18話 無人電車が残る駅
あとに残ったのはジェシカだけだった。
あれだけ息巻いていた男たちも、ついぞ帰ってこなかった。ジェシカはあまりの惨状に、嘔吐はしないまでも茫然としたまま動かなかった。
「こういうのもいる、ということだ」
ロマンが深月に言うと、微妙な顔をした。
「……普通の人だと思ったのよ」
「普通、とやらに飢えすぎなんだ。現実を見ろ」
これが現実だ。
もはや取り戻せないほど過去になってしまった。
「神を殺したとして、お前が望むものが返ってくるとは限らん」
ロマンは肉塊を眺めた。ややピンク色がかった肉塊からは、あちこちから髪の毛のようなものが生えていた。ぴくっぴくっと筋肉だったものが蠢いてはいるが、もはや何か感じているのかどうかさえ定かではない。ロマンは肉塊を蹴飛ばした。いずれ異形どもの餌食になって消えてしまうものだ。
「……知ってるわ」
深月はそれだけ言った。
「少し寄り道しただけ」
「そうかい」
そういうことにしておいた。
ジェシカが顔をあげて、二人を見て呟いた。
「アンタたちは……あれを殺そうというのか……?」
ロマンがジェシカへと視線を送る。
「あの……神を……。赤ん坊、みたいなあれを……」
あれがなんなのか、本当は誰にもわからない。
頭を悩ませる学者たちはいなくなってしまったし、調査を指示する政府ももうどこにも無い。ただ誰かが神だと言い出し、それを信じる者もいる。
「……あなたも来る?」
深月の誘いに、ジェシカは少しだけ躊躇した。
「いや……、ひとまずキャンプに戻るよ。誰か戻っているかもしれないし……」
「そう……。それじゃあ、気をつけて」
それだけだった。
深月とロマンは使えそうなものだけ拝借して、あとは朽ちるままに任せた。といってもそれほど増えたものはない。ジェシカが心を落ち着かせるのと同じくらいの時間だった。あとにはもうハイエナのような異形だけが、三人がいなくなるのをいまかいまかと待ち望んでいた。
二人と一人は、互いに別々の方向へと歩き始めた。
ジェシカは二人を見送ったあとに、なんとか気持ちを切り替えようとしていた。
ダニーがいなくなってしまった以上、自分がここにいる理由は無いと悟っていた。かといって、ダニーがいなくなったいま、どこに行けばいいのかもわからなかった。
――私は……。もしかすると……。
ダニーを殺す、という目的だけを心の頼りにしていたのかもしれない。これから何をして生きていけばいいのか、まったくわからなかった。
仲間だったダニー。ヒーラーだった仲間。そして異形に堕ちた人間。白人は異形にならないなどという根拠の無い自信は、とうの昔にえぐり取られてしまった。それでも仲間であった以上、その責任は取らねばならないと、何故か思い込んでいた。
――帰る……? どこへ?
もはや軍も無い。軍人の生き残りは多くいるが、軍そのものはもはや存在しない。なにしろ国ごと滅びてしまったのだから。
あの二人についていけば、何かが変わったかもしれない。
立ち止まり、地面を見る。
あの二人はこの事態を引き起こした――と言われている――神、と呼ばれる冒涜的な存在を殺しに行くために、この先へ行くと言った。
あんなものが神であってたまるはずがない。日本には八百万の神々の観念があることは知っているが、けれどそれはかつての精霊崇拝のようなものだとジェシカは理解していた。自分が信仰する神とは別の形のなにかだ。
ならば、不届きな神を殺すべきではないか。
神を名乗り、神を気取り、神のように世界を作り替えようとした。そんな不届きな存在は生かしてはおけないのではないか。ジェシカにとっての神は、一神教のそれだけだ。ジェシカはただの信徒であり、冥宮出現以前だって生活習慣の一部という程度にしか思っていなかった。
だがいまは、それにすら縋りたかった。
ジェシカは勢いよく振り返った。あの二人に追いつくために。いまならまだ間に合うかもしれない、という期待を胸に。
だが、目の前に立っていた真っ黒な体を見て、たたらを踏んだ。
「あ――」
立ち止まってはいけなかった。
動揺してはいけなかった。
ここは冥宮なのだ。冥府へと続くかのような、巨大な迷いの宮殿。
ジェシカの視界には三列に並んだ歯が迫り、一歩も動けぬままに真っ暗になった。首に痛みが走ったと思った次の瞬間には、もうジェシカは何も考えることない暗闇へと落ちていった。
*
ロマンと深月は、第二階層へ着実に近づいていた。
再び壁に出現しはじめた絵文字は、何度も塗り直された跡があった。
「報告によると、この先、第二階層に行くのに電車が通ってるみたいね」
「正気か」
「正気よ」
そんなところで正気を疑われても困る。
もう、正気であろうがそうでなかろうが関係ないのだが。
「少なくとも、二年くらい前までは使ってたみたいね。第二階層には生き残りが作った集落だか、街だかがあるって言ったでしょ」
「移動に使ってたのか」
「今はどうなってるかわからないから、運だけどね」
『太陽の子』や軍隊が使っていたようだ。何故電気が通っているのか――については相変わらず考えないようにされていたらしいが。
二人は改札を通ると、右手側にある階段をのぼっていった。階段の上にはボロボロのひさしがあり、地上に存在していた面影があった。
「ああ、ほら。駅でしょ」
深月はホームを指さして言った。
確かにそこは駅だった。
「どこの駅なんだ、これは」
なにしろ全体が暗い建物内にあり、見ただけでは地下鉄と変わりなかった。上にはひさしがあり、もともとは外にあった駅だ、というのがわかるだけだ。柱にあったであろう駅名看板は外されてしまったらしい。
小さなコンビニの跡は略奪されて久しく、喫煙所か待合室と思しき場所には生活の跡があった。人の気配は無い代わり、くすんだ硝子の内側には黒く変色した血の跡が飛び散ってそのままになっている。
だがそんな場所であるのに、不思議なことに電車がとまっていた。
二人を待ち受けているかのように、プシュウ、と音を立てて、ひとりでにドアが開く。
「……案外、これも誰かの力だったりしてね」
「そうかもしれないな」
運転席には誰もいない。カチャカチャとひとりでに動いている。それどころか、勝手に改造が施された電車の中には、広告はすべて切り取られ、代わりに第二階層行き、とご丁寧に書かれていた。
二人は開いたドアの中に乗り込んだ。古いソファが並ぶだけで、あとは何も無い。
「電車と化した奴がいても驚かない」
「ええ」
二人が古いソファに座ると、再びドアが閉まった。
懐かしい発車音がすると、電車はゆっくりと動き出した。




