10 戦いの後の
「う……う、うん……」
倒れた女性の口元からかすかな呻き声が響いた。
――生きている。
距離があって詳しくは見えないが、確かに生きている。意識はなく、顔は暗闇でもわかるほど蒼白でやつれていたが、見える限りは肌にも服にもやけどはない。
アストレアの魔法は彼女の闇だけを燃やした。その表面を覆っていたものも、中に巣食っていたものも。
心まではまだ見えないけれど。
張りつめていた気が緩んだからか、足から力が抜けて、その場に座り込んでしまう。
「レア!」
ジークフリートが焦ったようにアストレアの肩に手を置き、顔を近づけてくる。
「だいじょうぶです……力が抜けてしまって……」
安心させようと思ったが、あまり力の入らない笑い方になってしまう。これはいけない、と思ったが、ジークフリートの苦しそうな、悲しそうな、怒っているような表情を見てしまったら、取り繕えなくなってしまった。
胸が締め付けられる。そんな辛そうな顔をしないでほしい。
こんなときどんな言葉をかければいいのだろう
たくさん本を読んだって、どれだけ知識を蓄えたって、こんなとき何の役にも立たない。
「悪い。少し待っていてくれ」
ジークフリートはアストレアから顔をそむけ、倒れている女性の元へいく。仰向きに寝かせ直すと、上着を脱ぎ、それで彼女の腕を縛り始めた。
傷つき気絶している女性に対してかわいそうに思って目をそらしてしまいそうになったが、しっかりと目に焼き付ける。
白いシャツ姿で戻ってきたジークフリートは、アストレアの横に膝をつく。
身体がひょいっと持ち上げられた。背中と膝裏に腕を回し、いとも簡単に抱き上げられる。
「ひえっ」
声が跳ねる。足が泳ぐ。
「お、お、降ろしてください。自分で歩けます」
近い。近い近い。顔が近い。身体が密着している。アストレアが降ろしてもらおうともがいても、びくともしない。
ジークフリートはしっかりとした足取りで一番近くのベンチまでアストレアを運び、その上に降ろす。
そしてアストレアの前に傅き、清潔な白いハンカチをアストレアの膝に巻いた。
転んだ拍子にだろう、膝に擦り傷ができていたことにいま気づいた。血が滲んでいることにも。
気づいていまさらじんじんと痛くなってくる。膝だけではなくあちこちの打ち身も。生きている証拠だ。
そして痛みよりも、触れる感触がなんだかくすぐったかった。
「ありがとうございます……ジーク様は、お怪我は?」
「俺はなんともない」
「よかった……」
心から安堵する。
「助けていただいてありがとうございます」
「…………」
手当てが終わってもジークフリートは膝をついたまま、アストレアの傷のあたりを黙って見つめていた。
「ジーク様……?」
その時、新しい人の気配が近づいてきたことに気づいた。
「あー、殿下。やっと見つけた」
「遅い!」
怒りながら立ち上がり、声の方向を睨む。
こちらに近づいてきたのは二十代半ばの明るい雰囲気の男性だ。短い茶髪に、貴族の証である青い瞳。騎士の服や鎧は身につけていないが、ジークフリートの護衛の騎士テオドリックだとすぐにわかった。城で何度も見たことがある。
「殿下が早過ぎるんですよ。ああこれはどうも」
アストレアに軽く挨拶してくる。あえて名前を呼ばずに。アストレアは会釈で返した。
「そいつを拘束しろ」
「そちらのレディですね。了解っと」
何の事情も聞かずに従い、いまだ気を失ったままの女性の手足を拘束する。剣と拘束具はいつも持ち歩いてあるようだ。ベルト式のそれを慣れた手際で装着させ、ジークフリートの上着を外して女性の上にかけ直す。
「ここに来るまでに何か見たか」
「あたりが急に光ってえらく強い風が吹きましたねぇ。近くで星が流れたんですかね。殿下はご覧になられましたか」
「ああ」
「全身に打撲のあとがありますが、命に別状はないでしょう。ちょっと応援を呼んでくるんで見ててもらっていいですか」
「早くいけ」
護衛騎士を行かせて、アストレアの隣に座る。視線は気絶している女性から離さないまま。
「レア、どうしてすぐに逃げなかった」
「怖くて、身体がうまく動きませんでした」
闇は怖かった。命を落とすかもしれない状況は怖かった。だがジークフリートにもしものことがあったらと思うと、一番怖くて。逃げるより戦うことを選んでいた。
その時頭にあったのは正しい判断ではない。ただの感情だ。
ジークフリートは大きくため息をつく。
「そもそも、なんでこんな時間にこんなところにいたんだ」
怒っている。
(ああ、そうだ)
怒られて当然なのだ。ジークフリートの様子がおかしかった理由がやっとわかった。彼は怒っている。その怒りの感情をうまく扱えないでいる。
それはおそらく――
(自分自身に対しての怒りがあるから)
「散歩をしていたんです。眠れなくて。その途中に彼女と会って、目が合って、なんだか怖くて逃げたら追いかけられて……転んだところにジーク様が来てくださって。あ、その前に普通の炎の魔法を使ったんですが……途中で怖くなって、止めてしまって」
包み隠さず全部言う。
「……あいつはどのあたりにいた?」
「ここを出たところの、あの、ゆるい登り坂の途中の植え込みの花の前で、城とは反対側の、空? いえ、どこかのお屋敷を見ていたような」
「…………」
ジークフリートは立ち上がり、アストレアの指差した方を見た。何も言わず、また座り直す。
「ジーク様はどうして街に?」
聞いていいものかと思ったが、気になってしまう。
「お、お前には関係ない」
星光に照らされた顔が赤くなる。
「くそ、あいつ……何が勉強だ。胸糞悪い」
(スラングを使わないでください)
改めてジークフリートの姿を見る。
貴族がお忍びで着るような華美ではないがきれいな身なり。しかしそのあちこちに泥やホコリがついている。
こんな夜に城の外にいること。
ジークフリートももう十三歳だということ。
アストレアも十一歳、そして十六歳の精神と膨大な書物の知識がある。
何があったのかは推測できる。騙されて高級娼館で大人の勉強をするはずだったが、逃げ出してきたかなんて聞けるわけがないので黙っておく。
「…………」
なんだろう。この気持ち。
むかむかするような、安心したような。
横顔を盗み見る。
ずっとそばで見てきたから気づかなかった。
顔立ちも、身体も、いつの間にか成長している。大人に近づいている。
いつかジークフリートは立派な騎士になって、時の女王に仕えるのだろう。そう遠くない未来に。
その時アストレアはどうしているだろう。
先のことを考えると、楽しみよりも不安が膨らむ。あと五年後、十六歳になるのがいまから怖い。六歳の時、十六歳の自覚を持って目が覚めた。
それの意味するところはまだわからない。
無意識の内にジークフリートの袖を握っていた。
ジークフリートが気づいたことでアストレアも気づいたが、手を離したくなかった。
「あの魔法、お前か? お前以外にいないよな……」
「なんだかもう夢中で、よく覚えていません」
あの時はただ必死だった。
「お前はよくやった。誇っていい」
必死で紡いだ拙い魔法。
そのおかげでいまこの時間がある。静かな夜空の下でジークフリートと言葉を交わすことができている。
死を覚悟したときのことを思うと奇跡のようだ。
「ありがとうございます。誇りにします」
「魔法のことは誰にも言うなよ」
返答に迷う。
いままでなら言わなかった。だが、あんな影を見てしまうと、本当に黙ったままでいいのかと思ってしまう。
あんな存在がまた現れて、また何かの命を奪おうとして、もしもアストレアの魔法が役に立つのなら――
怖い。怖いけれど。
本当に怖いのは自分が傷つくことではない。
「いまは、誰にも言いません。でも、またこんなことがあれば教えてください。私にできることがあるのなら、義務を果たしたいんです」
「……わかった」
ジークフリートはしばしの逡巡ののちに頷いた。
そういえば、ジークフリートには最初からあまり混乱した様子はなかった。それは、戦う術を持っているからか。それとも、あの魔物のような影の存在をどこかで知っていたからか。
問おうか迷っていたとき、護衛の近衛騎士が応援の衛兵を連れて戻ってくるのが見えた。
「よし、あとは任せて帰るぞ」
女性の保護に取り調べ、あたりの被害の調査。彼らがやるべき仕事を見届ける権利はアストレアにはない。体力も気力ももはや限界だった。
差し伸べられたジークフリートの手を取る。立ち上がろうとするが、足にまったく力が入らない。
――ああ、そうだ。
魔力を使いすぎるとこうなってしまうのだった。
「あの、えーと。少し休んだら帰りますから、お気になさらず」
ジークフリートはアストレアの強がりになど耳を貸さず、アストレアに背を向け膝をつく。当たり前のように。
優しさに胸が苦しくなる。
そこまでされて断れる訳がない。
両肩に手を添えて、首に腕を回し、背中に体重を預ける。硬い背中に、しっかりと鍛えられた身体。骨と筋肉のかたちが、体温が、服越しに伝わってくる。
顔を見られなくてよかった。頬が熱い。
ジークフリートはアストレアを背負い、危うげのない足取りで歩き始める。護衛騎士だけを連れて。
「もう夜中に抜け出したりするなよ。今日はたまたま助けてやれただけなんだからな」
「はい。もうしません」
規則正しい揺れがゆりかごのようで。伝わってくる体温が心地良くて、少しずつ瞼が重くなって。
安心してしまって。
いつの間にか眠ってしまっていた。