09 初めての戦い
ここで死ぬのだろう。
恐怖と、奇妙な安心感が胸を満たしていく。足どころか、指先ひとつ動かないし、声も出ない。なにも抵抗できないまま、ただ身を固くして最期を迎えるのだろう。
嫌だ。
でもこれでいい。
命を刈取ろうと迫りくる影を見つめる。
悪夢の終わりがやってくるような光景。影の向こうの星があまりにもきれいで。
心が研ぎ澄まされる。アストレアは導かれるように手の伸ばした。
「炎よ」
無意識の言葉がアストレアと影の間に、赤い炎を生んだ。
炎の光が夜闇を払い、影を照らす。炎に暴かれた姿もまた、闇で真っ黒に塗りつぶされていた。
突然の炎に影は驚き、戸惑い、身体の正面を両腕で守ろうと身をよじる。
炎におびえる黒い人影、その姿こそにアストレアは恐怖を感じた。与えられる恐怖ではなく、心の内から呼び起こされる恐怖を。
「やめて!」
炎が消える。
自らが焼かれたかのような恐ろしさに身体が震える。心臓は激しく脈打ち、息が、できない。
見たくない。こんなものを見るぐらいなら。
(死んだ方がいい)
影が、壊れかけの操り人形のように。ふらふらとおぼつかない足取りで向かってくる。火に警戒しながらも狩りの意思は強固だ。
アストレアは瞼を下ろした。
もう何も見たくない。何も考えたくない。ただ、執行の時を待とうと思った。
短いはずのその時間はやけに長く感じた。
刹那の時を待つアストレアの耳に、物が激しくぶつかり合う音が響く。弾かれたように顔を上げると、影が横から叩き飛ばされているのが見えた。
「え?」
大きく身体が傾ぎ、そのまま地面に叩きつけられる。
砂音の余韻が途切れぬ中、影とアストレアの間に別の人影が割入ってくる。
「ジーク様!」
最もありえない存在であり、暗闇の中でも絶対に見間違うはずがない存在。
ジークフリートは腰の剣に手をかけていつでも抜ける状態にして影と対峙する。アストレアを守るように。
「何者だ」
誰何に影は答えない。
アストレアすらまだ一声だって聞いていない。音を失ってしまったとしか思えないほど、影は無音だ。
無音のまま身体を動かし立ち上がろうとする。
「なんだ、あれは」
「わかりません。いきなり追いかけてきて」
聞かれて、普通に答える。なんの苦しさもなく声が出た。
ジークフリートがあまりにも普段どおりで。
息は整い、立ち方にも力み過ぎたところがない。未知の相手と対峙しても動揺してもいない。
剣はまだ抜かれていない。
抜こうか迷っているように見えた。そして、抜かずに戦うことに決めたようだった。
「足止めするからお前は逃げろ。近くに俺の護衛がいるはずだ」
でも、という言葉を飲み込む。
ジークフリートは命に替えても守らなければならない人だ。しかしアストレアが自分を置いて逃げるように言っても聞く人ではない。
アストレアさえいなければジークフリートはもっと自由に動ける。
立たないと。立って、逃げないと。
逸る気持ちと身体が噛み合わずもたつくが、身体は動く。ぎこちないながらも立ち上がった時、影がいきなり覆いかぶさるように襲ってくる。
ジークフリートは充分引きつけてから腰の剣の柄を逆手で握り、相手の腹部を突き上げる。
衝撃で影の身体が大きく折れ曲がる。そのタイミングで肘を使って横から押し、影の身体を倒す。
普通の人間なら胃の中のものをすべて吐いている。影も横に倒れたまま痙攣したように震えていた。
力量の差は明らかだった。
アストレアにとっては恐怖の対象でしかなかったのに、ジークフリートにとっては赤子の手をひねるかごとくの相手だ。
それでも何をしてくるかわからない。
いまアストレアにできることはとにかく距離を取ること。
大丈夫。走れる。
「行け」
「ジーク様、お気をつけて」
走りかけたその時、周囲の空気が変化した。ひやりと刺すように冷たく、重く、更に暗く。
闇が濃くなっていっている。熱を、光を、食べながら。
振り返ると影の足元に闇の溜まりができていた。じわりじわりと湧き出す泉のように同心円状に広がっていく。
「早く行け!」
アストレアもそうしたかった。
だが、足が動かない。
影を覆っている闇が、恐るべき速さで広がっていく。
それらが公園の草花に触れると、草花は一瞬で枯れて灰塵と化した。
木に触れると、葉を落とし、枯れて、倒れて、消える。
命を奪っている。
釘付けになっていたアストレアの腕を、ジークフリートが無理やり引っ張って走る。引きずられるように走りながら、アストレアは考えていた。
逃げてどうなる? どうにかなる?
止めないと。
このままでは、自分たちだけではなく王都が危ない。
ジークフリートがアストレアを前に投げ出す。転けそうにながらなんとか持ち直した時、ジークフリートは剣を抜いていた。
闇の中から伸びてきた手を一閃で切り払う。
「早く逃げろ!」
――できない。
――あなたは私が守らないと。
目の前にあるのは闇。
先祖の残した言葉が。覚えたばかりのランタンの魔法が胸に灯る。
――闇を燃やす炎。
可能性がわずかにもあるのなら、未来を照らして。
星よ。炎よ。光よ。
赤よ焼け、白よ祓え。
風よ吹け。
闇を燃やせ。
「星の風!」
頭の先から指の先まで、すべての魔力を込めて叫ぶ。
視界が白く染まり、強い風が天から吹く。
嵐のようにごうごうと吹き荒び、あたりを一掃する勢いで吹き抜ける。
そして、唐突な静寂。
髪も服も散々に乱れたアストレアが次に見たものは、戦いに傷ついた公園と、穏やかな夜空。
命を奪う闇はもうどこにもない。
あるのは、呆然とアストレアを見つめるジークフリートの姿と。
地面に伏せて眠る、若い女性の姿だった。
その顔からは闇が拭いさられ、白くきれいな、そしてどこか物悲しい相貌を見ることができた。