諦める恋心
中庭に設えられたテーブルセットで親しそうに微笑みあう婚約者と義妹の様子が、セシリアの心に暗い影を落とす。
(あんな声知らない)
(あんな顔知らない)
婚約者であるカインが自分に向けていたのは、いつも無表情な顔だけだった。
プレゼントを渡しても夜会へ出席しても、お礼を言われて優しくエスコートはしてくれるが表情は崩さない。
いつだって無表情な婚約者。それが普通なのだと思っていた。
だがアリーとのやり取りを見てそれは間違いだったのだと唐突に理解した。
(ああ、そうか……カイン様は私のことが好きではなかったのだ)
まだ無邪気だった子供の頃、セシリアは自分の気持ちを精一杯伝えたくて、プレゼントを渡す度に大好きだと言っていた時期がある。
成長するにつれ何だか気恥ずかしくなってしまったことと、母が亡くなり父と関係が拗れてからはセシリアの気持ちに余裕がなくなり言わなくなってしまっていたが、考えてみればカインが自分に好きだと返してくれたことはただの一度もなかった。
あまり話さなくても一緒にいると心地よくて、ただお茶を飲み、庭を眺めているだけなのに満たされた気持ちになっていたのは自分だけだったのだ。
(彼があまり話さなかったのは、私と会話をするのが煩わしかったから。爵位を笠に結んだ婚約者である好きでもない私と一緒にいるのは、さぞかし退屈で苦痛だったことだろう)
手に持っていた小さな栞をクシャリと握りつぶす。
最近、読書にはまっていると言っていたカインのために、庭に咲いた撫子を押し花にして作った栞は小さく潰れ、セシリアはそれをドレスのポケットへ捩じ込んだ。
(父だけでなく、まさか婚約者まで義妹に奪われるなんて、私はなんて情けないの……)
唐突に乾いた笑いが浮かんできて、セシリアは栞と一緒に自分の心も潰れたような音が聞こえた気がしたが、爪が掌に食い込むほど拳を握って平静を装う。侯爵家の娘として感情を表に出すことは許されない。悲しい貴族の性だった。
セシリアが深呼吸をして心を落ち着かせていると、ちょうどアリーがこちらに気が付いて呆れたような声を出す。
「あら、セシリアお姉さまったらそこにいらっしゃいましたの? カイン様が来ているのにお出迎えもしないなんて失礼ですわよ?」
小路で立ち尽くすセシリアにアリーは可愛らしくコテンと首を傾げるも、その瞳は嘲りの色に染まっていた。
この屋敷に来て初めてカインと会ったアリーはたちまち彼に夢中になり、あの手この手でセシリアと彼の逢瀬を邪魔しようとしてきた。今日のようにカインの来訪をセシリアに伝えないようにするのは既に常習化していたのだが、まさかアリーだけでなくカインまで義妹に心を奪われているとは考えもしなかった。
ふと視線を婚約者へ向けるとセシリアを見たカインの顔からは笑みが消え、いつもの無表情な顔になっている。
こんなにも解りやすかったのに、婚約者の気持ちに気が付かなかった自分に、セシリアは泣き出しそうになる心に蓋をして頭を下げた。
「お出迎えもせず、申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ。セシリアは忙しいのだから」
「もう! カイン様は優しすぎます!」
いかにも憤慨するように頬を膨らますアリーに、カインは困ったように眉尻を下げる。
「セシリアは私の婚約者だからね。では美味しい紅茶をいただいたことだし、少し庭を散歩させてもらおうかな」
そう言うと徐にカインが立ち上がり、セシリアの方へやってきてその手を取った。
「ご馳走様、アリー。また後でね」
ついて来ようと腰を浮かしかけたアリーだったが、振り返って言われたカインの言葉に少しだけむくれつつも大人しく席に着いた。
手を握られたことに一瞬だけ心臓が跳ねたセシリアだったが、カインがアリーに言った「また後で」という言葉に一気に温度が下がる。
チラリと義妹の方を見れば、彼女は不服そうにセシリアを睨んでいる。その視線に気づかないふりをしてアリーの手元にある紅茶のカップに目をとめたセシリアは、そっと小さく溜息を零した。
アリーがカインのために用意したという美味しい紅茶。
その希少で高級な茶葉を買うために一体どれだけのお金を浪費したのだろう。客をもてなすのは大切なことだが、王族でもなかなか入手が難しいような品を侯爵家で振る舞う必要はない。にも係わらず、アリーと義母は茶葉も菓子もとにかく一番の高級品に拘っていた。
しかし二人のすることについて父親に文句を言うことは出来ない。何故なら以前一度だけ出費を抑えてくれとお願いした時に激高して殴られたからだ。
初めて父に殴られたあの時は、自室に戻ってから朝まで泣き続けた。さすがの父も殴った後に呆然としていたようだったが、結局その後謝罪されることもなく現在に至っている。
セシリアは殴られた痛みよりも父に手をあげられたことがショックだった。
あの時の痛みがまだ胸に深く突き刺さっていて、時折セシリアの心を深く抉り沈ませる。母が生きていた頃の優しかった父親など本当はいなかったのではないかと、幸せだった過去まで疑いそうになりながら庭園を歩いていると、隣を歩くカインが珍しくセシリアに話しかけてきた。
「セシリアは今王都で流行している観劇があるのを知っているかい?」
突然ふられた話にセシリアは一瞬呆ける。
カインから話しかけられること自体も珍しいのに、内容が流行の観劇の話であったことに驚いてしまったからだ。
彼もセシリアも観劇よりは読書派であり、今まで流行にもあまり興味がなかったため、不思議に思いながらもセシリアは正直に答えた。
「いえ、私は流行には疎いので。存じ上げずに申し訳ございません」
「別に責めているわけではないよ。だから謝らないでほしい」
相変わらず無表情なまま謝罪を否定したカインだったが、それきり黙り込んでしまう。
せっかくカインから話しかけてもらえたのに上手く話を広げられず、会話が途切れてしまったことに、セシリアが心の中で溜息を吐き彼をそっと横目で見ると、何故かカインは小さく咳払いをしたり視線を彷徨わせたりしていた。
普段見ることのない、どこか落ち着かない様子のカインにセシリアは戸惑う。
知らないと言ったことが不快だったのだろうか? とセシリアが不安を覚えたところで、カインがおずおずと口を開いた。
「実は、その観劇のチケットを知人から譲りうけたので一緒にどうかと思ったのだが、セシリアの都合はつくだろうか?」
「え?」
カインの申し出にセシリアの思考が停止する。
彼と一緒に街へ行ったことはあるが、彼から誘われたことなど今まで一度もなかった。だからセシリアは今とても驚愕していた。
きっと婚約を結んだばかりの頃なら瞳を輝かしてすぐさま頷いたことだろう。現に今も淡い期待をしてしまっている自分がいる。
先程カインがアリーに微笑む様子を見て彼の心が自分にないことを悟ったのに、あれは何かの間違いだったのではと思ってしまう。
だがそんな期待は次に発したカインの言葉に砕け散った。
「だが、その……このことはアリーには秘密にしてもらえると有難いのだが」
「……どうしてですか?」
「その観劇はとても人気があるらしく、チケットが二枚しか手に入らなかったんだ」
無表情ではあるが少しだけ不機嫌そうなカインの声音に、「だから婚約者の君と行くしかないだろう」という心の声が聞こえた気がして、セシリアの上がった気持ちが一気に急降下した。
自分という婚約者がいるためにカインは好きな人と一緒に行けないのだと悟ったセシリアは、泣きそうになるのを堪えながら隣を歩く婚約者の顔を見あげる。
緑がかった黒い髪が風に靡いて群青の瞳とすっと通った鼻筋、薄い唇がついた美しい顔は相変わらず無表情だが、心なしか憂いを帯びているような気がする。
自分に黙ってアリーと行けばいいものを、実直なカインは婚約者を差し置いてその妹を誘うなど不誠実なことはできず、かといってせっかく貰ったチケットを捨てるのは知人に不義理にあたると考えた末の苦渋の選択だったのだろう。
カインの悲しい優しさに、胸に虚しさが去来したセシリアの頭の中に浮かんだのは、彼との婚約を解消することだった。
(大好きだからこそ身を引こう。今まで彼の自由を奪ってしまったのは自分なのだから)
本当は自分から「アリーと行ったらどうですか」と提案するべきなのだろう。それでも真面目なカインは断るのだろうが、初めて彼から誘ってくれたデートを断りたくなかった。
婚約したての頃は公園や美術館に行った覚えがあるが、ここ最近は忙しくて全然外出できていなかったし、アリーに邪魔され二人きりになれることも少なかった。
(最後に思い出をつくりたいと思うのは我儘なのかしら?)
逡巡しながらセシリアが立ち止まると、カインが気遣うように首を傾げる。
セシリアはその群青の瞳を見つめた。
カインの静かな夜のように穏やかな優しい瞳には、今は自分だけが映っているが、セシリアが婚約を解消すれば伯爵家の三男であるカインはアリーの婚約者になるだろう。
この国では爵位は男女に関係なく嫡子相続が基本だが、最近の父はセシリアではなくアリーに侯爵家を継がせると言って憚らなかった。尤もアリーは平民の血を引く庶子であるため王家から認められる可能性は低かったが、伯爵家の血を引くカインが婿入りすればその問題も解決する。
優しかった母親との思い出を守るために侯爵家を守ってきたが、セシリアが婚約解消を願いでれば優秀なカインがアリーの婿となり自分よりももっと上手く采配できるはずだ。
自分が身を引けば全て上手くいくのだ。
大好きなカインとの婚約解消を考えると胸がジクジクと痛む。けれどこれがカインやウェールズ侯爵家にとっては最適解なのだと自分に言い聞かせる。
でもそうなる前に彼と二人きりで出掛けたかった。まだあと少しだけ彼の瞳に自分を映してほしかった。
「承知いたしました。アリーには秘密にしておきますわ」
そう言って微笑んだセシリアに、カインは安堵したように頷いたが小さく溜息を吐いたのを見て、セシリアの心にはやるせなさが広がった。
帰宅するカインを見送りいつものように執務室へ向かったセシリアは、机に積まれた書類が目に入るがやる気が起こらなかった。
徐にドレスのポケットに入れていた栞を取り出し、クシャクシャに潰れたそれを丁寧に伸ばしていると頬に生温い涙が伝う。
もう彼に何かを贈ることはない。この栞が、贈ろうとした相手に届く日は永遠にこない。
セシリアは机上のキャビネットから一通の書類を取り出し記入すると、栞と共にそっと元の引き出しへしまいこむ。鍵をかけ涙を拭うと、溜息を飲み込んで山積みになった書類を片付けていった。