104話 地底より
上空に跳躍したロマンは、近くにあった巨大な人骨の上へと着地した。ずいぶん深く突き刺さっているか、その大きさゆえに上に乗っても安定していた。深月がぎゅっと閉じていた目を開くと、眼下にそれは見えた。
八十神の――もとい、ヤソマガツヒの姿は、なおも膨張しようとしていた。びきびきと音をたて、周囲に散らばっていた肉が引き寄せられる。
「なんだ。なにをしてる?」
「わからない。けど……これって……」
死んだ肉塊がヤソマガツヒの体を覆いだすと、その姿は更に膨張していった。
「あたりの肉を……ヒルコの肉を取り込んでる?」
肉塊が蠢き、それと同時に肉塊の下にあった地面が蠢いた。地面が泥と化し、次第に沼のようになっていく。
『これは……』
そう呟く九十九の頭の中では、複数の事象が同時に処理されていた。他の端末からの緊急信号がうるさいくらいに警鐘を鳴らし続けている。端末である自分に送られてくる映像のひとつには、地上の風景が映し出されている。
かつて海があった場所が、蠢いていた。
*
太陽を失った世界は暗く沈んでいた。
小さな集落を作れる人間はごくわずか。あちこちで火災が起きては鎮まり、かつての繁栄の跡を血と肉と泥が覆っている。残り少ない資源を巡り、殺人に手を染めた人々だけが生き残り、殺し合っている世界。
その世界の干上がった海の泥の中で、沈みかけた戦車がわずかに揺れていた。ごぽごぽと勢いを増す泥の中に沈んでいく。朽ちているとはいえ、鉄でできたその車体が泥の中でその姿を崩し、溶けるように形をなくしていった。
泥が、かつての海であった場所を少しずつ埋めていく。異形たちが海から離れてなりを潜めるのに対して、その様子を訝しげに見つめる人間もいた。特に、海底でかつての資源を探していた者たちが最初の異変に気がついた。
「なんだ、こりゃ」
「泥が増えてる?」
不思議そうに泥に触れた男の指先が、どろりと溶けた。
最初は何が起きたかわからなかった。だがたちまちに悲鳴が起きた。後ろで見ていた他の男も逃げ出し、海から迫る泥沼から逃げようと必死に走り出した。
「待てっ、待ってくれ。助けてくれぇ」
最初に泥に触れた者の悲鳴が響く。
「待って、待っ」
パニックになった男の手の先が人間の形を失い、ぎゅんとゴムか鞭のように伸びた。そうして、先を逃げる男の肩につかみかかった。手は既にイヌかオオカミの口のように変形し、ばきゅんと肩を食いちぎった。
再び悲鳴があがる。
「ああっ、あっ、あーっ!!」
急激な異形化に精神が耐えきれず、恐怖から手を遠くへやろうとする。変異はその肩へと迫ったかと思うと、一気に全身が崩壊した。人としての体は崩れ果て、肉塊のスライムのように地面にべったりと崩れ落ちる。居場所を失った目玉だけが肉塊に浮かび、着ていたはずの服の中から這い出す。どこからかあーあーと奇声を発しながら泥から逃げ延びようとする。
手を伸ばしたものの、その姿がゆっくりと泥に飲み込まれていく。肉塊は泥に触れるとぼこぼこと膨張し、何度もその姿を変化させたが、やがて黒く変色すると、変化もやんだ。目玉ごと泥に飲み込まれるように同化し、完全にわからなくなった。
*
『……まずいぞ二人とも。いろんなところで泥が増えてる……』
九十九にとっては、数分程度の動画を数秒で流した感覚だった。だが、他の端末からどんどんと異変が送られてくるものだから、たまったものではない。ただの端末に過ぎないのに、頭痛として認識できそうだ。
「泥って……」
『原初の泥だ! 世界の材料にして最初の混沌! あいつ、この世界ごとぜんぶ作り替えるつもりだ!』
そう叫ぶ九十九をよそに、ロマンはじっと下を見つめていた。
その視線の先には、ヤソマガツヒがいる。
「……愛する者のいない世界に用はない……」
ロマンがぽつりと呟くと、深月は意外そうに目を見開いた。
いっそ聞き間違いかと思うくらいだった。ロマンはいえば、さっきの言葉など幻聴であったかのような目線で言った。
「あいつが山田総一郎であるか、ヤソマガツヒであるかなんてどうでもいい。奴を殺せばいいんだろう」
「……ええ、そう――そうね」
骨の直下の肉が動き始め、その下で泥がうごめき始めた。
その中心にいるヤソマガツヒの体は、変形しはじめている。
「あいつを殺して。ロマン」
「――わかった」
ロマンは深月を骨の上に下ろすと、勢いよく跳躍した。蠢く肉と泥を避けるように、浮かんだ骨の上を足場にしてヤソマガツヒのところへと向かっていく。
背中の黒刃を引き抜くと、最後に力強く跳躍した。
上段からの黒い糸を描いた一撃が、ヤソマガツヒにたたき込まれる。骨にまとわりついた肉をえぐり取り、返す刀で眼窩の中の赤い光に向けて突き刺す。
「ぎゃあああああああ」
ヤソマガツヒのものではない悲鳴がいくつも轟いた。
それどころか、頭蓋骨にまとわりついた肉にも悲痛な表情をした顔が浮かびあがり、そして消えていく。不気味という以外に言葉がない。
「あ、はは、はははは」
笑い声が近くでした。
巨大な腕が肉の塊の中から飛び出し、ロマンの足を掴んだ。
「ようこそ、ロマン君」




