カインの真実
まさかカインがセシリアを糾弾してくるなんて思いもしなかった。
父親と決別する覚悟は決めたが、カインと対峙するなんて夢にも思わなかったのだ。
だが同時に、「ああ、やっぱり」とも思った。
これから見る、カインがアリーの手を取り微笑む光景は、彼を諦めきれなかったセシリアへの罰なのだろう。
彼はいつだってセシリアではなく、義妹にしか微笑まない。
自分の身を守るためと、父親に真実を突き付けるため用意した資料をぎゅっと握りしめ、セシリアは身を固くする。
カインを相手に自分はちゃんと反論できるだろうか。できることなら逃げだしたい。
こんなことなら執事から煙幕をもらっておけば良かったかもしれないと、自虐的なことを考えて精神を落ち着かせていると、ふわりと抱きしめられた感覚に顔をあげた。
「セシリア、やっと触れられた。この日をどんなに待ちわびたか……これからはもう我慢することなく君に触れられる」
状況が理解できないセシリアの腰に腕を回したまま隣の席へ腰掛けたカインが、あの日、アリーと紅茶を飲んだ時に見た蕩けた笑顔を向ける。
「先程、私とセシリアの結婚が正式に許可されたんだ。あぁ、漸く手に入れた! 私のセシリア」
「え?」
紡がれた言葉が吞み込めず間抜けな声を上げたセシリアに、カインは緩んだままの表情で済まなさそうに彼女の髪を撫でた。
「大好きな母親との思い出があるあの屋敷を、本当は出て行きたくはなかったんだろう?
ごめん。私がもう少し早く証拠を掴んでいればよかったんだけれど」
謝罪をしながらもセシリアの髪を撫でつけ抱き寄せるカインに、アリーは勢いよく立ち上がると人差し指を突き付け叫びつける。
「な、何で!? 何でそんな女を抱き寄せるの!? それに結婚って何のこと!? カイン様は私と婚約したんでしょう!?」
「何を言っている? 私の婚約者は後にも先にもセシリアだけだ。それに婚約していたら結婚するのが普通だろう。そんなことも知らないのか?」
「そんなのお姉さまが無理を言った婚約で、カイン様だっていつも無表情で嫌がってて!」
「逆だ」
「へ?」「え?」
アリーに冷たく言い返していたカインから飛び出した「逆」という言葉に、アリーとセシリアは同時に瞳を瞬いた。
カインはアリーの方は見ようともせず、相変わらず撫でていたセシリアの髪を己の指に絡ませると、優しく口づける。
「だから逆だ。セシリアとの婚約は私がセシリアの母であるカトレア様と、ドルトン辺境伯に頼み込んで受けてもらったものだ」
「う、嘘!」
信じられないというように否定したアリーをカインは呆れたような眼差しで一瞥すると、セシリアの反対隣に座る祖父へ恨みがましい視線を送った。
「嘘ではない。その時に辺境伯と約束させられた。結婚するまでセシリアに手を出すな。エスコート以外で触れたら即婚約破棄だと。それから彼女を見て、にやけた顔をしたら殺すとも脅された。本当に地獄だった。笑顔を向ければ殺られるし、手以外に触れたら死ぬより辛い婚約破棄だ。何が悲しくて好きで好きで堪らないセシリアの婚約者になれたのに、表情さえ我慢しなければならない? 拷問だろう!」
吐き出すようにカインが放った言葉に、セシリアはあんぐりと口が開きそうになってしまい、慌てて口元を引き締める。
カインの今の発言から察すれば、彼が今まで自分にだけ無表情だったのは祖父の言いつけを忠実に守っていたわけで、それは偏に自分と婚約破棄されないように不本意ながら、そうせざるを得なかったということである。
ギギギギと祖父の方へ首を回せば、あからさまに視線を逸らした祖父に、カインの発言が嘘ではないことが解り、セシリアの頬に熱が集まる。
赤くなったセシリアを見たカインがまた蕩けるような笑顔になり、甘い雰囲気が包む中、状況を理解できないアリーが金切り声を上げた。
「そんなの嘘よ! だってお姉様といた時はいつもつまらなそうな無表情だったじゃない。あ! もしかしてその怖い辺境伯とお姉様に言わされてるのね!? 心配しないで? 出奔したお姉様ではウェールズ侯爵家を継げないし、私と結婚すればカイン様は侯爵家の人間になるから辺境伯なんて怖くないのよ? 私とお父様が守ってあげるから大丈夫!」
「何が大丈夫なのかは理解しかねるが、セシリアといる時に私が無表情だったのは彼女の可愛らしさに表情が緩むのを抑えていたためだ。うっかり少しでもにやけたら孫娘を溺愛する辺境伯に殺られるからな。侯爵家には辺境伯に忠実なお目付け役がいたし、学園だっていつどこで見られているかわからないから、気が抜けなくて毎日が苦痛だった。セシリアと結婚する前に殺されてたまるかと必死だった。でもやっと解放された。やっとセシリアに愛を囁ける」
「そんな……カイン様は私のことが好きなんでしょう? だって私にはあんなに優しそうに笑いかけてくれたじゃない!?」
詰るようなアリーの言葉ではあったが、そのことについてはセシリアも同意見で、不安そうにカインを見上げると、彼は嘲るように群青の瞳を細く眇める。
「ああ、君を見ていると、侯爵家の人間でありながらあまりに稚拙で醜悪で、つい可笑しくなってしまってね。確かに心の底から嗤っていたよ。なんて愚かなんだろうって」
「カ、カイン様? な、何を言ってるの? 私が用意した紅茶だって嬉しそうに飲んでくれたし、私のためにお菓子だって持ってきてくれたでしょ? 手紙だって楽しみにしてるって言ってたじゃない」
引き攣った笑みを浮かべ、それでも何とか縋ろうとするアリーに、カインは瞳の奥を怪しく光らせると口角をあげた。
「紅茶? ああ、あの高級紅茶はやっぱり君が用意したものだったんだね? アリーとその母親の浪費のせいで倹約を強いられていたセシリアが購入するはずないものな。私が行くと君は最高級の菓子を用意してくれていたり、宝石や煌びやかなドレスを見せてくれたよね? 別荘を数棟買ったから遊びに行こうと言われた時はさすがに驚いたよ」
ニコニコと語りだしたカインに、アリーはホッとしたように眉尻を下げる。
「だって、カイン様が喜んでくれると思ったんだもん」
カインがいつもの笑顔を見せてくれたことで安心したのか、今はまだ横領についての詮議中だという状況を失念してしまっているのか、甘えた声で言い訳するアリーは自らセシリアが無駄遣いをしていないと認めてしまったことに気付いていない。
チラリと王太子を見たカインは、彼が目線だけで頷くのを見ると溜息を吐いた。
「アリーがいつも用意していたあの紅茶は、セシリアが好きだった銘柄だったから、忙しい彼女がせめて紅茶くらい美味しいものを飲んでいてくれたらって思っていたんだ。美味しそうに紅茶を飲むセシリアを想像したら、思わず頬が緩んでしまったけれどね。お菓子はお礼にかこつければセシリアに会う口実になるからいい案だと思ったんだけど、失敗だったよ。せっかくセシリアが喜ぶと思って持っていったのに、抱き着こうとするバカ女を避けるために盾代わりに使うはめになるし、肝心のセシリアは一口も食べてくれないんだから。それでも帰りに久しぶりにセシリアから手紙をもらえて、喜び勇んで開封した中身が婚約解消の書類だった私の絶望が解るかい?
ちなみにアリーの手紙が楽しみだったのは、バカな女が侯爵家の内情をばらしてくれると期待したからだよ。セシリアと結婚したかったらウェールズ侯爵家の悪事の証拠を洗いざらい揃えろとか、無理難題の課題が追加された時は本気で殺意を覚えましたよ、ドルトン辺境伯。いえ、もうお祖父様とお呼びしてもいいですよね?」
鋭い目つきで睨みつけてきたカインに、ドルトン辺境伯が苦笑いを浮かべ頭を掻く。
セシリアにもジト目で見られ、居た堪れなくなったのか明後日の方向を向く辺境伯を横目で睨みつつ、カインは呆れたように言った。
「尤もアリーの手紙は呆れる位に中身のない内容で落胆させられたから、返事は書く気にもなれなかったけどね。まぁ、姉の婚約者に言い寄るクソビッチ相手に、端からまともな返事を書くつもりなんてなかったけど」
鼻で嗤ったカインに、アリーは頬を紅潮させるとクリーム色の瞳の眦を吊り上げる。
「嘘! 嘘! 嘘! みんな嘘! お父様だってその陰気な女より私の方が何倍も可愛いって、自分の娘は私だけだって言ってくれたもん! カイン様が私よりその女がいいなんて有り得ないんだから! 大体セシリアはもう侯爵家の人間じゃないもの! 婚約は白紙よ! 侯爵家の資産を横領するような女は早く牢屋にでもぶち込んでよ! そこの衛兵! さっさと仕事しなさいよ、役立たず! 立ってるだけで給料が出る税金泥棒のくせに!」
「そ、そうよ! 早くセシリアを捕まえなさい、能無し! ああ、可哀想なアリー。貴方、私達の娘がこんな侮辱を受けるなんて耐えられないわ」
「む、そうだな。カイン殿には失望した! ゲイル伯爵家との縁は切らせてもらうからな! 侯爵家に逆らったこと死ぬほど後悔するがいい!」
「どうぞご随意に。貴方がたと縁を切っていただけるなら幸いです」
激高し八つ当たりのようなことを言い始めたアリーに義母も同調し父親を焚きつけるが、不敵な笑みを浮かべたカインに一蹴され、更にギャーギャーと喚きだす。
すると、それまで黙って成り行きを眺めていた王太子が口を開いた。
「学園への裏口入学事件と弟の話から酷いとは思っていたが、ここまでとは……」
ポツリと零した言葉に、王太子の周囲に座っていた重鎮達の顔に緊張が走る。
にこやかに微笑んではいるが、王太子のこめかみには青筋が浮いている。出自に関係なく公平な振る舞いを良しとするこの公正な王太子は、身分を笠に下の者を嬲る輩が大嫌いで有名だった。
「衛兵を侮辱する発言は許しません。彼らはきちんと彼らの職務を全うしています。それからここはウェールズ侯爵家の横領の詮議をする場です。話がだいぶ脱線してしまったようですが、横領の事実があったのかを明確にするにあたり、ウェールズ侯爵家の内情についても、この際はっきりしておきましょう」
静かではあるが有無を言わせぬ圧力で発せられた王太子の言葉に、それまで騒いでいたウェールズ侯爵家の面々が、渋々といった体で着席する。
その様子を、笑みを浮かべているのに氷のような眼差しで見やってから、王太子は宰相へ目配せをした。
王太子の視線を受けた宰相は、ヤレヤレといったように起立するとウェールズ侯爵家の方へ向き直る。
「では己の立場を弁えぬ方々にもわかるように、私が説明して差し上げよう」
小バカにしたような宰相の言葉に、父親は眉間の皺を深くし反論しようとしたが、王太子の無言の圧力で静まり返った空気を察したのか口を噤むと、面白くなさそうに居直った。
そんな父親を呆れた目で見ながら、宰相はウェールズ侯爵の内情の説明を始めるべく一つ大きく咳をした。