22 不意打ち
「心配するな。眠っているだけだ」
「よかった……」
生きている。
いまはそれだけで救われる。
張り詰めていたものが緩んで、アストレアは階段の途中で寝そべった。もう一歩も動けそうにない。
ここまで魔力を使い切ったのは、あの時以来だ。
「これを使え」
こつん、と額に固いものが優しくぶつかる。
その瞬間、全身にエネルギーが満ちた。喉が渇いたときに飲む冷たい水のように、心地よく染み渡る。
思わず起き上がる。
ジークフリートの手の中に、緑色の石があった。
「よし、効いたな」
「これは、もしかして魔石ですか?」
純粋な魔力を溜め込んだ天然の石。魔力切れの応急処置に使われる、とても希少で高価なものだ。
ジークフリートには魔力はない。どうしてこんな魔導士が持っているものを所持しているのか。
思えば、先程も剣に魔力を通していたような気がする。魔物と戦うときに、金属に魔力を通すと斬れないものが斬れるようになると聞いたことがある。
どちらも、魔導院と協力して魔物と戦うために備えているものなのだろう。
「……弁償します」
「何を気にしてるんだ」
「だって、大事なものでしょう」
希少で高価で。とにかく貴重品で。
「お前より大事なものなんてない」
(…………え?)
頭が真っ白になって固まる。
ジークフリートは何事もなかったようにルシーズの横に膝をつくと、軽々と抱き上げる。
「近くの衛兵詰所へ運ぶ。いいな?」
「……あ、はい。もちろん」
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貴族街の衛兵の詰め所にルシーズを運び、ベッドを借りる。そこで男性には退室してもらって、職員の女性の手を借りてドレスの紐を緩める。
身体が冷えないようにシーツをかけ、ベッドの横に椅子を運んできて、座る。
まとめていた髪をほどく。
服はどうしようもないが、せめて見た目を普段通りに近づける。起きたときに驚かないように。
ルシーズは疲れの色が見えるが、息は規則正しい。手袋を脱いで額に手を当ててみたが、熱も出ていない。
そっと手を離した時、ルシーズの瞼が揺れた。
「あら……? ここは、どこ……?」
焦点の定まらない瞳が、部屋の中をさまよう。
「おはよう、ルシーズ。だいじょうぶ? 私がわかる?」
「……アストレア?」
「ここは、衛兵の詰所よ。もうすぐお家の人が迎えにくるから、安心して。痛いところはない?」
「……わたくしよりあなたの方が心配よ」
ルシーズの手がアストレアの頬を優しく撫でる。
そんなひどい顔をしていたのだろうか。
「私はだいじょうぶ」
ゆっくりと、自分に言い聞かせるように呟く。
「ねえ、ルシーズ……起きる前のことで、覚えていることを教えて」
いま聞きたいことではなかったが、これだけは聞いておくようにとジークフリートに強く言われていたことだ。
「手紙を……」
「手紙?」
「書こうとして、書けなくて……とても、困ったわ……」
――外を歩いていたことも。
無人の屋敷に入ったことも。
そこで何があったかも、覚えていない。
「ごめんなさい……とても、眠いの……」
ルシーズは再び瞼を下ろし、健やかに眠る。
穏やかな寝顔だった。
##
物音を立てないようにゆっくりと部屋の外に出る。ドアの横にはジークフリートが壁を背にして立っていた。
「とても落ち着いています。出歩いていた時のことは、覚えていないみたいです」
「そうか」
予測していたことなのか、表情を変えずにそれだけ答える。
「ジーク様、色々とありがとうございます。何か、私に返せることはないですか?」
「そんなこと考えたこともない」
(どうしよう)
困る。
ジークフリートにはいつももらってばかりだ。一方的なのは対等ではない。
物だけではない。
いつも助けられている。力になりたいのはアストレアの方だというのに。
せめて、自分にできることがあれば返したい。自分では何も思いつかないのがもどかしい。
ジークフリートの隣に、壁に背中を預けて立つ。ルシーズの迎えが来るまでは、ここにいようと決めた。
隣からの視線が、アストレアの手元に注がれる。
何かと思ったら、指輪を見ていた。ジークフリートから貰った、青い石の指輪。そういえばルシーズの熱を測った時に手袋を脱いでから、そのままだ。
反射的に手を重ねて指輪を隠す。
なぜか、急に恥ずかしくなってしまった。
「……つけてたんだな」
「それは、あんな風に言われたら」
耳が熱い。顔を上げられない。
耐えきれなくなって手袋をポケットから取り出し、両手にはめる。何も隠せてはいないが、表面上は隠されたので少し心が落ち着いた。
アストレアの心と反比例するかのように、表が俄かに騒がしくなる。当直の衛兵たちが突然の来訪者に戸惑っているようだった。
もうルシーズの迎えが来たのだろうか。しかし廊下を悠然と歩いてきたのは、当直の若い衛兵でもなく、使用人でもなく。眼鏡をかけ、宵色のローブを身に纏った初老の紳士だった。
その姿を見た瞬間、ジークフリートが苦虫を噛み潰したような表情になる。
「げ。ウォーロック」
「私を呼ばないなんて水臭いじゃないかヴィルヘルム。なぁに少し様子を見るだけだ」
親しげにジークフリートの肩を叩き、ルシーズの眠る部屋に躊躇なく入ろうとする。
アストレアは思わずウォーロックとドアの間に身体を滑り込ませた。
「君は相変わらず神出鬼没だねぇ。そして相変わらず神々しいオーラをしている」
ウォーロックは楽しげに笑う。
「彼女はいま眠っているんです」
「私は医者のようなものでもある。大丈夫。触れないし、離れた場所から様子を見るだけだ。なんなら同席するかね」
それでも、寝ている女性の顔を男性に見せることに抵抗があったが。
ジークフリートに視線を向けると、諦めたような表情で小さく頷く。
ウォーロックが何を知って、何を見にここに来たかはわからないが、ジークフリートが了承しているのなら突っぱねるわけにもいかない。
ウォーロックは魔導院の長だ。その権限は女王に次ぐほど大きい。
「……少しだけですよ」
ドアを開け、アストレアが先に入りウォーロックを中に招く。
ウォーロックはベッドで眠るルシーズを一目見て、感嘆の声を上げた。
「おお、これは……きれいさっぱり漂白されている」
ルシーズを起こさないように、小声で。
そしてすぐに踵を返し、部屋から出る。もう興味は失ったと言わんばかりに。
あまりの速さにアストレアの方が驚く。いったい何を見たのだろうか。もしかしてオーラだろうか。
「良いものを見れた。それでは私はこれで」
入ってきたときと同じように、ずかずかと廊下を戻っていく。その途中で何かを思い出したように振り返り、ジークフリートを見た。
「ヴィルヘルム。あんまり悪手は打たないように。教え子のゲームオーバーは見たいものではない」
「ご忠告感謝します」
不敵な笑みを浮かべて答える。
ウォーロックは片手を上げ、帰っていった。表情は見えない。
「チェスでもしているんですか?」
「そんなところだ」
随分と親しい。
少しだけ羨ましい。
ウォーロックと入れ替わるようにして、ルシーズの迎えが来る。
ルシーズが馬車に運ばれるのを見届け、アストレアもジークフリートに送られて家に戻る。近くだから、ひとりで大丈夫だからと何度断っても、結局送られてしまった。
今回は正面玄関ではなく、出て行った時と同じ隠し通路から戻る。
「封印したくなるな、これ」
屋敷の裏にある、カモフラージュされた地下通路に入りかけたアストレアの後ろから、不穏な声が聞こえる。
「ひどい。お城にだって、きっといくつもあるでしょう?」
「それは、まあ」
否定はしない。緊急用の脱出経路がないわけがない。
「レーヴェの隠し通路もひとつだとは思わないことですね!」
「……お前が女王か領主になる時は、周りの人間は苦労するだろうな」
「婚約者殿にそう言っていただけるのは心強いですわ」
笑って手を振り、隠し通路の入口を軽やかに閉じた。自分の部屋に戻るまで、家人の誰にも見つからずに済んだ。
服を着替えてベッドに潜り込んだが、様々な感情が押し寄せて、結局一睡もすることはできなかった。




