15 花
翌朝、ジークフリートから花が届いた。
みずみずしいバラの花束がアストレア宛に。
次の日も。
その次の日も。
「うわぁ。すごいですわね、お姉様」
部屋に入ってきたエリスが感嘆の声を上げる。
アストレアの部屋の中は現在ジークフリートから贈られてきた花でいっぱいになっていた。
エリスは部屋のドアを開けたまま、王立学院の制服のスカートを揺らして花を見て回る。アストレアは椅子に座って本を読みながら、その姿を眺めた。
アストレアは領主である母の仕事の手伝いのため領地によく行っていた頃から、エリスは本人の希望で王立学院に通っていた。
王立学院に入学できるのは十三歳からで、高位貴族はほとんどの場合一年だけ籍を置く。高位貴族は基本的に家庭教師から学び、学院には伝導と人脈形成のために通う。しかしエリスは最長の三年間通うつもりだ。
理由は明白。王都から離れたくなかったからだ。王都には愛しいユリウス様がいる。王都にいれば会う機会は数あるが、領地にいけばその機会は望めない。その一途さには感心するばかりだ。
「ええ、すごくきれいなのだけれど。なんだかジーク様らしくないわ。誰かに言われてそのとおりにやっている気がする」
ジークフリートに婚約者に花を贈るという考えがあるとは考えにくい。彼は武人肌というか、色恋とか駆け引きとか、そういうものより仕事に熱心な印象がある。
「でもその気持ちが嬉しいですわよね」
「そうね……部屋が潤っていいわ」
自分が思っていた以上に素っ気ない声が出てしまった。エリスの表情が曇る。
「お姉様はジークフリート様のことが嫌いなのですか?」
あまりにも大胆な切り込みに、ページをめくる手が止まってしまった。
アストレアは小さくかぶりを振った。
「嫌いではないわ。ええ、そうね。好きよ」
好きか嫌いかで聞かれれば、迷わず好きと答えられる。
強引さに振り回されることはあるけれど、嫌いにはなれない。
「だったらどうして、そんなに悲しそうな顔をしているんですか」
「…………」
エリスは人の心に敏感だ。
アストレアには苦手な分野。自分がそんな顔をしていたことにさえ気づかなかった。
膝の上で本を閉じ、机に置く。
「……好きだけれど、面倒なこと全部飛び越えて結婚したい好きではないの」
ジークフリートからはたくさんのものをもらった。それは物質ではなく、ここまで生きてくるためのたくさんの経験だ。命を守ってもらったこともある。だからいつかその恩を返さなければならないと思っている。
けれどそれは、恋ではない。
燃えるような恋をしていたなら、たとえ愛のない婚約でも妄信的に受けていただろう。喜んであらゆる困難を乗り越えようとしただろう。
「それぞれの家の後継問題もあるし、貴族同士のパワーバランスもあるし。ずっと先のことを考えると別の人と結婚したほうがお互い幸せになれると思うわ」
幸せとは何だろう。
自分で言っていて思った。
「それでも、ジークフリート様はお姉様のことを好きだと思います」
エリスはまっすぐにアストレアを見つめ、健気に訴えてくる。
「どうしてそう思うの?」
「登城したとき、何度かお話ししたことがあって」
ユリウスはジークフリートの従騎士。ユリウスに会おうと思って登城すればジークフリートに会うこともあるだろう。
話をすることもあるだろう。
当たり前のことのはずなのに、なんだか胸が痛くなる。アストレアとは話をすることも避けていて、エリスとは普通に話をしていたのだろうかと思うと。
――避けられていた、というのは単なる被害妄想かもしれないが。
昔よりも心の距離を置かれているのは、おそらく間違いではない。大人になるとはこういうものなのかなと少し寂しく思ったから。
「その時の雰囲気、というか。お姉様のことを気にかけていらっしゃったから」
「……エリスはジーク様のことどう思っているの?」
「もちろん、未来のお義兄様です!」
明るい。眩しい。屈託のない笑顔。
花よりも美しい、春の女神のような、誰もが好ましいと思うだろう姿だ。
国民に愛されることが女王の資質のひとつなら、エリスには十分すぎるくらいそれがある。
(ジーク様はもしかして、エリスが気になっているのかしら)
だとすればますますアストレアと婚約したことが不可解になってしまうが。
「それにですね、ジークフリート様はハンカチを――」
「エリス、そろそろ学院の時間ではなくて」
「お母様! きゃあ! そうでしたわ!」
開いたままのドアから母が姿を見せ、時間に気付いたエリスが悲鳴を上げて部屋から飛び出していく。
「あの子はまったく……」
軽く頭を抱えエリスを見送ったあと、母が部屋へと入ってきた。
思わず椅子から立ち上がった。母とふたりきりというのは、いつも少しだけ緊張する。
母は室内の花をひとつずつ見渡しながら、小さな笑みを口元に浮かべる。
「可愛らしいこと」
適切な返事が思い浮かばず、口が動かない。
母は笑みを深くしてうなづき、顔を上げた。
「アストレア。少しいいかしら」
「はい、もちろん」
「あなたの婚約が決まる日がくるなんてね。時間が流れるのは本当に早いわ」
「私も驚いています……」
「あなたは昔から手がかかるし時折とんでもないことをする子だったけれど、賢い子だったわ」
遠い目をして天を仰ぐ。
(お母様はすべてお見通しなのだわ……)
直感した。
母はアストレアが隠れてやってきたことをおそらくすべて気づいている。気づいて、見ないふりをしてくれていた。
地下の魔導研究部屋のことも、アストレアが魔力の自己修行をしていることも、おそらくは。
「アストレア。なんでも世間の都合に従わなくてもいいのですよ」
「それは、どういう……」
「結婚したくないならしなくてもいい。領地を継いでも継がなくてもいい。わたくしたちがあなたに望むのは、幸せになってほしい、ただそれだけなのですからね」
「……お母様……」
母の慈しみに溢れた言葉に、じんわりと胸の奥があたたかくなる。
熱が目元にも帯び、雫となって溢れた。
母の腕がそっとアストレアを抱きしめる。懐かしい、やわらかい匂い。包み込まれるあたたかい感触に、アストレアはあふれ出す感情を抑えきれなかった。幼子のように母に抱きついて、ひたすらに泣いた。
やさしいぬくもりに抱かれて、ひとしきり涙を流す。
母は気持ちが落ち着くまで背中を撫でてくれた。
「……お母様、私は……結婚をするのも、領主となるのも嫌ではありません。お母様とお父様の娘ですもの」
特別な絆で結ばれているふたりを見ていると、アストレアもあのような夫婦になりたいと思った。
「ただ、その、ジーク様とだけは相性がよくないと思うのです……」
「あなたは遠い未来を見る目を持っているから、近くのことはあまり見えないのかもしれませんね」
――どういう意味だろう。
不思議に思って母を見つめるアストレアに、やさしい微笑みが向けられる。
「案外、あなたの方が女王に向いているのかもしれないわね」
――ますますわからない。
母は笑みを深くする、
母の真意を知るのにはまだまだアストレアには難しそうだった。
「お母様たちのときは、どのように陛下に決まったのですか?」
母は現女王と同じ世代だ。継承者会議でも同席していたも聞いている。
「そうね……わたくしたちの時は最初から決まっていたようなものだったの。陛下は生まれながらにして女王でしたから」
「生まれながらにして、ですか?」
血筋か、才能か。
現王家であるヴィルヘルム家は古くからの名門ではあるが長らく女王は誕生していなかった。
ならば生まれながらの才能だろうか。
「これはもう理屈ではなかったわね。次期女王に選ばれたのは十二歳の時だったけれど、おそらく最初から決まっていたのでしょう。誰もがそれを当然のことと受け止めた」
懐かしそうに語る母の表情はとても穏やかだ。
それがとても素敵なことに思えた。
「お母様、私は次の女王はエリスだと思っています。これも理屈ではないのですけれど」
母の表情が少しだけ悲しげなものになる。
母もきっとそう思っていた。
アストレアよりもエリスの方が女王に相応しいだろうと。
だからこそアストレアは、自分が次期女王になるつもりはこれっぽっちもなかった。子どもの頃からずっと。
「もし本当にそうなったら、エリスを生涯支えたいと思います」
問題がただひとつあるとすれば、本人はそのつもりはなさそうなことだけだった。




