31 失恋
テラスに出ると、涼しい風が頬を撫でた。ガラス一枚挟んだだけで、大広間の熱気が遠くなる。
誰もいない静かな空間を独り占めにして、朝方まで祝福に湧く王都と、夜の空を見つめる。
残念ながら今夜は雲が厚い。雨は降らなさそうなのが救いか。
零れたため息の大きさに自分で驚く。
「こんなに麗しい姫をひとりにして、ため息をつかせるなんて。パートナーは仕方のないやつですね」
背後から聞こえた声に振り返る。
「ユリウス様」
騎士の正装姿のユリウスが穏やかな笑みを口元に湛えて佇んでいた。
ジークフリートが黒衣の騎士なら、ユリウスはさながら白銀の貴公子だ。血の通った彫刻のような美しさがある。
「きれいですね」
ユリウスが呟く。
「ええ、本当に。街の光が海のようで。本物の海を見たことはないのですけれど。いつか見てみたいです」
どこまでも続くと言われる水の世界。
この世には知らないものがまだまだある。海も、雪原も、砂漠も。本の中でしか知らない世界を、いつか見てみたいと思う。
「夜景も美しいですが、貴女の方が美しいですよ」
「ふふ、ありがとうございます」
声を出して笑うと、心が少し軽くなる。
「海か……僕も見たことはありません。いつかご一緒出来たらと思います」
アストレアのそばに来て、手すりに手を置く。
瞳は街を見ながら――更に遠くの景色を見ているようだった。
「姫は時間を巻き戻したいと思ったことはありますか?」
不思議な問いに首を傾げる。
いまの記憶を持って過去に戻りたいか、ということだろうか。
どうして突然そんなことを聞くのだろうか。だが、興味深い問いでもあった。
「後悔していることはたくさんあります。でも……」
本当にやり直せるならやり直したい。
悲しみや後悔なんて数えきれないほどにある。
それでもいままで、時間を巻き戻したいとか、そんなことは考えたこともなかった。
時間はただただ進むのみで、自ら進んで行かなければ追いつくこともできなくなる。そういうものだと思っていた。
だから走り続けなければならないと。
止まっている暇などないと。
「…………」
アストレアは首を横に振った。
「よく、わかりません。ちゃんとお答えできないのは、私はまだ身が引き裂かれるほどの悲しみを知らないからでしょう」
先が見えない絶望を知ったとき、時間を巻き戻したいと思うのだろうか。
願ったとしても。
それでも時計の針は戻らない。
「悲しみを知ってなお時計の針を進める方々を、心から尊敬します」
絶望に打ちひしがれる時があっても、それでも生きて、前に進み続ける人々を。本の中で、生きている中で、出会ってきた人々を、心から尊敬する。
ユリウスの横顔には、寂しげな笑みが刻まれていた。
「あんまり姫を独り占めしていると、怒られてしまうな」
先ほどまでのさみしげな表情が消えて、理想の騎士そのものの姿に戻る。
「ジークが探しています。個室の方へ来ていただけますか」
「あ、はい」
ダンスの行列は終わったのだろうか。大広間ではなく、わざわざ個室に呼び出すなんて何の用事だろう。
不思議に思いながらもユリウスの後を歩き、テラスから大広間を通らずに外の回廊から個室の並ぶ区間へ向かった。
##
舞踏会の会場になる場所の近くには、ダンスに疲れた時に休める個室が用意されている。
人の気配がほとんどない廊下を通ってアストレアが案内された部屋は、明かりの灯っていない客室だった。ベッドと長椅子とテーブルがあるだけの、さほどはない部屋。
アストレアが室内に入ると、扉が閉じられる。
(あれ……?)
暗がりの個室にふたりきり。
この状況はもしかしたらまずいのでは?
(いえ、ユリウス様はジーク様の従騎士だし)
変な疑いを持つのは良くない。
「貴女は時に大人のようで、時に少女のようですね」
「そうですか? 自分ではよくわからないかも」
窓の方へ近づくと、ガラス越しに舞踏会の音楽が聞こえてくる。
「あ、ここからは噴水が見えるんですね」
植わっている樹の影の向こうに、中庭の噴水が見えた。魔法の光を受けた水がきらきらと光っている。幻想的な光景だった。
その噴水の近くに人影があることに気づく。見覚えのある少女の姿が。
(エリス?)
金色のふわふわとした髪に、白のドレス。
間違いない。エリスだ。
噴水の前で、誰かを探しているかのようにきょろきょろとしている。
舞踏会の夜に、あんなところでひとりで何をしているのだろう。
訝しんでいるうちに、もう一人誰かがやってくる。
信じられない気持ちで、影の名前を呟いた。
「ジーク様……?」
頭の中が真っ白になる。どうして、という疑問だけが反響する。
舞踏会から抜け出して、人目のないところでふたりで会うなんて。
いったいどういうことなのか。
窓を開け声をかければ疑問は一瞬で解消されたかもしれない。だが、身体が動かない。
足がふらつく。
冷たく固い感触が、顔と視界を覆った。
「仕方のないやつですね」
耳元で甘い声が響く。背後から手袋をした手に頭を抱えられ、目隠しをされている。
もう片方の手がアストレアを抱きしめた。
「ジークはエリス姫に恋をしているようだ」
エリスは可愛らしい。エリスを見た人たちは、みんなエリスを好きになる。
きっといつも、そんな予感はあった。確信めいた予感が。
「自覚はなかったのでしょう。だから、婚約する相手を間違ってしまった」
(そんな……)
諦観と希望と醜い欲が、ざわざわと足下から駆け上がる。
――嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
だから恋は嫌だった。
相手の幸せだけを願うとか言っておいて、いざとなれば目をそむけたくなるほどの醜い感情が溢れてくる。
(こんな、感情、嫌だ)
「かわいそうに。でも、貴女も気づいていなかった」
嘲るような憐みの声。
足元がぐらりと揺れたかと思ったら、床に身体が叩きつけられる。
「うあ」
上から覆いかぶさってきた重いものに息が押し出される。
気が付けば身体の上でユリウスが馬に乗るように座っていた。
その目が、表情が、ひどく暗い。光の届かぬ湖の奥底のように。
「ユリウス様……あなた、は……」
危険だと、本能が告げる。
魔力を整えようにも、心が乱されて集中できない。それどころか手足が痺れたように動かず、起き上がる力さえ沸いてこない。
「貴女は僕の、僕だけの花嫁だ」
どろどろとした暗い感情が、アストレアをゆっくりと包み込んでいく。染められていく。
これが闇だと気づくまでに、どれだけの時間を要しただろう。
火のはぜる音が近くで聞こえてくる。
赤い幼火が暗闇の中で瞬く。
焦げたにおいが満ちてくる。
(燃えている)
肌が触れている場所の絨毯が。
なのに、熱くない。
――燃えてしまう。
このままだと炎は城を燃やし、天を焼く。
消さないといけないのに。
身体が動かない。




