29 純愛の象徴
目が覚めると、ジークフリートの姿はなくなっていた。どうやら寝入ってしまっていたようだ。頭は随分すっきりしてきて、身体も軽い。
「失礼なことしちゃったなぁ……」
時計を見ると午後になっていた。かなりの時間熟睡していたようだ。
そのおかげか体調もよくなっている。熱っぽさもない。
少し何かを食べて、読書でもしよう。身体を起こしたとき、ノックの音が響いてきた。
「どうぞ」
「お姉様、いまよろしいですか?」
「ええ、いいわよ」
扉を開けて、制服姿のエリスが入ってくる。手に紙箱を抱えて。
「ジークフリート様からのお見舞いです。ルブランのフルーツタルトです!」
「まあ」
「お城でお会いした時に預かったのです。これすっごく人気なんですよ」
「ありがとう。それじゃあ、いっしょにお茶しましょう」
メイドに紅茶と軽食を用意してもらい、部屋でエリスとふたりきりのお茶会を開く。
フルーツタルトは王城で人気の菓子店のものとあって、新鮮な果物とハーブが使われていてとても爽やかでおいしい。クリームも濃厚ながらあっさりとしているし、タルト生地もサクサクとしていて、おとぎ話に出てきそうな夢のようなおいしさだ。
(ジーク様にお礼をしないと)
エリスもとても幸せそうな顔で、夢中でタルトを食べている。
すべて食べ終わり、紅茶を飲み、余韻を堪能していた顔が――急に真剣みを帯びる。
決意のまなざしがアストレアに向けられた。
「お姉様、わたくしに刺繍を教えてください」
「エリスが刺繍なんてめずらしいわね」
習い事の時間以外、針なんて持とうとしなかった妹が。それに、アストレアに習いにくるのもめずらしい。
慣れない針運びで新しいハンカチに刺繍を刺すエリスを眺める。いままでにない熱心さだ。
「おまじないなんです。好きな人の紋章を刺繍したハンカチを贈ると、恋が叶うって。女子の間で流行っているんですよ」
(その行動力があれば恋も叶うと思う)
刺繍をするまでならともかく、それを相手に渡せる間柄ならほぼ両想いのようなものだろう。
それにしても、ハンカチに紋章を刺繍なんて。どこかで聞いたような話だ。
「エリス。私がジーク様に刺繍したハンカチを贈った話、誰かにした?」
エリスは可愛らしく笑う。
「おふたりはいまみんなの憧れですのよ」
(している)
確実にしている。
五年前、助けてくれたジークフリートに新しいハンカチに紋章を刺繍して返した時の話を。
「十年越しの恋を実らせたのですもの。いまでは恋人の左手の薬指に指輪を贈ることが、純愛の象徴になっているんですよ」
「指輪のことまで……」
誰にも指輪のことは話していないのに、どうして知っていて、しかも広めてくれているのか。
宝石に興味がなかったアストレアが、婚約後急に指輪をつけ始めたからだろうか。
(婚約破棄になったら意味がひっくり返るだろうなぁ)
そうなったらと思うと、見ず知らずの恋人たちを気の毒に思う。
アストレアは自分の気持ちを――恋心の存在を認めたが、いずれ婚約破棄する意志は変わらない。
アストレアの気持ちが変わっても、状況も、ジークフリートの心も、何も変わらないのだから。
恋に溺れたくはない。
恋愛自体は素敵なことだと思う。政略結婚が普通の貴族でも、貴族だからこそ、物語のような恋愛に憧れを抱くのは普通のことだと思う。
恋から距離を置きたいと思うのは、アストレア自身の問題だ。
他に恋なんてしたことがないはずなのに、溺れることが怖くてたまらない。できれば一生関わりたくはない。
好きという気持ちだけを大切にして、ジークフリートの幸せを願いたい。適当に決めた婚約者とではなく、本当に好きな人と幸せになってほしいと思う。
指輪も。
家宝である貴重な魔石を自分が持っていていいはずがない。建国祭の舞踏会にはつけていくが、それまでは宝石箱に封印だ。
(舞踏会が終わったら指輪は返そう)
偽りの婚約期間はあと二年は続くけれど。指輪自体は早めに返しておこうと決心する。
(私のことより、エリスのことよ)
苦手な刺繍に熱心に取り組むエリスの姿に、恋の力の偉大さを感じる。
エリスの恋が成就するかはわからないけれど、応援したいし、幸せになってほしいと思う。
「エリスはユリウス様のどこが好きなの」
エリスは男性にも女性にもとても人気がある。
聞こえてくる話では、求婚者は列を成しているらしいし、学院でもラブレターをたくさん貰っているようだし、告白もされているらしい。従兄弟もエリスに気があると思う。
エリスはそのすべてを丁寧に断り、ひとつの恋を大切にしている。
眩しいほどに。
「ユリウス様はとても優しくて強い御方なのです」
頬を染めて、瞳を輝かせて語る姿はいじらしい。
「それに……」
「それに?」
「時々見せていただける、どこか憂いのある横顔が、たまらないのです」
瞼を閉じ、うっとりした顔で呟く。
妹の新たな一面を見てしまった気がした。
黒い鷹の紋章。
夕食直前に出来上がった刺繍は、少しつたないが丁寧に刺された、愛情を感じられる仕上がりだった。




