30 建国祭舞踏会
黄金週の光の日。
月の最初のもっとも輝かしい日に、建国祭は執り行われる。国中で女王の名を冠したバラが飾られ、賑やかな祭りが昼夜通して繰り広げられる。
王城では早朝から昼までは式典があり、始祖ユースティティアと三女神に感謝の祈りを捧げ、夕方からは盛大な舞踏会が催される。貴族として最も忙しい日でもある。
アストレアは荘厳な式典に参加したのち、一度家に戻って式典用のドレスから舞踏会用のドレスに着替える。本人にとっても、使用人にとってもまるで戦場だ。
今日のためにつくられたドレスは、アストレアの赤い髪と合う、深い赤と黒の気品のあるドレスだった。刺繍が緻密に施され、丁寧に仕立てられた、デザインも手仕事も本当に素晴らしいものなのだが――
このドレスを着た自分を鏡で見ていると、何故か落ち着かない気分になる。
(誰かに似ている気がする)
よく知る誰かに。
鏡の中にいる自分を見ながら、その誰かを思い出そうとしても、どうしても思い出せない。
記憶に鍵がかかってしまっているかのように。
身支度の最後に、ジークフリートからもらった指輪を左手の薬指に。婚約のお披露目も兼ねている舞踏会のため、つけないわけにはいかない。
(つけるのは、今日で最後)
これが本当に相思相愛の婚約なら笑みが溢れてしまうだろうが。
偽装婚約だから明るい気持ちは沸いてこない。
(自分で偽物にしたのだけれど)
後悔はない。
このまま結婚するのはありえない。好きだからこそ。片思いの相手との結婚なんて、いつか関係が破綻する。自分が耐えられなくなることが簡単に想像できる。
だからこそこの気持ちは永遠に言葉にしてはいけない。
口に出したら、何もかもが壊れてしまいそうで。
誰にも知られずに、胸の一番大切な場所にしまって、永遠に鍵をかけておく。
時折そっと取り出して眺めるだけなら許されるだろうから。
「お姉様、ジークフリート様がいらっしゃいましたよ!」
エリスがうれしそうな顔で部屋に入ってくる。エリスも既に準備は済んでいて、白いドレス姿はまるで春の女神のように、可憐で清楚だ。見るものすべてが感嘆の息を零すほどに。アストレアも。
エリスに出会ったら、きっと誰もが恋をする。
そのエリスは母と共に父にエスコートされることになっている。父は両手に花だ。前の年までは姉妹で入場していたことが懐かしい。
部屋を出て、玄関ホールに下りる。
騎士の正装姿のジークフリートが父と話していたが、アストレアに気づいて顔を上げる。
心臓が、どきりとした。
(え?)
階段でふらつきそうになるが、なんとか踏みとどまる。平静を保つために視線を外し、なんとか階段を降り切ってジークフリートと父のもとへ向かう。
父が多分大げさなほどに褒めてくれている。しかし、言葉が頭に入ってこない。
(まぶしい……)
普段と違うのは式典用の外套を羽織っていることだけだというのに。
(え? ジーク様ってこんなにかっこよかった? いえ、昔からかっこよかったけど。こんな……)
眩しいのに、目が離せないほどに、見惚れてしまう。
「いやぁ本当に我が娘は最高だ。殿下はどう思われますか」
父に感想を促され、ジークフリートは改めてアストレアを頭からドレスの裾までを見た。
「ええ。バラのようですね」
何の他意もない率直な感想だっただろう。
(ああ、いまきっと――)
赤バラのように頬が赤い。
「それでは、ご息女をお預かりします」
硬直していたアストレアの手を取り、外で待たせていた馬車に乗り込む。
王家の馬車は、アストレアから見ても豪奢な造りで中が広い。向かい合う格好で座り、王城へと向かう。
密室の中でふたりきりというのはやけに緊張する。
落ち着かない息遣いや心臓の音が、蹄や車輪の音にかき消されていればいいのだが。
(落ち着け。落ち着け私。最初からこれじゃ最後まで持たないわ)
気を取り直し、背筋を伸ばす。一度深く呼吸をして、いつもの調子を取り戻そうとする。
騒がしかった心臓が落ち着いてきた気がした。
「ジーク様。先日はお見舞いをありがとうございました。それと……大変失礼なことをしてしまい、申し訳ありません」
部屋に招いたまま寝てしまうという大失態を謝罪する。
「お前は警戒心がなさすぎる」
ジークフリートの声は少し怒っていた。
そんなことを言われても、家の中でのこと。それも自分の部屋でのことだ。アストレアにとっては一番落ち着ける場所。そんな場所でまで警戒していたら精神が持たない。
何に警戒しろというのか。
普段と違うのは、ジークフリートが部屋にいたことだけだ。
「もしかして、ジーク様が私に何かするんですか?」
答えはない。
アストレアは首を傾げる。
ジークフリートがアストレアに何らかの危害を加えるなんて想像できない。
それに。
「ジーク様になら何をされても構いませんよ」
「そういうところだ!」
##
夜の星よりもまばゆく、城がきらきらと光っている。月が地上に降りてきたかのようだった。たくさんの篝火と光魔法で、昼と変わらないほどの輝きを夜に浮かべていた。
貴族の馬車が続々と到着し、盛装した男女が腕を組み、城の大広間へ向かう。
アストレアも馬車を降り、作法に則ってジークフリートと腕を組む。
周囲の視線が雨のように矢のように降り注ぐ。
アストレアは臆すことなく、微笑を浮かべ背筋を伸ばしてパートナーとしてふさわしい振る舞いを崩さず、ジークフリートに寄り添いながら中に入った。
「ジークフリート・ヴィルヘルム王甥殿下! アストレア・レーヴェ第五継承候補殿下!」
エスコートされて大広間に入ると、大きなシャンデリアの輝きが降り注いでくる。
名だたる貴族たちの注目の中、まずは女王陛下に挨拶を行い、王族、高位貴族、ジークフリートの両親とも挨拶を交わす。
ほどなく音楽団の演奏が始まり、舞踏会の開催を告げる。
最初の曲は優雅でテンポの良い踊りやすい音楽。
手を重ねて身体を寄せると、周りにたくさんの人がいるのに、まるでふたりきりになったようだ。
リズムに合わせて軽やかにステップを踏み、くるくると回る。
空を飛んでいるかのようだった。
あまりに幸せで、楽しくて、気持ちが高揚して。
この時間がいつまでも続けばいいのに。
音楽が終わる。終わってしまう。
楽しい時間はいつだってあっという間だ。
身体が離れ、ダンス後の挨拶をした瞬間、ジークフリートのところに次々と貴族令嬢からのダンスの申し込みが殺到する。
最初のダンス以外はパートナーが許せば、誰と踊ろうと自由だし、どちら側から誘ってもいい。アストレアは笑顔で手を振って騎士を送り出す。たとえパートナーでも理由ない独占は嫌われる。
少しゆっくり壁の花をしようと思っていたアストレアのところにも、若い貴族からダンスの誘いがあった。
一曲だけならいいかと受けたことを、すぐに後悔する。
その一曲終わると次、また次と、別の貴族から誘いが次々とやってきて、休む暇もない。
正直疲れてくるのだが、誘われるとうまく断れない。断り方がわからない。
断るくらいなら踊った方が楽と思ってしまい、誘われるままダンスを続けることになる。
これは、決してアストレアがモテているというわけではない。
現王家と婚約したことで次の女王に選ばれる可能性が高いと踏んだ、社交に熱心な貴族が、少しでも縁を深めようとしているだけだ。
(それにしても、エリスはどこへ行ったのかしら)
会場で両親の姿は見えるが、エリスの姿はない。エリスならダンスの申し込みが後を絶たないだろうに。
(ユリウス様を探しに行ったのかしら)
エリスならありえる。
ジークフリートにも同じように令嬢と代わる代わるダンスをしている。令嬢たちの親からも「娘の記念に」と頼まれているので、ほぼ途切れることがない。
令嬢たちの目的が社交だけではないことは、表情を見ればわかる。
――憧れ。
熱い眼差しを受ける当人はといえば、ダンスは上手いが愛想がない。微笑みのひとつも返さないところは、アストレア相手でも他の令嬢相手でも同じだ。
(ジーク様ってほとんど笑わないのよね……)
本当に時々笑われてしまうときがあるが、基本的に表情が固い。
子どもの頃は違った。いつからだろう。笑顔を見なくなったのは。
「…………」
どうして。
どうしていま踊っている相手が自分ではないのだろう。
どうしていまこんなに遠いのだろう。
(自業自得なんだけれど)
送り出したのは自分。
わかりきっていることなのに、感情がもやもやとする。胸が苦しみを訴える。この感情の名前を知っている。嫉妬だ。
(こんな気持ち、よくない)
舞踏会の目的は社交だ。
長子の自分はいずれ領地を継ぐ可能性が高い。交友を広め、深めていくことが必要になる。建国祭の舞踏会なんて絶好の機会だ。
それに、魔王のこともある。
いまのこの舞踏会の場に魔王がいる可能性もあるし、狙われている貴族がいるかもしれない。ぼんやりしている場合ではない。
ないのだが――……
どうしてもいまは積極的に交流していく気になれなかった。
「お姉様」
いすこからか戻ってきたエリスが、花が咲くような笑顔でアストレアを呼ぶ。
幸せを溢れ出させている様子を見ていると、誰と会ってきたか尋ねるまでもない。
良い時間を過ごしてきたのだろう。うらやましく思う。
「お姉様? 顔色が……」
「ごめんなさい。少し疲れたの。テラスで風に当たってくるわ」




