コンピュータで作り上げられたような、バーチャルめいた見た目をしていたのだから。つまり、生きた人間ですらないのだ。そんなものが近くにそれらしい機械もないまま立って動いて歩いているのだから、唖然とするのも仕方が無い。
「僕の顔に何かついてる?」
そう言う『彼女』に対して、深月が震えたまま顔をあげた。
ぜえ、と肩で息をしつつ、深月は名を呼ぶ。
「……ロマン……」
「なんだ」
「……あの子から、男の人の声がする……」
「そこじゃないだろ」
そんなことを言っている場合ではないのだ。




