辺境伯領にて
辺境伯領でのセシリアの暮らしは、穏やかなものだった。
祖父はもちろん、子供が男の子二人の伯父夫婦も娘が出来たと毎日猫かわいがりしてくれ、従兄達も侯爵家から逃げ出してきたセシリアを無下にすることなく、なんやかんやと気を遣うどころか、むしろ溺愛といっても過言ではない程大切にしてくれている。
ここ数年の父親の仕打ちから最初は戸惑っていたセシリアも、今では辺境伯家にすっかり馴染んでしまっていた。
ちなみにセシリアと一緒にウェールズ侯爵家から出奔した執事と三人の侍女は、辺境伯家でもセシリア付きとなり、よく仕えてくれている。倒れた庭師の男もすっかり回復し、外出する時は護衛として同行してくれるようになっていた。
侯爵家を逃げ出してから三ヶ月、まだカインへの恋慕が消えたわけではないが、セシリアの気持ちは徐々に落ち着きを取り戻していた。
そんな頃、ドルトン辺境伯宛に王宮から呼び出しがかかる。
内容はセシリアがウェールズ侯爵家の資産を横領し出奔したため、養い親となったドルトン辺境伯へ返金と慰謝料を要求するという訴えを父親であるウェールズ侯爵が起こしたことに対し、王太子が詮議するということだった。
手紙を検め横領など事実無根だと青褪めるセシリアに、祖父は静かに言い放つ。
「セシリア、そろそろ覚悟を決める時がきたようだ。自分や大切な者を守るため人は時に非情な決断をしなければならない。お前は父を捨てられるか?」
問われた言葉を理解するのに、息をするのも忘れて数秒立ち尽くしたセシリアだったが、やがて気持ちを落ちつかせるように深呼吸をすると、静かに頷く。
「父のことが大好きでした。母が亡くなるまで父は本当に私を愛してくれていたのです。けれど、もう父の愛は私に向くことはないのでしょう。あの日、ウェールズ侯爵家を出奔した時に私は父を捨て、永遠に縁を切りました。本当はもう関わり合いになりたくない……けれど父が、全てを捨てた私から安寧の地まで取り上げるというのであれば、私は容赦をいたしません。ですが、そのことでお祖父様や伯父様達にまでご迷惑をかけてしまうのは、本意ではありません」
「お前は、本当にもう少し周りを頼ることを覚えた方がいいな……いや、あの環境では仕方なかったか。儂らのことならば心配無用だ。なぁに、あの阿呆どもには、そろそろ鉄槌を下す頃合いだと思っていたのだ。向こうから仕掛けてくるならば受けて立つ。我がドルトン辺境伯家にケンカを売ったこと、死ぬまで後悔させてやろう。儂の可愛い孫娘をこれ以上傷つけることは断じて許さん!」
覚悟を決めながらも迷うように瞳を彷徨わせたセシリアに、祖父は少しだけ眉尻を下げると、まるで魔獣でも狩るように黒い笑顔で呟いた。
その笑顔を横合いから伯父がピシャリとねめつける。
「当たり前です。本当はカトレアが亡くなってすぐに我が家で引き取ろうとしたのを、父上がセシリアの当主としての適性を見るとか言い出すから、あんな家にいつまでも囚われていたんじゃないですか! セシリアは昔はこんなに遠慮する子供ではなかったのに、私の無邪気な姪を返してほしいものです。勿論遠慮をするセシリアも可愛いですが!」
「そうですわ! こんなに可愛いセシリアちゃんを、あんなにやつれるまで放っておくなんて情けなくて涙が出ましたよ! お義父様の命令なんて聞かずにさっさと助け出していればと何度後悔したことか! うちの脳筋息子達ならともかく、セシリアちゃんは女の子なんですからね!」
「脳筋息子ですが、母上と同意見です。俺の激烈可愛い従妹を放っておいたジジ様には殺意が湧きました。ウェールズ侯爵に鉄槌を下す前に、俺にグサっと殺られないように気をつけてくださいね」
「脳筋息子その2にも気を抜かないでくださいよ? 隙がないから殺らなかっただけで、超絶可愛い従妹を傷つけた輩は、たとえ肉親だろうが何だろうがフルボッコって決まってますから」
セシリアの頭を撫でながら伯父に追随する夫人と二人の従兄に、祖父が顔を引き攣らせる。
「お前ら……道理で最近、魔獣の気配もないのに殺気がすると思っておったわ」
孫二人からの笑顔の脅し文句にドルトン辺境伯は苦笑して肩を竦めてみせるが、その肩にポンっと手を置いた伯父が笑顔でブリザードを撒き散らした。
「息子達に殺られたくなかったら、今度こそセシリアを守ってくださいよ? 本当は私も王都へ同行したいのですが、父上が不在の間は次期辺境伯として隣国への警戒と魔獣駆除の役目をしなければなりませんから、不本意ながら息子達と留守番をしてあげます。最近隣国から盗賊どもが紛れ込んできて治安も悪いですしね。ああ、くそ、ままならない身分が恨めしい。いっそ辺境伯なんか継ぐのやめようかな……」
「父上、ジジ様がしくじったら盗賊に魔獣を放って、生きながら食われる地獄と追いかけ回される恐怖を味わわせながら王都へ向かわせればいい。盗賊を食らった後の魔獣に蹂躙されるだろうが、セシリアを不当に扱うような国ならば、俺達が守ってやる道理はない」
「そうだね。セシリアを襲った盗賊は切り刻まれたらしいけど、侯爵家だろうが王家だろうが、俺の従妹に危害を加えたらどうなるか、身を以てこの国の者達に教えてやればいい。あ、いっそ今からみんなで一緒に王都へ乗り込んじゃえばセシリアが傷つく憂いもなくなるかな?」
「あら、いいわねソレ。脳筋息子もたまにはいいこと言うじゃない! 辺境伯の責務なんて放っぽりだして、みんなでセシリアちゃんを擁護しに行きましょ? ドルトン辺境伯家総出プラス魔獣と隣国盗賊のオマケつきで押しかけたら、明らかに冤罪の詮議なんて必要ないって解るんじゃなくて?」
ヒートアップし、とんでもないことを言い始めた伯父一家をセシリアが慌てて止める。
「あの、お気持ちは嬉しいのですが領民を危険に晒すのはちょっと……辺境伯の責務はとても大切なお役目ですので、伯父様達には是非ともこの地を守っていただきたいです。それにこの家が無くなったら私はもう帰る所がありません。ですから……」
そこまで言ったところで涙が零れそうになったセシリアに、祖父にブリザードを食らわせていた伯父がぐるんっと振り向き、あっさりと言い切った。
「じゃ、やめよう」
「セシリアが嫌なら却下だ」
「そうね。セシリアちゃんがダメならダメね」
「うん。不採用決定。大人しく留守番しよう」
セシリアがちょっとだけ反論しただけで、あまりにあっさりと意見を覆し、同調するように頷き合う伯父一家に、セシリアの涙は引っ込んで目を丸くする。
この一家は自分を溺愛し過ぎているなとは、彼らと過ごした日々で感じていたことだが、ちょっと甘過ぎではないだろうかと今回ばかりは少し不安になってしまう。
ドルトン辺境伯家の人間は家族愛が強いことで有名だが、ウェールズ侯爵家とのあまりの違いに戸惑ってしまうのだ。
だが同時に擽ったいような嬉しさが込み上げてきて、セシリアは泣き笑いのような笑顔になる。
それを見た祖父はヤレヤレと溜息を吐くと、胡乱な眼差しを伯父達へ送った。
「お前ら、溺愛しすぎだ……」
呆れたように呟いた祖父に伯父一家が熱く反論する。
「だって、こんなに可愛いんだから仕方ないだろう!」
「そうだ、可愛いは正義だ! だからセシリアは正義だ!」
「そうね、今日は本当にいい事言うわね、脳筋息子! これもセシリアちゃんのお陰ね!」
「つまり、俺の従妹最高ってことだな!」
四人から手放しに褒められ、嬉しくも恥ずかしいやらで居た堪れないセシリアに微笑みながら、伯父は祖父へボソっと囁く。
「ともかくもセシリアのこと頼みましたよ? カトレアの時は状況が状況だったため忸怩たる思いで譲歩しましたが、今回は妥協は無しですからね」
「わかっておるわい! 大体、セシリアのことならば儂よりも必死こいて動く奴がおるわ……ったく、あれだけ執着心が強いくせに本人にだけは伝わってないのが不思議なくらいだ。儂のせいでもあるが……」
珍しくタジタジになる祖父がブツブツと呟いた言葉は、アワアワと恥ずかしがるセシリアの耳には届かなかったが、しっかりと意味を理解した伯父夫婦と従兄達は互いに目配せし合うと、憐れな彼を想ってこっそり溜息を吐いたのだった。
その後も、いかに自分達がセシリアを溺愛して心配しているかを懇々と聞かされたセシリアが解放されたのは、夕食が終わった後のことであった。
自室へ戻り、王都へ向かう準備をウェールズ侯爵家から一緒に来た三人の侍女たちが手伝ってくれている中、一人の侍女が急に真剣な顔でセシリアを覗き込む。
「いいですか、お嬢様。何かあったら、相手の股間を蹴っ飛ばして逃げるんですよ!」
「へ?」
突然、突拍子もない発言をされ困惑するセシリアが呆けた返事をするのと同時に、パチコーンという痛快な音が響く。
「股間とか下品な言葉をお嬢様に言わないの!」
「次は、その残念な脳みそ粉微塵にしてバラ撒くわよ?」
二人の侍女にどつかれた侍女が頭を抱えて悶絶しているいつもの光景に、セシリアがクスクスと笑う。その時、扉をノックする音がしたため返事をすると、ウェールズ侯爵家で執事をしていた男が入室するなり、悶絶する侍女を見て溜息を吐いた。
「全く、いつまでも騒がしい。ツッコミの小気味いい音が廊下まで聞こえてましたよ」
苦笑する執事にセシリアは微笑むが、侍女達はバツが悪そうに目を逸らす。
そんな侍女達を横目で窘めながら執事はセシリアへ向き直った。
「セシリア様、私と護衛は会場には入れませんが外に待機しておりますので、何かあればこの煙幕を投げつけて、外まで逃げてきてください」
真面目な顔で懐から棒状の筒を取り出した執事に、セシリアは困ったように首を傾げる。
「煙幕を王太子殿下のいる部屋で使ってはダメですよね?」
「股間を蹴るよりはいいかと思います。護衛も、魔獣用の催淫剤と睡眠薬を用意したと申しておりましたので、会場さえ抜け出してしまえばこちらのものです」
人に使用すれば劇薬となる魔獣用薬を王宮へ撒き散らす用意をしていると、サラリと言い切った執事にセシリアも侍女達も唖然としたが、やがて皆で笑いだす。
この辺境伯家へ来てからセシリアは、ずっと忘れていた心からの笑みを毎日取り戻せていた。
それはきっと、ウェールズ侯爵家では得られなかった優しい言葉と愛に満ち溢れているからであろうとセシリアは思う。
そんな彼らに自分は少しでも愛を返せているだろうかとセシリアが考えていると、頭をどつかれ悶絶していた侍女がにっこりと笑って言った。
「結局のところ、みんなお嬢様のことが心配で堪らないんですよ! だから無事に帰ってきてくださいね」
その言葉に皆一様に頷いたのを見て、セシリアは心の底から感謝すると共に、改めて王都へ行く決意をしっかりと固めたのだった。