別れの時
「……放してっ!」
せめて清い身体のままがいいと、頸動脈を掻き斬って死ぬことを選んだセシリアだったが、その腕を動かすことは出来なかった。
何故なら喉を貫く痛みがくるよりも早く、物凄い強い力で腕を握られてしまったからだ。
しかし、このまま辱めを受けてなるものかと必死で懐剣を喉元へ動かそうと藻掻く。
そんなセシリアへ焦ったような声がかかった。
「落ち着け、セシリア! 私だ! もう大丈夫だから、その手を止めてくれ!」
ここにいるはずのない声にセシリアが驚いて瞼を開けると、目の前には緑がかった黒髪を振り乱したカインが、必死の形相でセシリアの腕を掴んでいる。
「え? ……カイン様?」
唖然とするもセシリアから力が抜けたことを見たカインが、固く握られていた懐剣を取り上げた。
セシリアが呆然としたまま視線を彷徨わせれば、馬車を囲んでいた盗賊達の多くは血の海に沈んでおり、カインの手には血塗られた剣が握られている。
状況を理解できる間もないまま、セシリアの顕になった肩を見たカインは群青の瞳に怒りを滲ませた。
「セシリア……お前達、許さん!」
カインはそう吐き捨てると、既に配下の者によって殲滅戦となっていた襲撃の場へ走り出し、盗賊たちを躊躇なく屠ってゆく。その様子はさながら鬼神の如き強さで、セシリアは呼吸も忘れて彼を見つめた。
彼が剣術を嗜んでいたのは知っていたが、ここまで強いとは正直思っていなかった。
流れるようなカインの剣技の前に盗賊たちは一人また一人と倒れ伏し、やがて最後の一人が彼の配下によって打ち取られると、街道に再び静寂が訪れた。
セシリアが周囲を見渡せば執事も侍女たちも怪我はあるが無事のようで胸を撫でおろす。
助かったことに安堵して息を吐くと、今更ながら身体がブルっと震えた。
そんなセシリアにカインが上着を差し出す。
「これを着て……腕が肩まで丸見えだから寒いだろう」
「でも……それではカイン様が風邪をひいてしまいます」
セシリアが断ると、カインはもの凄く不機嫌そうな表情になった。
「私は鍛えているから平気だ」
「ですが……」
「つべこべ言わずに着て! 目に……毒だ」
言われた言葉がセシリアの心に突き刺さる。
肩が顕になっているので見たくないということかと自嘲して、セシリアは差し出された上着に手を伸ばした。
「申し訳ありません。それでは遠慮なく拝借させていただきます」
「あ、いや、目に毒だというのは言葉の綾で……」
上着を渡しながらも何故か青褪めるカインに、セシリアは目を伏せる。
きっとアリー以外の女性の身体など見たくもないのだろう、そう考えると涙が溢れてきたので、誤魔化すように上着を羽織った。
カインの上着は当然だが彼の香りがしてセシリアの胸が切なくなったが、ぐっと堪えて微笑を作る。
「大丈夫です。身の程は弁えておりますから」
小さく呟いたセシリアの言葉は夜風が攫っていってしまい、カインの耳に届くことはなかった。
そうして暫しの沈黙の後、先に口を開いたのはカインだった。
「ところでセシリア、……あの手紙はどういう意味だ? 私の目がおかしくなっていなければ婚約解消の書類が入っていたのだけれど、何かの手違いなのだろう?」
「いいえ、婚約解消の書類で間違いありません」
首を横に振ったセシリアにカインの眉間に皺がよる。
「何故だ!? どうして婚約解消など……! 大体あんな紙切れ一枚で婚約解消など許されると思っているのか!? しかも事前に私へ一切の相談もないなんて有り得ない!」
語気を強めたカインの言葉にセシリアは俯いた。
手紙として渡したのは面と向かって伝える勇気がなかったからだ。
カインを前にしたらきっと婚約解消なんてしたくないと駄々をこねてしまう。彼がアリーを好きだと知ってからもこんなに好きで仕方ないのに、これ以上惨めな思いはしたくなかったのだ。
けれどカインにとってみれば後腐れなく話し合って円満に解消したかったのだろう。アリーと婚約を結ぶためにもウェールズ侯爵家と仲違いするわけにはいかないのだから。
アリーはカインに夢中だし義妹に甘い父も反対なんてするわけがないので、そんな心配は不要なのだが、立場の低い伯爵家である彼にとっては不安だったのだろう。
自分が逃げ出すことだけを考えていて彼の立場を思い遣れなかったことに、セシリアは今更ながらに気が付いて申し訳なく思うも、そうまでしてアリーとの関係を壊したくないと願っているカインの気持ちなんて知りたくなんてなかった。
だが、そんな真っすぐなカインだから好きになったのだ。
だからセシリアは現実を受け止め、頭を下げる。
「それは申し訳ありませんでした。けれど正式な書類ですので、後はカイン様のサインをして王宮へ提出すれば受理されるはずです。勿論カイン様には何の瑕疵もありませんので、このことでウェールズ侯爵家とゲイル伯爵家の関係性が悪くなることはございません。カイン様が危惧するような問題は起こりませんから、どうかご安心ください」
「安心など到底できるわけがないし問題だらけだ! 婚約解消など普通は両家と当事者で話し合って決めるものだろう? いや、問題はそこではなく、何故私達が婚約解消などする必要がある!? 私は何かセシリアに嫌われるようなことをしたか!?」
油断すると溢れてきそうになる涙を堰き止めて淡々と答えたセシリアに、何故か怒りを顕わにしたカインが詰め寄り、セシリアは困惑して眦を下げた。
そんなセシリアの表情を見たカインが悲しそうに顔を歪める。
「あの手紙を目にした時、最初は何かの間違いかと思ったけれど嫌な予感がして、すぐにウェールズ侯爵邸へ戻った。そうしたら裏口に不審な馬車が止まっていて、君が乗り込む姿が見えたから慌てて馬を用意して追いかけてきたんだ。……とにかく間に合って良かった。セシリアが無事で本当に良かった」
群青の瞳に力を込めて噛みしめるように吐き出されたカインの言葉に、セシリアはいらぬ心配をかけてしまったことを申し訳なく思い瞳を伏せる。
同時に、身勝手に逃げ出してしまった自分を追いかけてきてくれたことが嬉しくもあり、そう思う自分に浅ましさを感じた。
しかしカインが追いかけてきてくれたお陰でこうして無事でいられるのは確かで、そう考えると襲われそうになった時のあの恐怖がまた蘇ってくる。
(カイン様が来てくれなけば、今頃自分はあの男達に……)
真っ青になってしまったセシリアに、カインが慌てたように問いかける。
「どうした? やはりどこか痛むのか?」
「いえ……先程のことを思い出したら……怖くて……」
セシリアがカインから借りた上着の前をあわせるようにぎゅっと掴むと、途端に苦虫を潰したような表情になった彼にツキリと胸が痛んだ。
(こんな弱音を吐いて、きっと煩わしいと思ったに違いないわ)
居た堪れない気持ちになったセシリアだったが、そういえばまだカインにお礼を言っていないことに気が付き居住まいを正す。
「助けていただき、ありがとうございました。また、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」
「迷惑なんて……」
深々と頭を下げたセシリアへ、カインが何かを言おうと口を開いた時、後方から磊落な声が響いた。
「セシリア!」
声の主を見たセシリアが目を丸くする。
「お祖父様!? どうしてこんなところに!?」
「お前が漸く決心したようだと、庭師の奴が馬も己も倒れるほどの速さで手紙を届けにきてくれたから迎えに来たのだ。試すようなことをした儂にも非があるが……バカ者め。こんなにやつれるまで無理しおって」
叱りながらも優しく頭を撫でてきた祖父に、セシリアは泣きそうになる。こうやって誰かに頭を撫でてもらえたのは何年振りだろう。
辺境伯として日夜国境を警備する逞しい身体をした祖父は今でも現役で若々しく、その大きな掌でよしよしと頭を撫でられてセシリアは安心感で満たされた。
元々、母の実家であるドルトン辺境伯家の人々とどこか少し距離があった父は、母が亡くなってからは露骨に忌避するようになり、祖父の来訪伺いを悉く断り続け、辺境伯家の者達と懇意にしていたセシリアにも勝手に会わないように厳命していた。
そのためセシリアは母の葬儀以来一度も祖父に会えていなかったのである。
懐かしい祖父との出会いにセシリアの気が緩む一方で、カインは表情を硬くすると厳しい声で挨拶を述べた。
「ドルトン辺境伯、お久しぶりです」
「ゲイル伯爵家のカインか……もうお前に用はない。帰れ」
「お祖父様? そんな言い方失礼ですよ。それにカイン様が来なければ私は盗賊に何をされていたか……」
あまりにも失礼な祖父の物言いにセシリアが慌てて口を挟む。辺境伯として敵には容赦なく剛腕を奮ってはいても、孫娘には甘いことで有名な祖父はチラリとセシリアを見たが、険しい顔でカインへ視線を移した。
「それについては一応礼を言う。だがお前には失望した。儂が何も知らないとでも思っているのか?」
「辺境伯のお怒りはご尤もですが、もう間もなく……」
「セシリアはウェールズ侯爵家を出奔した。すぐに我が息子ドルトン次期辺境伯の養女にする書類を王宮へ提出する予定だ。よってウェールズ侯爵家とゲイル伯爵家で結ばれたお前達の婚約は解消だ」
「辺境伯! お待ちください!」
カインの言葉を遮ったドルトン辺境伯は追いすがる彼を無視して、セシリアを用意させた馬車へと誘う。
馬車の方向へ歩き出したセシリアへ、焦ったようにカインが手を伸ばすも辺境伯に振り払われた。
熊を素手で倒す祖父が本気で振り払ったにもかかわらずその場で堪えたカインに、辺境伯は一瞬面白そうな表情を浮かべたが、セシリアをエスコートする歩みは止めない。
それでも尚、カインは諦めず食い下がった。
「辺境伯! お願いです! セシリアとちゃんと話をさせてください! セシリア!」
普段の無表情な彼からは考えられない悲痛な叫びに、そこまでしてきちんと円満な婚約解消を望んでいるのかと、セシリアは深いため息を吐く。
馬車の手前まで来た所で覚悟を決めて足を止めると後ろを振り返り、羽織っていたカインの上着を脱ぎ丁寧に畳んで彼の前へ差し出した。
「カイン様、私の我儘な願いで婚約を結び長らく貴方を縛ってしまったこと、謹んでお詫びいたします。婚約を解消しても決して恨みに思ったりはいたしませんから、どうかご安心ください。これからはカイン様が愛する方と、アリーと……」
お幸せに、と続く言葉をセシリアは言えなかった。
父も婚約者も奪われた。セシリアの幸せを攫っていった義妹の満足そうな笑い顔が瞼にチラつく。アリーに悪気はないとはいえ、そんな相手との幸福を祈れるほど自分の心は寛容ではなかったらしい。カインの未来を祝福する気持ちはあったが、どうしてもその言葉だけは出てこなかった。
悔しさと情けなさが込み上げてきて、セシリアは呆気にとられたようにしているカインに強引に上着を返すと、逃げるように祖父が用意してくれた馬車へ乗り込む。
最後まで涙は見せたくなかった。
(だって彼は優しいから、私が涙を見せたら婚約解消したことをずっと気に病んでしまうでしょう? カイン様がアリーと結婚するのは嫌だけれど、私を好きになれなかった罪の意識のせいで心苦しい想いをさせるのは、もっと嫌だもの)
馬車の扉を閉めた途端に堪えていた涙がせり上がり、嗚咽を漏らす。
走り出した馬車の遠くから自分の名前を連呼するカインの声が木霊したが、むせび泣くセシリアには届かないまま、二人は別れた。