36 プロポーズ
空が高い。
十年前、十六歳の心を持ってから初めて再会したあの日のように。
あの時と同じバラ園で、こんな気持ちで見つめ合えるのは奇跡かもしれない。
アストレアはベンチから立ち上がり、ジークフリートとまっすぐに向きあった。
「ジーク様、婚約を破棄してください」
「それは……」
迷いが見える。
けれど今回ばかりは引かない。
こんな婚約、こんな結婚、お互いに幸せになれない。
幸せになる気も、幸せにする気もない婚約なんて、そもそも結婚する気のない婚約なんて早めに解消するべきだ。
「私は、ジーク様のことが大好きですから。ジーク様には本当に好きな方と幸せになってほしいんです」
ジークフリートがそう思える相手ができることが、自分の幸せを受け入れられるようになることが、いまのアストレアの願いだ。
そのためならどんなことでもできる。もう、悲しくて泣いたりはしない。
願いが叶ったときは、きっと嬉しくて泣くだろう。
「この指輪もお返しします」
ずっとはめていた指輪。
婚約の日に受け取った、竜の涙から生まれたという、ヴィルヘルム家の至宝。
「ごめんなさい、星は消えてしまいましたが……魔王を打ち破った証ということで」
指輪を外し、ジークフリートに渡す。
ジークフリートは戸惑いながらもそれを受け取った。
「これで、お前の言う偽りの婚約は終わりだな」
「はい」
本当は寂しいけれど、これで元通りだ。
これからは友人として一生支え続けたいと思う。そして、必ず幸せにしてみせる。
アストレアはドレスのスカートを軽く持ち、淑女の礼をする。
「それでは、私はこれで――」
踵を返そうとした、その時だった。
「行くな」
強い声と、腕をつかむ力がアストレアを引き止めた。
(ジーク様?)
何事かと振り返る。
深い青の瞳が、まっすぐにアストレアを見ていた。
「アストレア。俺と結婚してくれ」
「……えっ?」
声も表情も真剣そのもので、言葉も簡素なもの。
だが、アストレアにはその言葉が、意味が、理解できない。
確かにいま婚約は破棄になったばかりなのに。
「ど、どういうことですか。意味がわかりません」
混乱して顔をそむける。ジークフリートの顔を見ていることができない。心臓が飛び出してきそうなほど跳ねている。
後ろに下がろうとした足がふらつき、身体がよろめいた。
「あっ……」
両腕で抱きしめられる。
心臓が壊れそうなほどうるさくて。頭が真っ白で、何も考えられない。
身をよじろうにも、身体が固まって動かない。
「ジーク様、離して……」
「嫌だ」
低い声が身体の奥まで響く。
――わからない。
前の婚約の意図はちゃんと理解できたと思う。だが、今度はまったくわからない。
「……お前に対する気持ちを、どう言葉にすればいいのかずっとわからなかった」
静かに響く声が、熱い。
頭を抱き寄せられ、身体に当たる。
その時気づいた。ジークフリートの心臓も、アストレアと同じくらい早く、強く、動いていたことに。
「顔が見たい、声が聞きたい。傍にいたい。笑ってほしいし、泣いた顔も見たい。こうやって、抱きしめたい」
背中に触れる指に、力がこもる。
「俺が守るんだと思っていた。ずっと前から、お前のことを想わない日はなかった」
「ジーク様……」
抱きしめられていた力が少し弱まり、指が、アストレアの頬から顎を撫でていく。
顎に指を添えられ、顔を上げられる。
深い青の瞳から目を逸らすことができない。
「レア」
呼ばれただけで涙が出そうで。
「俺と、結婚してほしい」
「……はい」
唇に唇が重なる。
甘い感触に身体が震えた。
強く抱きしめられ、もう一度。
息が上がる。
涙が零れる。
全身が火のように熱い。
心も、身体も。
どうなってしまっているのかわからない。
(……あれ?)
――違う。
違う。これは、こんな、こんなこと。
「ご、ごめんなさい。いまのは――」
なかったことに、と言おうとした口は再び唇で塞がれる。
「聞かない」
「だってこんな……こんな、幸せなこと」
胸に顔をうずめて、声にならない声で叫ぶ。
こんな幸せ――許されていいはずがない。
「そうか。そんなに俺のことが好きだったのか」
「そうですけど!」
顔を上げ、固まる。
――こんな幸せ、許されていいはずがない、のに。
子どものように笑うジークフリートから目が離せない。
こんな笑顔を見せてもらえるなら。
アストレアでも、少しでも彼を幸せにすることができるのなら。
「必ず、幸せにする」
「ジーク様……」
ジークフリートはアストレアの手を取って、指に口づけをした。
「レア」
甘い響きが、熱が、ずっと凍てついていた部分を溶かしていくようだった。
「愛している」
##
魔王が頻出した混沌の時代、炎の聖女と呼ばれる女王アストレアと王配ジークフリートの物語と、無名の勇者ユリウスと女神エリスの物語は、この時代を代表する人気の物語となる。
またアストレアは書の守護者とも呼ばれ、教育の普及に努めると共に、数多くの文献を編纂、保護し、後世に残した。特に魔王に関する文献は後の魔王討伐の大きな力となる。
彼女の妹であるエリスと、勇者ユリウスをよく助けた女神エリスは同名のためしばしば混合される。まったく荒唐無稽な話であるが、またそれを否定する記述もどこにもない。
――魔王に勝利したとある軍人の手記。
この時代、勇者と呼ばれすべての責任を負う個人はもういない。
終幕です。ここまで読んでいただきありがとうございました。
もしよかったら評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いします。




