26 仲直り
婚約者の肩書はこんなときだけは便利だ。
宮殿の中を歩きながら思う。王族が住まう宮殿は、王城とは違い高位貴族でも許しがなければ入れない。
案内のメイドに通されたのは、明らかに個人の私室だった。応接室ではなく、来客用の客間でもない。
整理整頓され生活感はほとんどないが、机の上やらにわずかに個人の所有物がある。
「えっと……本当にこちらでいいのでしょうか?」
「女王陛下のご指示です」
「陛下の?」
何故女王陛下が。
疑問が生まれたが、陛下の指示ならば従う他ない。
「レーヴェ家に伝えていただけますか。帰りは遅くなるかもしれないと」
「かしこまりました」
ひとりになったアストレアは、とりあえず二脚あるうちの手前側の椅子に座る。
ぼんやり天井を見上げたり、窓の外の景色を見ていると、懐かしいものを感じた。
(……私ここに来たことがある)
忘れもしない六歳の時、ジークフリートに会った衝撃で気絶して、目が覚めたらこの部屋のベッドに寝かされていた。
あの時アストレアは、ジークフリートと関わることを避けようとした。なぜか関わるのがとても怖くて。
その態度が彼を怒らせて、なぜか毎週、城に来るように命令された。
多分あの時、運命が変わった。
六歳のときに十六歳だと自覚した日よりも。きっと、大きく。
左手の指輪を見る。ジークフリートの瞳と同じ深い青色。この色がずっと好きだった。
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「おい……おい!」
困ったような、焦ったような声が、遠くで聞こえる。
肩を軽く揺すられ、沈んでいた意識がゆっくりと戻ってくる。
「……はい?」
重い瞼を開けると、深い青の瞳が見えた。手を伸ばせば届きそうなほど近くに。
ジークフリートの顔が。
一気に頭が冴える。
「私、寝て――?」
思わず顔を手で覆って身体を丸める。寝顔を見られてしまった。思い切り。
いつの間にかうたた寝してしまったらしい。窓の外はすっかり暗くなっており、部屋には明かりがいくつも灯されている。使用人が明かりをつけに来た時も眠ったままだったなんて。
顔が熱い。きっと真っ赤になっている。
「きっと宮殿にお戻りになるだろうと思って……そうしたら、こちらに通されたので……」
眠ってしまっていた。いくら寝不足だからって。
「陛下のご指示とは聞いた。それで、今度は何の用だ」
怒っている。いや、呆れている。
恥ずかしくても、情けなくても、気持ちは伝えないといけない。ここに来た意味を忘れてはいけない。
「ジーク様に謝りたくて」
アストレアは立ち上がり、ジークフリートに深く頭を下げた。
「ごめんなさい! 私が浅はかでした!」
しんとした静寂が、苦しい。
身の置き所がなさすぎて消えてしまいたくなる。心臓の音だけがやけに大きかった。
実際はそんなに長い時間ではなかったはずだが、アストレアにはとてつもなく長く、苦しい時間だった。
「……約束を破ったのは俺の方だ」
「でもそれは、私が足手まといになるから――」
「俺は!」
大きな声が全身を貫く。
痺れるほどの声に、ジークフリート自身も驚いたように短く息をのむ。
感情を落ち着かせるように大きく息をつき、服の首元を緩めた。
窓際へ行き、そこから見える夜に覆われた景色を見つめた。
その背中に何を背負い、何を思い、どんなものを見ているのか、アストレアには想像することもできない。
「レア。お前は未来をつくれる。その力がある」
――未来。
その言葉を紡ぐ姿が、痛々しく見えた。
「戦いになんて巻き込みたくなかった。お前自身が危険に晒されることを、俺が受け入れられなかった」
「ジーク様……」
(ジーク様はずっと葛藤していたんだ……)
少しでも助けられる可能性があったはずなのに、それを――アストレアを使わなかった。
人を見捨てることを、割り切れる人ではない。犠牲が出るたびどれだけ傷ついていただろう。考えるだけで身が切られる思いがする。
(この人は――)
どれだけの後悔を背負って生きてきたのだろう。
(私がもっと強かったら……)
アストレアは首を振った。
(違う)
この考えは違う。
アストレアはジークフリートに寄り添うように、後ろに立つ。
「ひとりで背負わないでください」
「…………」
「勇者様の物語を知っていますか」
「勇者?」
突拍子もない話に、怪訝な表情で振り返る。
顔を見れたことが嬉しくて、笑みがこぼれる。
「勇者様はとても強くて、いつも必ず魔王に勝つんです。どの勇者様も」
もしも負けていたら、いまのこの世界はない。
魔王の誕生が世界の理だとしたら、勇者の誕生も、勝利も、世界の理なのだろう。
だとしたら、なんて悲しい。
「勇者様は強いから、いつもひとりで戦っています。仲間がいる勇者様もいらっしゃいますけれど、責任はいつもひとりで背負っているんです」
戦うことにも。その結果にも。
魔王が滅んだ後も。
勇者は肩書と期待と羨望を生涯負い、責任を負い、生きていく。
「私はみんなで戦えばいいのにっていつも思っていました。国は軍隊を出すべきだし、勇者様だからって特別扱いしないで、みんなで戦うべきだって」
ジークフリートの胸に身体を寄せ、背中をぎゅっと抱きしめる。
ここに自分がいることを、ひとりではないことを伝えたい。誰かを犠牲にするのではなく、それぞれができる最善を尽くしたい。
勇者がいても、いなくても。
綺麗事を現実にしたい。
「私も、できることをやります。怖いですし、うまくいかないこともあると思います。迷惑もかけてしまうでしょう」
それでも。
「それでも、私にも戦わせてください。ジーク様が背負っていること、少しでも私に背負わせてください」
「レア……」
「私の未来には、ジーク様が笑っていてくださらないと、嫌です」
――好きだから。
誰よりも、大切にしたいから。
(私は、ジーク様が好き)
ずっと気づかないようにしてきた、自分の気持ちを認める。
恋とはなんて自分勝手で、欲深い感情だろう。
身体が包み込まれたかと思うと、ぎこちない仕草で抱きしめられた。
少し苦しいくらいに。
腕の力が、触れる身体が、あたたかくて、幸せすぎて。頭がくらくらする。
夢を見ているのかもしれない。夢なら覚めないで、ずっとこのままでいたいと思った。
「今日はもう帰れ」
耳を撫でる声がとても優しくて。
アストレアは胸に頬を寄せたまま、小さく首を振った。
「まだ帰りたくありません」
まだ離れたくない。
「私、ジーク様のことをもっと知りたい」
もっと話がしたい。
そばにいるだけでもいい。
「お前は! 少しは! 警戒心を持て!」
一体どこで怒ったのか。顔を真っ赤にしたジークフリートに部屋から追い出されかけた時、二人分の夕食がワゴンで部屋に運び込まれてきた。




