32 炎の魔女
暗闇の中で泣いている。
声も出せず。
涙も流せず。
赤い、炎のような髪。暗闇に隠されていてもわかる。毎日見ている顔だった。鏡を見ればいつでもそこにいた。
同じ髪型、同じドレス、同じ格好で。
ただひとつ違うのは。
指輪がないこと。
その左手に指輪がないこと。
赤い、蒼い、オレンジ色の炎をまとって。
泣きながらアストレアを見ていた。
##
(いまのは……?)
意識を失いかけているのだろうか。夢か幻を見ていた気がする。
聞こえるのは心臓の音と、ちりちりと炎が踊る音。
見えるのは無力な自分の手と、幼火が床に広がっていく様。
このままでは城を焼いてしまうかもしれない。女王が、家族が、大切な人たちが、たくさんの人々が集まっているこの城を。
――嫌だ。
そんなことは嫌だ。早く消さないと。
「嫌なら燃やしてしまえばいい。すべて」
――燃やす。
違う。燃やしたくなんてない。
いますぐ消してしまいたいのに、炎はじわじわと広がっていく。
炎に焼かれる城を思い、それを喜んでいる自分もいる。
その自分にぞっとする気持ちと、受け入れようとする気持ちがある。
――嫌だ。
――燃やせ。
「この城を。この国を。この世界を」
自分の心が、乱れる。
まるで内側に何人もいるかのように。
思考がまとまらない。
ぼやけた視界の先にあった手が燃える。炎が躍る。熱くも痛くもない炎。自らの内側からあふれ出している、魔力の炎。
魔力によるものなのに、止めることができない。
意識が朦朧としてくる。意識を手放してしまえば、流れに身を任せてしまえば、きっと楽なのだろう。
眠りに落ちてしまいそうになった刹那――
激しい音を立てて扉が外側から破られた。
「レア!」
声が、アストレアを震わせる。
部屋に押し入ってきたのは正装姿のままのジークフリートだった。誰も連れず単身で。
(どうしてここに?)
いるはずがない。きっとこれも夢。炎の見せるただの願望。
ジークフリートは床に倒れたアストレアとユリウスの姿を見た瞬間、即座に剣の柄に手をかける。
「ユリウス、お前……!」
「随分と早いな」
ユリウスは残酷な笑みを浮かべたまま立ち上がり、アストレアを挟んで後ろへ――窓側へと下がる。
「やっぱりずっと疑ってくれていたのかな」
「ああ。レスターに手を出した日からな」
レスターはユリウスの家。ユリウスの父である前当主が事故で亡くなったとき、息子のユリウスではなく親類がそのすべてを継いだ。
「彼らは滅びて当然だった……」
喉を掠れさせ、吐き捨てる。
恨んでも復讐を遂げても、まるで気が晴れていないかのように。
「彼らこそが邪悪だ、畜生だ……貴族こそが悪だ……この国も、女王も」
血が混ざっているかのような声で、呪詛のように繰り返す。
「レアは関係ないはずだ。レアに何をした」
ユリウスは笑う。腹の底から大きな声で。
「君が言うのか。僕は何もしていない。自分が何者かを教えてあげただけだよ。すべてを焼き尽くす魔女だと」
「魔女だと? ふざけたことを!」
ユリウスは答えない。答える必要のない些事だと言わんばかりに。
アストレアの視界がにじむ。息が、苦しい。
だがまだ目は見える。剣を抜けずに歯噛みする姿が。
「ジーク、様……」
まだ声が出る。
向けられた視線で、声が届いたことがわかる。
「私を殺してください」
「――――ッ!」
「止めたいのに止められない……このままじゃ……」
全身から血が失われていき、冷たく凍てつき、からっぽになったところが闇に満たされていく。
心が、身体が、魔力が、自分のものではなくなっていく。
このままでは燃やしてしまう。目に映るものすべてを。
もう止められない。
それだけは嫌だ。せめてその前に、闇に落ちる前に、命を絶つことで止めてしまいたい。
自分でしようにも、もう何も自由に動かせない。
「お願いです……」
「殺してあげればいいじゃないか。いままでそうしてきたように」
ユリウスの笑い声が反響する。
「僕を斬れなかった君には無理だろうけれど」
遠くから悲鳴が聞こえる。
舞踏会の音楽はいつの間にか消え、大広間の方から怒号と悲鳴が重なって響く。
「この国を滅ぼしてやる」
憎しみが声となり。
「貴族を。お前を……すべてを! そのためなら、魔王だって呑んでやる!」
叫びとなり。
涙になる。
##
暗闇の中で泣いている。
声も出せず。
涙も流せず。
「私なのね」
赤い、炎のような髪。暗闇に隠された顔。
同じ髪型、同じ赤いドレス。
何度も何度も夢に見た。魔女となりすべてを燃やす夢を。起きたらいつも忘れてしまう彼岸の自分。
魔女の足元――ドレスの裾は炎が広がり。
その手の先にも、髪にも。炎がゆらゆらと踊っている。
すべてを燃やそうとした炎の魔女。
「本当はこんなことしたくなかった」
悲しくて、悲しくて、何もかもが嫌になって、魔女に堕とされてしまったけれど。
「だって、ジーク様のことが大好きだったもの」
不器用でぶっきらぼうで、やさしいあの人が、大好きだった。
ずっと彼の支えになりたいと思っていた。
――どれだけ願っても、彼の心は自分の方には向いてもらえなかったけれど。
想っていたこと。好きだったこと。それは間違いではない。こんな風に燃やしてしまいたくはなかった。ましてや、彼の悲しむことはしたくなかった。
たくさんの人を巻き込んでしまって、こんなひどいことをしてしまって。
最後に、殺させてしまうなんて。
「悲しかったけれど、嬉しかった」
でも、もう、あんなことは。
「私もジーク様のことが大好き」
最初からずっと好きだった。好きになって欲しかった。
支えになりたかった。
でもそんなこと言えなかった。
受け入れてもらえないのが怖くて。
恋に溺れることが怖くて。
自分を失うのが怖かった。
もう二度と、誰も傷つけたくなかった。
「この気持ちは私のもの」
誰にも否定させない。
誰にも利用させない。
魔女が泣いている。
炎が燃える。白い炎が暗闇を燃やしていく。
影に覆われていた顔が照らされていく。
あなたは私。
今度こそ、一番大切なひとを守るために。




