侯爵令嬢セシリア
ウェールズ侯爵家長女であるセシリアの婚約者カインはゲイル伯爵家の三男である。
セシリアより二つ年上のカインは夜明け前の森のような緑がかかった黒髪と、深い水の底を思わせる群青の瞳を持つ見目麗しい子供だったが、あまり感情を現さない子供だった。
一方のセシリアも白濁色をした薄紫色のストレートな髪と透き通った紫水晶の瞳をした、一見どこか冷たそうな印象を与える容姿をしており、内向的な性格も相まってあまり友人がいない。
そんな二人が知り合ったのは幼い頃に開かれた茶会の席でのことだった。
同年代の子達がグループを作って遊ぶ中、セシリアは輪に入れずにいた。別に入りたかったわけではないが、自分だけが爪弾きにされているようで情けなくなり、大人たちから隠れるように庭園の隅の生垣の隙間へ移動すると先客がいたのだ。
それがカインだった。
人の輪から逃げてこられて安堵したのも束の間、先客がいたことにセシリアは驚いて踵を返したが、その背にぶっきらぼうな声が掛けられる。
「ここにいたら? 別にあの子たちと仲良くしたいわけじゃないんでしょう?」
本音を指摘されたことにギクリと肩を震わせながらセシリアが振り返ると、カインは自分が座っていた位置を少しずらしてセシリアの座る場所を確保してくれた。
「いいの?」
「いいんじゃない? 僕も無駄に誰かと話すより、ぼんやりと庭を眺めている方が好きだし」
おずおずとセシリアが訊ねると淡々と答えたカインは、視線を庭園の方へ向ける。
少しだけ逡巡したセシリアだったがカインの隣へ大人しく座ると、彼のように黙って庭園を眺めて過ごした。
二人とも何も話さなかったが不思議と気詰まりな空気にはならなかった。
その後も何度かお茶会に出席したが、その度に同じような所で佇むカインを見つけては二人で庭や池を眺めて過ごした。
カインと一緒に過ごすのは心地よかった。
あまり感情を表に出さないが、セシリアが苦手な子が近くへ来たときはさっと居場所を変えてくれたり、隅っこで隠れて過ごしてはいるもののお茶会を途中で退出するような失礼な真似はせず、誰かに話しかけられればきちんと返答をする。
優しくて実直な人柄のカインに次第にセシリアは惹かれていった。
だからセシリアは母にカインとの婚約を懇願した。
普段内向的であまり自分の願望を言わない愛娘からの突然の婚約話に、母は驚きつつも二つ返事で了承するとすぐさまカインとの婚約は成された。
今思えば侯爵家からだけではなく、母の実家であり自分に甘い外祖父である辺境伯の圧力もあったのだろう。伯爵家であるカインとその家族は断れなかった婚約だったのだ。
だが無知だったセシリアはカインと婚約できたことがただ嬉しくて、会うたびに何かしらのプレゼントを用意したりして、口下手ながらも精一杯彼をもてなしていたつもりだった。
それは庭に咲いた花だったり、お気に入りの本だったり、下手くそな刺繍入りのハンカチだったりしたけれど、彼はどんな贈り物でも「ああ、ありがとう」と無表情ではあるが、お礼を言って受け取ってくれた。
そして決まって二人で庭を眺めたり読書をしたりして穏やかな時間を過ごしていた。
カインと婚約してからの二年間は本当に幸せだった。
そんな順風満帆だった人生が壊れたのはセシリアが十三歳になろうかという頃。それまでも病がちだった母カトレアが亡くなってからだった。
大好きだった母が亡くなり、悲しみのまま葬儀が終わると父親から後妻を紹介された。
ほんの少し前まで愛おしそうに母の腰を抱いていた手で、知らない女性を抱き寄せる父の姿に目の前が真っ暗になった。
そして混乱するセシリアへさらに追い打ちをかけるように、自分とほとんど年齢の変わらない少女が引き合わされた。
妻が亡くなったばかりだというのに少女の手をとりお前の妹だと朗らかに笑う父に、生まれて初めて嫌悪感を抱いた瞬間だった。
白に近い薄紫色のふわふわした髪と柔らかいクリーム色の瞳の容姿の少女は、つい先ほどまでセシリアを労わってくれていた父親だった男にそっくりで、髪色は父譲りだが瞳は母譲りの紫水晶の色を持つ自分よりも、ウェールズ侯爵家の血が濃いのだと如実に語っているようだった。
同時にそれはつまり、あんなに母と仲が良かった父が外に愛人を囲い子供まで作っていたという事実で、そのことを到底受け入れられないセシリアは母の死など忘れたように笑みを浮かべる父に背を向けた。
だがそんなセシリアに浴びせられたのは、今まで聞いたことがない父の罵声だった。
「お前のためを思って新しい母親を迎えてやったのにその態度はなんだ!? これからお前のことなど、いない者として扱ってやるからな‼ カトレアに似た生意気な娘め‼」
今まで自分と母を溺愛していた父の口から出た信じられないような暴言に、ポカンと口を開けて振り返ったセシリアが見たのは憎悪の眼差しで自分を見る父と、勝ち誇ったように笑う義母となった女、そして愉悦の笑みを湛えた義妹アリーの顔だった。
それからのセシリアはウェールズ侯爵家において完全に除け者扱いにされた。
父は徹底的にセシリアを無視し、義母とアリーはセシリアの物を盗んだり壊したり、果ては突き飛ばしたりといった嫌がらせを繰り返しては嘲るように笑いとばした。
家族で集う食堂にセシリアの席は用意されなくなった。
そうして一人黙々と自室で食事を摂るようになった彼女の元へ硬い表情の執事がやって来たのは、母が亡くなって二ヶ月ほど経った頃のことだった。
「お嬢様、我がウェールズ侯爵家の資産のことでご相談なのですが……」
「資産?」
執事の言葉にセシリアは首を傾げた。
まだ学生だったセシリアは、自分の家の資産のことなどあまり気にしたことはなかった。ウェールズ侯爵家はとびぬけて裕福ではないが、決して貧しくはない。だから突然執事が資産の話をしてきたことが単純に不思議だった。
それに資産や領地のことで相談ならばセシリアではなく、当主である父にするべきである。セシリアの訝し気な表情に執事は溜息を吐くと、侯爵家の現状を話し出した。
曰く、義母の浪費で侯爵家の資産が物凄い勢いで喪失していること。
曰く、領地経営もおざなりになっていて灌漑設備や商品流通に支障が出てきていること。
曰く、どちらも早急に手を打たないと手遅れになること。
執事が告げた事柄にセシリアは暫く唖然として言葉が出てこなかった。
どうして? という彼女の疑問はその後聞かされた説明ですぐに解決した。
父はこれまで領地経営をしたことがなかったのだ。ウェールズ侯爵家の切り盛りをしていたのは全て母だったのである。
その母が亡くなったのに父は当主の仕事をせず、剰え愛人だった妻と娘に請われるがまま、莫大な無駄遣いを繰り返し潤沢だった資産を食い尽くしていた。
このままでは侯爵家が危ういと焦った執事がいくら父に訴えても、父は楽観視するばかりで領地経営をしようとはせず浪費もやめなかった。
それがウェールズ侯爵家の驚くべき現状だった。
セシリアは生前母から経営学と経済学をみっちり叩き込まれたのだが、全ては一人娘である自分がこの侯爵家を継ぐためだと思っていた。
あの頃は的確で無駄のない母の教育に「当主ではないのに凄いなぁ」と単純に感心していたのだが、父に代わり当主の仕事をしていたのだから出来て当然だったのだ。
結局、執事に泣きつかれ、この日からセシリアは侯爵家の資産管理と領地経営をする日々が始まった。
そうは言ってもまだ学生のセシリアは学園もある。
昼間は貴族の子弟が通う学園へ通い、当主の仕事は夜に熟した。
母に教育されたとはいえ慣れない仕事と学業の両立に何度も挫けそうになった。義母とアリーからの嫌がらせも地味に堪えた。
それでも自分しかこの侯爵家を支える者はいないのだと、母との温かい思い出が残るこの家を守るため歯を食いしばって頑張った。
あれから三年、月に一度の大好きな婚約者とのお茶会だけを心の拠り所にして、侯爵家という巨大な組織を支えていたセシリアの細腕は、今、心と一緒に折れてしまいそうになっていた。