心が砕けた日
この日、セシリアは精一杯のおしゃれをして出掛けていった。
いつもおろすだけにしていた白めの薄紫色の髪は両サイドを編み込んでハーフアップにしてもらい、群青のドレスを纏った。カインの瞳と同じ色のドレスの襟や袖口には光沢のある白い繊細なレースが幾重にも施されていて品がある。
実は襟や袖口のレースは、このドレスを一目見た時から気に入ったセシリアが後から自分で縫い付けたものだが、付ける前より上品になったと自負していた一品だった。
だからカインとの最後のデートはこのドレスで行こうと、ややもすると落ち込みそうになる心を奮い立たせてやってきたのだ。
アリーには秘密にしているため予定通りカインと劇場の前で落ち合い、ボックス席へ案内される。
流行というだけあって劇場は大層盛況していたが、上演が終わった後のセシリアは陰鬱な気持ちでいっぱいだった。
それというのも観劇の内容が、可愛い義妹を苛めていた姉が婚約者である王子に断罪され婚約破棄される話だったからだ。
苛められている義妹がとにかく健気で、断罪され漸く改心した姉のことまで寛大な心で許し最後に王子と結ばれる内容に、観ていた人間は涙を流して湛えていたが、セシリアの口内には苦いものが走っていた。
義妹を苛めた記憶はないが、まるで自分とアリー、そしてカインの未来を描いたかのような観劇に、どこか皮肉めいたものを感じてしまう。
カインも表情こそ普段通りだが明らかに動揺しているようで早々に席を立つと、出口へ向かって歩き出しながらそっと呟いた。
「すまない。流行しているからと内容を確認していなかった」
「いえ。主旨はともかく劇自体はとても面白いものでしたわ」
「そうか。……私はそうは思えなかったけどな」
唸るように小さく呟いたカインの後半の科白は聞き取れなかったが、セシリアは曖昧に頷く。
そのまま何となく気まずくなり無言で帰りの途へついた。
こうしてカインとの最後のデートはセシリアにただ苦い思い出と、絶望の未来を予感させ終わりを告げた。
そしてその予感はすぐに的中する。
暗い気持ちのままカインと別れたセシリアが、溜息を吐きながら侯爵邸の玄関の扉を開けると、父が憤怒の形相で仁王立ちしていたのだ。
「カイン殿と観劇に行ったそうだな。何故アリーを一緒に連れていってやらなかった!? 可哀想に除け者にされたアリーは部屋でずっと泣いていたのだぞ!」
父の言葉にセシリアは深いため息を吐く。
家族には内緒にしていたつもりだったが、珍しくおしゃれをして外出したセシリアを疑った義妹付きの侍女あたりが調べて密告したのだろう。
ここでいつもならすぐに謝罪するのだが、セシリアはただ黙って父を見つめた。
婚約解消を考えているとはいえ、まだ婚約者である者と外出するのに妹を同伴させろと理不尽極まりない要求をしてくる父に呆れたことと、カインとの最後の思い出にしようと行ったデートが、ぎこちないものになってしまったのが思いのほかショックだったことで、投げやりな気持ちになっていたからである。
しかし、その態度を反抗的だと思ったのか、激高する父親はセシリアを憎々し気に睨むと片手を振りかざした。
(殴られる!)
セシリアがぎゅっと目を瞑った瞬間、乾いた音が玄関のホールに響き渡る。
父に殴られるのは二度目だ。
じんじんと痛む頬にセシリアの沈んでいた気分が更に落ち込むが、一度目よりもショックが少なく感じたのは父親を見限ってしまったからだろうかと考え、そう考えてしまった自分の方にショックを受けた。
内心の動揺に同調してか震える手先を握りこみ、よろけた身体を真っすぐに立ち直して項垂れるように無言で頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
行き場のない悔しさと悲しみが込み上げて、涙がせり上がってきそうになるのを堪えたセシリアが絞り出すように謝罪をすると、沸騰する怒りに任せセシリアを殴った父も流石にやり過ぎたと思ったのか、少しの間己の掌を見つめて呆然と立ち尽くしていた。だが、すぐに言い訳するようにセシリアを詰りだす。
「そ、そんな贅沢なドレスなど買いよって! 我がウェールズ侯爵家の資産を何だと思っているんだ!? この穀潰しの役立たずが!」
父から吐き出された言葉はセシリアの胸を更に抉った。
気に入ってはいるが、今日セシリアの着ているドレスはアリーのお古だ。
毎週のようにデザイナーを呼びつけ同じドレスは二度と着用しない義母とアリーが捨てたドレスを、侍女にお願いして数着回してもらっている。
彼女たちは胸元が開いた派手なドレスが好きなので、今日のドレスのように襟をつけたり手直しする必要はあったが、勿体ないので再利用して着ているのである。
学園に通う通学鞄も靴もアリーが飽きて捨てたものを使用していた。
背に腹は代えられないとはいえ、その行為は侯爵令嬢として育ったセシリアにとってはとても惨めなことだった。
恥を忍んで、寝る間を惜しんで、必死に侯爵家を支えているのは自分なのに、父はそれに気づいてさえくれない。優しかった父の面影がセシリアの記憶から消えてゆく。
「とにかく、アリーを悲しませたら許さんからな!」
黙って俯いたままのセシリアに吐き捨てるように言って踵を返した父の先では、義母が心配そうにこちらを見ている。だが父に抱きしめられた陰でセシリアへ嘲った笑いを向けているのが見えた。
この家にはもうセシリアの味方はいない。
父は母が亡くなったあの日から豹変してしまったのだ。自分を慈しんでくれた父はもういない。いや、そもそも父は自分を本当に慈しんでいてくれたのだろうか? あの幸せだった日々は偽りの幸福だったのではないか? そんな猜疑心ばかり浮かんできて、カインのこともありセシリアの心に喪失感が広がる。
(もういっそ全てを捨てて逃げてしまおうか……?)
暗く沈み込む心の中に唐突に浮かんだ一抹の光に、セシリアは小さく息を飲んだ。
迷いながらも執務室へ向かうと、セシリアは一通の手紙を認めて封筒へ入れる。宛先は祖父である辺境伯だった。
そして鍵がかかったキャビネットから徐に先日記入した書類を取り出す。それを封筒に入れると机の上に撫子の栞があることに気が付いた。
先程書類を取り出す時に一緒に出てきたのだろう。カインに渡そうと思って渡せなかったその栞は、この書類を記入した日に一緒に引き出しにしまったものだった。
伸ばしてはみたものの、握りしめたことでクシャクシャになってしまった栞は折り目がついてしまい、一度ダメになってしまったものは二度と元通りにはならないということを示しているようだった。
でも、とセシリアは手近にあった本にその栞を挟み込む。
「まだ自分で使用することはできるわね」
そう呟いて自嘲するも、封筒を二つとも通学鞄にしまい込むと痛む頬をそっと撫でた。