2-1 誰でもない男
男が目を覚ますと、そこは見たことがない部屋の中だった。 板に製材されていない丸木を利用した壁は、家というよりは山小屋という感じだった。
(どこだ、ここは・・・) 男が起きようと思うと、全身に激痛が走り、体も動かすことができなかった。 無理に頭を動かして周りを見ようとすると、頭に激痛が走った。
「あっ、母ちゃん。 起きたようだよ!」 子どもの声がした。 5歳くらいの男の子が、男の顔をのぞき込んだ。 すると若い栗色の髪の女が男の脇に座ると、額に掌を当てた。 熱が下がっているのを確認して、女は男の子に微笑んだ。
「ここは、どこだ・・・」 男は女に尋ねた。 女は困ったような顔をした。
「ここはクオン村だよ。 母ちゃんは父ちゃんが死んでから、ショックでしゃべれないんだ」 男の子が言った。
「クオン村・・・」
「オイラはペック、母ちゃんはエリオラ、美人だろ。 おじさんは?」 少年がそう言うと、母親は恥ずかしそうに少年をたたくまねをした。
「えっ、私は・・・、私は・・・」 男はそう言うと、苦しそうに頭をおさえた。
「頭が痛いのかい。 無理はしないほうがいいよ。 空から落ちてきたんだから」
「空から? 私はどうしたのだ? 何も思い出せない」
「おじさん、みんな忘れてしまったのかい?」
「ああ、私が何者で、どうしてここにいるのか思い出せない」
「おじさんは三日前の朝、森の中に落ちてきたんだよ。 枝に当たって怪我をしたのをオイラと母ちゃんでここまで運んだんだ」
「二人で?」
「ああ、二人では重くて運べないから、枝を下に敷いてカブラが引いてくれたのだけどね」
「カブラ?」
「そう、オイラの友達で力持ちなんだ」 そう話していると、エリオラと呼ばれた女性が、木製の椀を持って来た。 そして木製のさじで粥のようなものをすくって男に食べさせた。
「ペック、と言うことは、私は三日も寝ていたと言うのかい」
「そうだよ、熱をだしてうなっていた」
「そうか。 エリオラさん、ペックありがとうございます」 男がそう言うと、二人は笑った。
10日後
男の怪我は大分良くなってきていた。 肋骨1本、右の前腕の骨折、それと全身打撲、側頭部にも打撲があったが、脳に損傷はないようだった。 しかし、記憶だけは戻ってこなかった。 まだ全身が痛むが、ゆっくり体を動かすことは出来るようになっていた。
(俺は何者なのだ?) 思い出そうとすると頭痛が起こった。
一カ月後
男は、驚異的な回復をみせた。 まだ完全ではなかったが、日常の生活には不自由しない程度には回復していた。 エリオラ親子は、以前は別の村に住んでいたが、1年ほど前にエリオラの夫が戦死したので、知り合いの村長を頼ってクオン村にきたと言うのだ。 エリオラは村長から村外れに、この小屋と少しばかりの畑を借りて細々と暮らしていたのだった。 二人の財産はカブラという農作業に使っている動物だけだった。 サイのような体に牛のような角が生えたおとなしい動物だった。 ペックはそのカブラを巧みに操ると、畑を耕していた。 男は体が動くようになると、少しずつ農作業や薪割りなどを手伝った。
おかしな三人の奇妙な生活が続いた。 男の記憶は相変わらず戻らず、行くあてが無かったからだ。 エリオラもペックも貧しくはあったが、男を追い出そうともしなかった。 知らない者が見たら中睦まじい家族だと思ったことだろう。