決断
父に殴られた頬に手をやりながら眠った晩、セシリアは幸せだった頃の夢を見た。
父も母も笑っていた子供の頃の夢。
違っていたのはいつも無表情だったカインが、自分にアリーへ向けていたあの笑顔を向けてくれたことで、夢の中のセシリアは嬉しさで胸がいっぱいになった。
だが目を覚ますと夢と現実のあまりの違いに、ただただ虚しさだけが迫り上がってきて、セシリアは一筋の涙を零したが、暗い気持ちを振り払うように立ち上がると身支度を始めたのだった。
少し腫れてしまった頬を薄い化粧で誤魔化して学園へ向かったセシリアは、二通の手紙を出すべきか止めるべきか、まだ迷っていた。
我ながら未練がましいとは思う。けれどもくしゃくしゃになった栞がまだ使えるように、カインへの想いをまだ手放す勇気が持てなかった。
そんなセシリアの気持ちを知ってか知らずか、学園では滅多に接触しようとしないカインに珍しく話しかけられたのは、午前の授業が終わり昼食をとるべく食堂へ赴いた時だった。
セシリアを認めたカインは、一緒にいた金髪の男子生徒に手を振って別れると真っすぐにセシリアの席へ向かってきた。
ちなみにアリーは入学試験をパス出来なかったため他の学園に通っている。
不合格の通知をもらって泣き喚くアリーのために、父が権力とお金の力で入学させるように脅しをかけたようだが、ここは清廉で名高い王立学園のためすげなく却下されていた。ちなみにそのことが原因で父の横暴さと傲慢さはしっかりと王族達に伝わったようで、彼らのウェールズ侯爵への心証はすこぶる悪いものとなってしまっている。
侯爵家の名声は地に落ちたが、セシリアにとっては何かと嫌がらせをしてくるアリーがいない学園に通うことは有難かった。だが、今にして思えば同じ学園に通っていればカインのアリーに対する想いも、もっと早く気づけたかもしれない。
(そうすれば、この込み上げる胸の痛みも幾分かマシだったのだろうか?)
姿を見られただけで舞い上がるほど嬉しいのに、積み重ねた月日の分だけ好きという想いが蓄積された分、ズキズキと痛む胸に蓋をしてセシリアは笑みを浮かべる。
セシリアの笑みを、婚約者の登場で嬉しいのだと判断した周囲の者達が、気を遣って少し離れた席へ移動してくれたことにカインは礼を言うと、正面の席へ腰かける。そうしてあらためてセシリアの顔を見て、はっきりと表情を歪めた。
「その頬はどうした?」
「頬?」
「赤くなっているようだが?」
カインの指摘にセシリアは視線を逸らす。まさか父に殴られたなどと公言できるはずもなく、曖昧な笑みを浮かべる。
「気のせいではありませんか? もしくは、お化粧の色が少し濃すぎたのかもしれません。お見苦しくて申し訳ございません」
「見苦しいとは言ってない……」
そう言って口を噤んでしまったカインだったが、眉間に見る見る皺が寄っていく。自分はカインの笑顔を引き出すばかりか彼を不機嫌にさせてばかりだなと、セシリアが目を伏せるとカインが小さく溜息を吐いた。
「はぁ……セシリアは……いや、何でもない。ところで今日の放課後なのだが、ウェールズ侯爵邸を訪問してもいいだろうか?」
何かを言いかけ結局言葉を濁したカインだったが、セシリアは突然の訪問伺いの言葉に首を傾げる。
二つ年上であるカインとは棟が違うため学園で会うことは滅多になく、またイレギュラーな訪問もこれまで一度もなかった。
「何か急な用事でも発生しましたか?」
「急な用事がなければ愛しい婚約者の家に行ってはいけないのかな?」
単純な問いかけを、無表情ではあるが蕩けるような甘い質問で返されて、セシリアの思考が停止する。
制止してしまったセシリアの代わりに、普段甘い言葉を言わないカインの拗ねたような言い草を聞いた周囲の女子生徒が頬を染めた。
「素敵な婚約者で羨ましいわ」
「本当に。婚約者に大切にされていますのね」
囁かれる声に、セシリアはまだ自分がカインの婚約者なのだと自覚する。
こんなに素敵で大好きな人の婚約者でいられることに胸が高鳴り、顔に熱が籠る。婚約解消を決意した筈なのに気持ちがぐらついて、セシリアは瞳を彷徨わせた。
「そんなことはありませんけれど、今までは月に一度のお茶会のみのご訪問でしたから」
「そうだね。私の方も色々と忙しかったから。けれど二人の仲を深めるためにも、これからは頻繁に会いに行こうと思ってね」
表情は変わらず固いままであるが、少しだけ柔らかく瞳を細めたカインにセシリアの心臓が跳ねる。
全て捨てて逃げ出そうと思っていたのに、そんな嬉しいことを言われたら勘違いしてしまいそうになる。
「そうですか。では、お待ちしております」
突然、距離を詰めてきたカインに戸惑いながらも返事をすると一緒に昼食を済ませ、落ち着かない気持ちのままセシリアは午後の授業を終え家路に着いた。
投函しようと思った祖父宛の手紙を出しそびれてしまったことに気が付いたのは、侯爵邸に到着してからで、セシリアは自分の浮かれ具合に少しだけ苦笑してしまった。
◇◇◇
セシリアが帰宅してから程なくして訪問してきたカインに、アリーは大はしゃぎだった。
「え? え? カイン様! 定例のお茶会じゃないのに来てくれたの? 嬉しい!」
出迎えたセシリアを押しのけ、抱き着かんばかりの勢いでカインに突進したアリーの眼前に、可愛らしい包みの箱が差し出される。
抱き着けなかったことに少しだけ不服そうにしながら箱を受け取ったアリーだったが、包みを開けると表情をパッと明るくした。
「嬉しい! アリーとの約束を守るために来てくれたんですね!」
「え?」
アリーの言葉にセシリアが思わず反応する。
するとアリーは勝ち誇ったような視線をセシリアへ向けた。
「カイン様は私にお菓子を持ってきてくれるって約束をしていたんです。あ、勿論お姉さまにも差し上げますよ? 私、独り占めにするような意地悪な子じゃありませんから」
「そうだね。確かこのお菓子はセシリアも好きだったと思うから、みんなで一緒に食べよう」
笑い合う二人の姿に、セシリアの中で今の今まで浮かれていた気持ちが霧散する。
カインが言っていた仲を深めたい頻繁に会いに行きたいと思う相手は自分ではなかった。彼の甘い言葉に勘違いして祖父へ手紙を出しそびれてしまったことを後悔しながら、セシリアはそっと自室へ下がろうと踵を返す。
すると後ろから焦ったようなカインの声が響いた。
「セシリア、どこへ行くの?」
振り返ったセシリアが見上げた先には不機嫌そうなカインの顔があった。
アリーと笑い合った時と同じ人物とは思えないその不機嫌な表情に、セシリアは自嘲の笑みを浮かべる。
「カイン様へお渡しする手紙を自室に置いてきてしまいましたので、取りに戻ろうと思ったのです。アリーとご歓談中だったのでお邪魔するのは申し訳ないと思い、黙って行こうとしたのですが、ご気分を害されたのなら謝罪いたします」
頭を下げたセシリアに呆けた表情になったカインが、ポツリと呟く。
「え? 手紙? 私に?」
「はい」
セシリアが頷くとカインは一瞬だけ驚いた表情をした後、またいつものように無表情で頷いた。
「そうか。それなら応接室で待っているから早くとってきたらいい」
カインの言葉にセシリアが頭を下げて退出する。
「私も後でカイン様へ手紙を書きますね!」
「へえ? それは楽しみだな」
応接室の扉を開きながら聞こえてきた二人のやりとりに、セシリアは乾いた笑みを浮かべた。
自室へ戻り鞄の中から二通の封筒を取り出すと、執事を呼び出す。出来るだけ早くこの手紙を祖父へ届けてほしいと告げると、何かを悟ったらしい執事は乗馬の心得がある庭師の男を呼び出し指示してくれた。
もう一通の手紙を抱えてカイン達のいる応接室へ戻ると、卓にカインの持参したお菓子が並べられていた。
そのお菓子は子供の頃からセシリアの好きなものだったが、希少なフルーツを使用していることに加え製法が特殊らしくかなり高額だ。母が生きていた頃のウェールズ侯爵家ではセシリアの好物だということもあって頻繁に購入していたが、ここ最近は口にしていない。
しかし久しぶりに見るそのお菓子を、セシリアは食べたいとは思わなかった。
アリーが楽しそうにカインへ話しかけるのを、ただ庭を眺めてやり過ごす。
セシリアのお皿に取り分けられたお菓子は取り分けた形のまま減ることはなかった。何度かカインがセシリアのお皿から一向に減らないお菓子に目をやったが、セシリアはそれに気付くことはなく只管感情のない人形のように庭を眺めていた。
やがて高級茶葉の芳醇な香りも消え失せ、辺りに夕闇が訪れた頃カインが席を立つ。
「今日は突然押しかけて済まなかった。今度は数日前に連絡を入れるから」
そう謝罪するカインにセシリアは頭を振った。
「いえ、アリーも喜んでいるようですので、お気遣いなく。また気兼ねなくお越しいただければと思います」
「そうですよ! カイン様ならいつだって大歓迎です! 今度は私が王都で一番高級なお菓子をたくさん用意して待ってますね!」
アリーの言葉にセシリアが脳内で高級菓子の試算を始めるが、もうどうでもいいかと途中で考えるのを放棄する。
そうして玄関ホールへ赴くと、別れ際にカインへ手紙を差し出した。
「手紙か……セシリアからもらうのは随分久しぶりだな。ありがとう」
相変わらずの無表情だったが、心なしか目元が柔らかくなっているように見えるような気がするのは、きっとセシリアの幻想だろう。
でも、せめて最後位は綺麗に笑った顔で別れたいと考え、セシリアは精一杯の笑顔を見せる。
そんなセシリアの表情にカインは一瞬目を瞠ったが、アリーの騒がしい別れの挨拶に掻き消され侯爵邸を後にしていった。