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11 刺繍

 ジークフリートに背負われてアストレアが家に帰ると、屋敷中大騒ぎになった。

 夜も遅いこと、アストレアがほとんど起きられなかったこと、ジークフリートがいたことでひとまずは早めに収束したが、翌朝、特に母にはものすごく怒られた。

 ――誰にも言わずに屋敷を抜け出し、夜の散歩中に具合の悪い女性を助けたが自分も倒れて気絶して、偶然通りすがったジークフリートに助けられたのだから、当然だ。

 罰として朝食抜きと一週間の読書禁止。

 読書禁止は辛かったが、かけた迷惑と心配を思うと甘んじて受けいれる。


 アストレアは今日は自室で刺繍をして過ごすことにした。身体は転んだ際の擦り傷だらけだったが、もう痛くはなかったし、指は無事だったから。

 刺繍は本を読むのに似ている。

 一針、一針。新しいハンカチに糸で模様を描く。

 無心なようでいて、頭の中は昨夜のことでいっぱいだった。

 人が闇に塗りつぶされて、影そのものみたいになって。闇を生んで、操って、命を奪って。

 この目で見ていなければ信じられない、悪夢のような光景。

 犠牲者が出なくてよかった。

 ジークフリートが無事でよかった。



 窓の外を見る。よく晴れたきれいな空。昨日のことが嘘のように平和だ。

 本当に何もなかったかのようだった。全身、特に膝の痛みさえなければ。

 部屋の扉が元気よくノックされる。

「おねえさま、こちらをどうぞ」

 エリスが真っ赤なリンゴを抱えて部屋に入ってくる。

「ありがとう。エリス」

 エリスはにこにこ笑いながらアストレアのもとまでやってきて、刺繍を覗き込んだ。

「そちらはジークフリート様にですよね」

「ええ。ハンカチをお借りしたから、代わりのものをお返ししようと思って」

「いいなぁ。今度わたくしにも何か刺してください」

「エリスは自分で練習したら?」

「お裁縫は苦手なんですもの」

 エリスは細々した作業より身体を動かすことが好きなタイプだ。

 護身用の格闘術とか乗馬を習うのが好きで、ナイフの扱いも上手い。いまもリンゴの皮を器用に剥いていく。

 八等分に切って、芯もきれいに取って皿に乗せてくれる。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。あー、おいしい」

 剝きたてのリンゴを口にする。しゃくしゃくとした少し硬めの触感。さわやかな甘味。透き通った香り。空腹がやさしく満たされていく。

「あのね、おねえさま。アニーから怖い話を聞いてしまったの」

 アニーとはエリス付きのメイドだ。歳が近いからかとても仲が良い。

 アストレアは刺繍を休憩し、リンゴを食べながら話を聞いた。


「とあるメイドの話なのですが、彼女はお屋敷の旦那様と愛し合っていたのですけれど、それが奥様に知られてしまって。ひどいいじめを受けて、ついには追い出されてしまったの」

 浮気話が事実はどうなのかはわからないが、そんな噂話がついて回るメイドに次の働き口はない。紹介状も書いてもらえなかったら尚更だ。

「彼女はぼろぼろになってしまって、いじめられていた時の傷が元で、亡くなってしまったの」

「それは……」

 よほどひどい仕置きを受けてしまったのか。

「ひとりきりで亡くなってしまった彼女は、弔われることなく亡霊となってしまって、闇の夜にはお屋敷の周りをさまよっているのですって」

「んぐっ」

「きゃあ! おねえさま大丈夫ですか?」

「だ、だいじょうぶ……ちょっと喉に引っかかっただけ……」

 おそらくだがその亡霊は生きている。

(見た目は完全に亡霊だったけれど)

 色んな噂と目撃情報が一つにまとまって物語になってしまっているようだった。

「悲しいお話ね」

 噂は噂だが、まったくの事実無根でもないだろう。何か、メイドが屋敷から出て行くようなことがあって。屋敷の周囲に亡霊らしき影が現れたことは間違いないと思う。


「そのお屋敷はどこなの?」

「レスター家です」

 ジークフリートの従者、ユリウスの生家だ。

 そういえばあの影が最初に見ていた方向もレスター家のあるあたりだった。

「そうなの……それは、ユリウス様も大変ね」

 いまはもうほとんど関わりはないだろうが、血の繋がりはなくなるものではない。親戚筋だというだけで妙な噂はユリウスにも付きまとうかもしれない。

(よし。聞かなかったことにしよう)

 ユリウスと生家と親戚はもう関係がない。事実は事実として押さえておいて、妙な噂は忘れることにする。

 刺繍の続きに戻ることにする。

 エリスのおしゃべりの続きに相槌を打ちながら、針を刺す。

 アストレアが最も気になっているのは噂の真相でもメイドの出自でもないのだ。

 彼女がどういった理屈で闇に飲まれた姿になったかだ。


 初めて見たときは魔物だと思った。魔物よりも人に見えたから人だと思った。

 動物が自然界の闇に侵食され魔物化することはある。だが、人間は普通はそんなことにならない。

(人間の魔物化は平和な時期には起こらない)

 人が魔物になる現象が記録されているのは、魔王の誕生前後がほとんどだ。

 魔王の誕生前後は闇の力が強くなり、人や獣が魔物に落ちるという。人心が乱れ、緑は輝きをなくし、空は暗雲に包まれると言われている。

(空は、晴れてるけど。緑も元気だし、国も平和)

 魔王はおよそ百年ごとに生まれ、勇者によって倒される。それが世界の決まりごとだ。女王の国の始祖も、魔王を倒した女性だった。


 アストレアの読んできた本の中には魔王と勇者の記録はたくさんあった。しかし勇者の姿は明確であるのに対し、魔王の情報はどれも断片的で、その本当の姿は不明だ。

 百年という周期は人が観察するのには長すぎて、深い情報を追いきれないのだ。

 魔王は人の姿であることもあれば、竜や獣の姿で書かれることもある。名をつけられないような人智を超えた姿で書かれることもある。

 ただひとつ確かなことは、魔王が生まれる土地は滅びること。これはどの記録でも否定されたことがなかった。


「ねえ、エリス。魔王とか、魔物とかの噂とか聞かない?」

「魔王、ですか?」

 エリスは目を丸くして、ぽかんと口を開ける。

「おねえさま、魔王と勇者のおとぎ話をまだ信じているんですか?」

 口元を隠してくすくす笑い、ナイフと皿を持って部屋から出ていく。

 パタン、と閉じる扉を呆然と眺めた。

 ――まさかのお子様認定。

 アストレアは十一歳、エリスは十歳。地味にショックを受けるのはアストレアの心が十六歳だからだろうか。

(大人になるのよアストレア……)

 勇者と魔王の伝説は、確かに子ども向けの物語の一大テーマだ。エリスはアストレアがそういう話が好きで現実と混同していると思っているのだろう。

(世間ではおとぎ話扱いなのね……魔王なんて百年はいなかったのだから当然かもしれないけれど)

 刺繍が出来上がり、ハサミで最後の銀糸を切る。

 立ち上がった竜の紋章。ヴィルヘルム家の紋章。

「うん、なかなかいい出来」

 最後のチェックを済まし、刺繍したハンカチを置いて大きく伸びをする。

 そして考える。

「さて、どうやって渡そう」

 毎週会うのだからその時に直接渡せばいいと思っていたが、その場面を想像するといまになって恥ずかしくなってくる。

 目立たない刺繍だから気づかれないかもしれないが、もし気づかれてどうして刺繍しているのかなんて聞かれたら、冷静に返事できる気がしない。

 余計なことせずに無地のまま返せばよかったかもしれない。いやでもそんな素っ気ないのどうかと思う。

 頭を抱え唸る。

 大きな足音が扉の外から聞こえてきたと思うと、ノックもせずにエリスが部屋に飛び込んできた。

 顔を真っ赤にして。

「た、大変。大変ですわ、おねえさま! ああどうしよう!」


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