羽化
背中に翼があって自由に空を飛べたなら、さぞ気分の良いことでしょう。
その時私は、一目惚れをしたのだと思う。
光を散らし広がる白銀の毛色。神秘を内包したように瞬くルビーレッドの瞳。華奢で繊細な、触れれば壊れてしまいそうな四肢。ガラス越しに佇むそれに、私は知らぬ間に目を奪われていた。
それまで俯いていたそれは、私の存在に気付き顔を上げる。瞬間、私たちの視線が交差する。見つめていると、その深い赤に吸い込まれそうになる。周囲の雑音は聞こえず、呼吸すら忘れそうになる。
それは頼りなく腕を伸ばし、ガラスに手を突いたかと思うと、弱々しく薄桃色の唇を動かした。
声はガラスに遮られ届かない。しかし、そんなものに価値は無い。その体から放たれた淡い輝きがガラス越しに染み出し、熱となってこちらまで伝わるようだった。
その熱をしばしの間吟味する。やがてそれが私を突き動かし、気付けば店員を呼びつけていた。
これまで私は生き物について興味を抱いたことが無く、取り分け犬猫などの家畜については、むしろ嫌悪すら感じていた。自らを卑下し人に媚び諂い、情けで施された汚い汁を啜るような生き様は、視界に入れることすら不愉快である。故に、付き合いの長い友人は、私が生き物を飼うことに大層驚いていた。何度も目を白黒させ、虚偽妄言だのと私の言葉を否定した。相当信用が薄いのか、こうして彼を屋敷に招き実物を見せつけるまで、彼は声色一つ変えなかった。
「犬か猫、もしくはお前の場合、虎や象なんかを想像していたが、流石にこれは予想できなかったな」
そして実物を披露したとき、彼は二重の意味で言葉を失った。
彼が凝視するのは私が持つ鳥籠の中。そこには淡い光を纏う生物、天使が収まっている。見知らぬ人間の視線に怯えたか、天使は装飾用の造草の陰に隠れ、その隙間から様子を窺っている。しばらくはそのまま紅い瞳で友人を観察していたが、彼が籠の隙間に指を差し込んだ瞬間、天使は完全に草の中に逃げ隠れた。
『天使』。大変人間と姿形が似ている生き物。相違点として、頭上の光る輪と、背中から生える両翼の存在、そして体の発光現象が挙げられる。可聴域を超えた周波数でコミュニケーションを取るため、人間にその声は聞こえない。しかし、それは些細なことだろう。声などという形の無いものに価値はない。
「にしても天使たぁ、珍しい買い物をしたねぇ。最近じゃ数がめちゃめちゃ少なくて、お目にかかることすら難しいって有名なんだぞ。相当値が張ったんじゃねぇか? ま、あんたのことだから、値札なんか見ちゃいねぇだろうがな」
彼は笑いながら私の肩を叩くと、そのまま部屋をぐるりと見回した。絵画、彫刻、陶器、絡繰。多種多様な美術品に舐めるように視線を沿わせた後、彼は再び天使へ目を向けた。
「ま、生き物を飼うってのはいいことだ。それにそいつ、お前のコレクションの中でも負けず劣らず目を引くもんだ。いい買い物をしたな。精々大事にしてやんなせぇ」
天使は変わらず、草陰の中で怯えたように震えている。その度に、光の粒が周囲へ飛散した。
天使は生き物故、他の美術品とは質を保つ為の条件が異なる。太陽光を浴びせ、水と食料をやり、排泄物を処理しなければならない。しかし、その一つひとつを世話できるほど私は暇ではない。天使の世話は女中に一任することにし、仕事を終え床に就くまでの小一時間のみ、籠の中の天使を観賞することにした。天使は、初めこそ全てに怯えたように体を震わせていたが、数日が経つ頃には堂々とくつろぐようになった。女中によれば、日中は屋敷を散歩させているらしい。新しい家に慣れることは家畜の健康にとって重要なことだと聞いたので、女中の好きにさせている。
そうして時は過ぎ、ある日のこと。仕事の合間に例の友人からこう訊ねられた。
「そいやぁ、あの天使ちゃんはなんて名前にしたんだ?」
名前、その単語に一瞬戸惑うと、彼は呆れたようにため息をついた。
「おいおい、お前にゃ常識ってもんが欠落してんのか? ペットを飼ったら普通名前を付けるだろ」
私はすぐさま彼の侮蔑を否定した。非常に大多数の人間が家畜に名前を付けていることは私とて知っている。しかし、名前とはあくまで識別子であり本質ではない。決して呼ぶことのない名前を与えることは合理的ではない。そう言うと、彼はわざとらしく二度目のため息をつく。
「おいおい、マジかよ。お前の家に飾られてる数えきれないほどの美術品、それの一つひとつに作品名付いてんだろ? お前だって、タイトル全部大事に覚えてんじゃねぇか。あいつを大切に思うなら、名前くらい付けてやれよ」
それは尚更難しい。絵画などのタイトルを重要視するのは、それが作品を大きく特徴付けるものであり、作品の一部だからだ。そして、タイトルがタイトルとして満足に機能するのは、作品が変質しないという前提があってこそである。しかし生き物の美は流動的。一定でないものに不変の名は付けられない。この考えは、果たしておかしいものだろうか。
「あぁ、そうだな。お前はそういう奴だった」
呆れ切ったように両手を上げると、彼は私に背を向けて歩き出す。次の商談へ向かうのだろう。
「お前がそれでいいなら俺は構わん。好きにしてくれ。じゃ、またな」
その言葉を最後に、私と彼は各々の仕事へ戻った。
その日の夕暮れのこと。家に帰り着くと、女中が玄関で平伏し、絶えず謝罪の言葉を述べていた。話を訊くと、コレクションの一つである飾り皿を落とし、割ってしまったのだそうだ。しかし、割ったのはその女中ではなく、天使だと言う。天使を籠から出して自由にさせ、その間に家事を行っていたところ、皿の割れる音がしたのだそうだ。
割った張本人でないとはいえ、事の原因は女中の管理不足。被害額はこれの生涯年収では勿論足りない。
私はその女中を解雇し、新たに一人を雇った。それを天使の世話係に任命し、何度も何度もこう言い聞かせた。
水、食料、排泄物の世話だけをしろ。籠の外には決して出すな。決して、だ。
その後、騒ぎの一つも起こることなく日々は過ぎた。
私の一日の楽しみは、就寝前のコレクション観賞。数々の作品の中でも、天使は取り分け素晴らしい。椅子に腰掛け、吊り下げられた籠の中を見つめる。中で佇む天使は同様に縁に腰を下ろし、俯いたまま床を眺めている。その物憂げな表情と、周囲を取り巻く淡い光、粒子を散らす頭上の輪、繊細に揺れる髪と翼。その一つひとつに目を奪われる。あの日初めて感じた胸の高鳴りを毎夜堪能できるとは、なんと幸せなことだろう。
そうして幸せなため息をついたとき、ふと気付く。天使の左翼が少し短い。羽の枚数も少ない気がする。その下を見ると、羽の残骸が溜まり、小さく盛り上がっていた。羽は抜けた後にも関わらず、微かに光を放っている。
美しい、と。気付けば言葉を零していた。
天使のシンボルとも言える輝く銀翼。これが傷付き弱ることは、この生き物に大いなる芸術的意味と価値をもたらす。今目にしているこれは、今正に芸術としての魅力を高めつつあった。
天使はこちらに目もくれず、膝を抱いて小さくなっている。普段と変わらぬ様子のそれは、今に限って一層愛おしく思えるのだ。
舞い落ちる白い羽毛。それを追うように光る赤い視線。濃い闇の中、淡く縁取ったように光る輪郭。
一つ、また一つと、その繊細で優美な様に息を漏らす。
芸術品の美は、管理の仕方次第で永遠のものにすることができる。しかし、生物はどうだ。今目にしている美は、いずれはこれの死によって失われる。それは私にとって、耐えがたい事実だ。
いつまでこの美しさに酔いしれられるだろう。いつ、これを手放す日が来るだろう。
私はその時の到来を、心の底から恐れている。
その後も、天使の翼は日に日に小さくなった。羽が抜けるのは左翼のみ。翼が痩せ、貧相になるほどに、天使に対する愛着は増していった。まるで、目の前で作品が形作られている様を見ているようで。しかし世話係の女中は、その変わりように口を出さずにはいられなかったようだ。
女中の話によると、天使は自ら羽を毟っているらしい。エサや水をあまり摂らなくなり、度々右手で左の翼を毟るのだそうだ。
「わたしのお世話の仕方が悪かったのでしょうか? 相当弱っているようにも見えますし。お許しいただけるのでしたら、明日、病院で診てもらおうと思うのですが」
脳裏に過る『死』という概念。これは己が命と引き換えに美的価値を高めているのだと悟った。どんな形であれ、これを失うことはできない。
その日、私は仕事をすべてキャンセルし、自ら医者へ連れていくことにした。腕の良い医者を見繕い、金を積んですぐさま診察させた。
天使は相当珍しいのか、医者は若干驚いたように目を開き、次第に神妙な顔つきとなった。
「ストレス性の自傷行為でしょう。天使は特にストレスに弱い生き物で、翼、髪、そして皮膚へと、段階的に自傷行為の範囲が広がっていきます。今はまだ翼のみですから、程度としては浅いものかと。しかし、左の翼は相当酷い有様です。治療を施しても、元に戻るかは保障できません」
籠の中で、天使は例のごとく隅で縮こまっている。震える肩から弾かれたように光が散った。
「折角の美しい羽を失ってはこの子も可哀想です。なので、まずはストレスを与えるものを環境から排除することから始めましょう。この子の普段の生活環境をお教えください」
その後、天使の症状改善について、そして飼育環境の劣悪さについての説教を一通り聞かされ、私は病院を後にした。籠の中の天使は変わらずうずくまり、心を失ったように地面を見下ろしている。光は絶えず散り、私の歩いた軌跡をなぞる。
何故治療などしなければならない。これは今まさに芸術としての質が高まっている最中なのだぞ。あの医者は芸術を知らぬぼんくら。私のコレクションを目にする資格など欠片も有りはしない。
しかし、現状が続けば『死』は免れない。魂を失した肉体は瑞々しさを忘れ、白く繊細な肌は蛆の温床となり、白銀に輝く髪や羽は光を失い抜け落ちる。それは芸術とは対極の存在。唾棄すべき最悪の未来だ。認められない。私のコレクションがそのような最期を迎えることなど、決してあってはならないのだ。
であれば、どうすることが最適だろう。現在の美を永久に保存するには、どうしたら。
……一つだけ存在する。これの儚き美を永久に閉じ込め、私のコレクションとして完成させる術が。
その夜、屋敷へ戻った私は、天使の世話係だった女中を解雇した。その女は最後まで未練がましく謝罪の言葉を垂れ、赦しを請うていたが、それは全て無視し、屋敷の外へ放り出した。謝罪も何も、既に世話係など必要なくなった。不要な人間を雇う人間がどこにいるだろう。
高鳴る気持ちを抑えつつ、屋敷の奥の部屋へ急ぐ。私の珠玉のコレクションが飾られている部屋だ。
扉を開き、明かりを灯す。世界各地から蒐集した美術品が私を囲うように陳列している。その中央、最も目を引く部屋の中心にラウンドテーブルを設置し、そこにシルクを被った籠を載せる。厚い生地越しに漏れる輝き。それは、永遠を獲得した何よりの証明となる。
息をのみ、布を取り去る。
籠の中には、変わらず天使が佇んでいた。しかし、かつてのような脈動はない。加工を施され、損充材を詰められた体は形を固定され、しかし肌は柔軟性を保っている。腰掛けたまま右足を折りたたみ、頭は垂れ、肩を落としている。深い紅を湛える瞳は薄く開かれたまま、僅かに視線を私に流す。左腕は力無く垂らされ、右手には毟られた羽毛が握られている。
美しく高貴な生物であるそれは、今や人間の家畜と成り下がり、自由の象徴たる翼を自ら傷つける。種の誇りを忘れ、光を失った瞳は正に隷属性を体現していた。一つのテーマを全身で以って表現することにより、これは芸術品としての美的価値を幾段にも高めていた。
私は今、最高の芸術を目にしている。その事実が、かつてないほど私の体を震わすのだ。
この目に狂いは無かった。かの日の一目惚れは、私に至極の作品をもたらしたのだ。
だがしかし、まだ一つだけ足りないものがある。芸術品に無くてはならないもの、そう、名前だ。永遠を得たこれは、名を与えられる権利を有しているのだから。
どのような名前が良いだろう。安直な考えでは足りない。この芸術性を十分に内包した相応しいものでなければ。
頭を悩ませ初め、気付けば日付が変わっていた。浮かんでは捨て、また浮かぶ言葉を選別し、組み合わせ、やがて私は一つの答えに到達する。
「決めた、この作品の名は――」