08 闇との遭遇
(私、悪いことをしているわ)
こんな夜更けに誰にも言わずに家を抜け出すなんて。
隠し通路から家の裏手、敷地外まで出てしまった時、アストレアの胸は興奮に満ちていた。
闇色のローブを頭から被る。
夜の貴族街には昼間と同じく衛兵が警備したり巡回していたりする。
見つかったら大変だ。とてもとても怒られるだろう。
(私、とても悪いことをしているわ)
わかっているのに帰ろうとは思わない。これは冒険なのだ。
それにしてもあの隠し通路、覚悟していたほどには古びてなかった。時々使われていたようでもあった。
(まさかお母様とか? まさかね)
あの厳粛な母が隠し通路を使って内緒で外に抜け出すなんて、たぶんありえない。
ローブにしまっていた髪を出す。
ああ、夜のにおいがする。夜風が気持ちいい。
外は、空は、広い。
広くて自由だ。
見上げた夜空は高く。
世界を手に入れたみたいだった。
夜空は静かなのに、街には人が動いている気配がしている。それもそのはず。貴族にとっては夜こそが本当の活動時間だ。
劇場、クラブ、パーティ。
大人たちの社交の場所はたくさんある。だから人の行き来も思ったより多い。馬車の気配を感じたら道の端に座り込んで闇に隠れる。
見つからないように慎重に、貴族街を歩いていると、開けた場所から王城の影が見えた。
「大きい……」
この国の中心である、大きな存在。
――王とはなにか。
今日もまた問いかけてくる。
ルシーズと話したあの日からずっと考えていることが。
――女王とは何か。王とは何か。
目的もなく歩き続ける。空を、街を、国を眺めながら。
(王とは、国の責任を取る人)
では王にふさわしいのは。
(私利私欲の薄い人……?)
強すぎる欲は国にまで悪影響をもたらす。欲は行きすぎれば戦争すら引き起こす。
そんな話をたくさん読んできた。
(与えられた権力を、自分の好き勝手にできるものだと思わない人)
王権を横暴に振り回す王にはふさわしい末路が待っている。自業自得だが付き合わされる民は不幸だ。
王の権力はあくまで民から託されたものなのだ。それを忘れてはいけない。
歩きながらくるりと回り、スカートの裾をひらめかせる。
――王とは何か。
(自分でなんでもしようと思わない人)
王とはいえひとりの人間。人ひとりにできる仕事は限られている。持っている時間も皆と同じ。なら、たくさんの優秀な部下たちに仕事を任せられる人がいい。
そうやって、優秀な人たちが国を動かしていけば、王が指示をしなくても自然といい方向に向かっていくのではないか。
もちろん責任は取らなければならないけれど。
(国の一人ひとりが、より良い明日を目指そうとする。そんな風に思える国をつくれる人……)
アストレアは、そんな王が理想だと思う。
そして、そんな国になれれば、きっといつか。
(王はいらなくなる)
「…………」
とても大変なことを考えてしまった気がする。
この考えはいったん封印しておこう。
でも、いつかそんな日が来るかもしれない。王のいない、もしくは王権が弱い国がどこかで生まれるかもしれない。
時間はかかるかもしれないけれど。
きっとその国は元気のある国だろう。
前向きな気持ちになり、小さく頷き顔を上げる。さて、そろそろ帰らないと。こっそりといなくなっているのがバレたら大目玉だ。
その時、道の先で誰かが立っているのが目に入った。
人影がぼんやりと立って、どこか遠くを眺めている。
斜め後ろからなので顔は見ることはできない。
(女の人? こんな時間に、ひとりで?)
まとめられていない、ゆるいウェーブのかかった長い髪。細い身体の線に、裾が広がるスカート。暗闇の中なので詳しい姿はわからなかったが、シルエットだけでも若い女性というのはわかる。
だが、ふと気づく。あれはメイドの格好だ。ヘッドドレスはないが、あのスカートとエプロンドレス、靴。
メイドの格好をしているだけか、本当のメイドかは距離があるためわからないが。
女性は立ったまま動かない。少し様子がおかしい気がしたが、子どもの自分がひとりで出歩いているのも怪しすぎる。すぐに隠れないと。
隠れられる場所を探してあたりを見回すと、近くに公園があるのが見えた。広い敷地だが建物がなく、たくさんの木が植わっている。あそこなら身を隠せる場所がたくさんある。
大きな足音を立てないようにこっそりと移動しかける。
あの女性はどこへ向かうのか――確認のためもう一度視線を向ける。
(なんだろう。影が、歪んで見える)
女性のシルエットの輪郭が、まるで炎か煙のように揺らいでいるように見えた。ぽろぽろと、剥がれ落ちていくようにも見えた。
影の頭が、くるりとアストレアの方を向いた。
真っ黒な影に染まった顔の中で、双眸が白く光った気がした。
気づかれた。
考える前に身体は全速力で駆け出していた。
(あれは、なに)
目を見た瞬間わかった。彼女には理性も知性もない。あるのはただ憎悪。書物で得た知識から探せば、魔物、という呼び名が一番近い。
闇の魔力に染まり、心を失くした獣。騎士団の討伐対象でもあるから存在自体は知っているが、それがまさか王都の中に出るなんて。
走りながら振り返る。
(追いかけてきているー!)
明らかにアストレアを狙い、追いかけてきている。
魔物は人を襲う。目についた人間を手当たり次第に襲う。それは生存本能のためではない。魔物は、人を食べない。何も食べない。
ただ傷つける。そして殺す。
世界への悪意だけでできたかのような存在。
必死に逃げる。走る。
振り返る余裕はない。それでも背後に恐怖を感じる。息が上がる。助けを呼ぼうにも喉が詰まって悲鳴も出ない。
魔法は? ダメだ。魔法を使うのは足を止めて、相手と向き合って、集中しないといけない。そんな余裕、ない。走りながら魔法を使う練習をするべきだった。
いまできることは逃げること。
どうしてこんなことになったのか。
家から出なければよかった? でもそうすれば、いまごろ別の誰かが追われていた。
そう思うと。
(私でよかったかもしれない)
身体がふわりと浮き、全身に衝撃が走る。
転んだと気づくまでにどれほどの時間を必要としただろう。
そこは公園だった。無意識のうちに最初の目的地を目指していたようだった。
影はすぐ後ろにいた。
立ったまま、ぼんやりとアストレアを見つめている。
妙な抵抗をしないか様子を見ているのだろうか。アストレアは動けなかった。
そして、影は決めたらしい。
何も言わす。何も求めず。
真っ暗な顔でゆっくりと手を伸ばしてきた。