歌うたいは歌をうたい、泡沫の夢を追う
人生は儘ならない。
俺が歩んだ人生だから誰のせいだとかは言いたくないが、儘ならないものは儘ならないのであって、そういった現実の前では、そうなった原因がどこにあるのか、お上にあるのか、下々である俺のせいなのか、はたまた俺の製造責任者である親にあるのかなんて些細な問題だ。
そう、儘ならないという現実だけが俺を押し潰す。
「キミちゃん、また面倒なことを考えているの」
腕を組んでうんうんと唸っている俺を上目使いに見つめるのは、目下、人生の伴侶の最有力候補となった女の子。側から見れば間違い無く恋人だと言われあるだろうが、俺にとっては一緒に遊んだり、ゲームで対戦したりといった恋人以上の同志や戦友という方がしっくりくる。酔っ払うとすぐ人にしなだれ掛かる癖があるからシナ。気がつけば誰もがそう呼んでいた。俺も含め誰も本名では呼んでいない。本人も本名で呼ばれるのを嫌がる。だから、シナ。そのシナが今日も日本酒の瓶を抱えながら俺にしなだれかかっている。彼女の少し高い体温を受け止めるという恩恵は、今や俺だけが独占しているのだ。
「考えている。酔っ払いは早く寝ろ。俺は絶賛執筆中だ」
真っ黒でストレートな黒髪。前髪をパツンと切り揃えているので、一見すること小芥子みたいな髪型だ。
綺麗や可愛いと万人受けする顔では無いが、印象に残る。
色白の肌に真っ赤なルージュ。
蠱惑的という表現が言葉としてはぴったりだ。
そしてシナの身体からは俺の大好な甘い香りがする。
どこかムズムズするようなくすぐったい感覚が襲ってくるその香りに負けることなく、今日の俺は机に向かい続けた。今日こそは。今度こそは。不屈な闘志に身を包んだこの俺は、人生という儘ならないことに対して真剣に向き合っていたのだ。
「執筆ぅ? さっきからモニターをにらんだまま動かないじゃん」
「もうすぐ降りてくる。間違いない。俺はそれを待っているんだ」
「ふーん、今日も?」
「そうだ」
「ふーん」
シナがそういって胡座をかいている俺を這うように乗り越えながら反対側にある皿に手を伸ばし力尽きる。
このやり取りは何日目だろうか。
「ふふふ、キミちゃん座布団にサキイカの組合せ最高」
シナは口にサキイカを咥えたまま俺の上で寛ぎ始めた。
「……そんなところに乗っかるな。あとちゃんと食え」
「アタシがここにいた方が、その……なんかが降りてくるかもよ」
両手を伸ばし、足をバタバタとバタつかせながらシナがそう言う。
「そんなことあるか」
「あるかもよ」
「ないね」
「あるって、信じてみそ。ほら目を瞑って……そう……じっと待ってみて」
仕方無いのでシナの言葉に従い俺は目を閉じた。
シナの香りが全身を包み、俺はなんだか我慢ができなくなるような――
「すう」
「おい!」
膝のあたりから静かな寝息が聞こえてきた。
「シナ、シナさん? シナさんやーい」
呼びかけても全く反応が無い。完全に熟睡モードだ。
よく見れば抱えた一升瓶の中身も空になっていた。
「まだ結構残っていたはずなのに」
酒があまり強くない俺では持て余していたのは事実だが、それを見事に消費しきってくれたシナの髪を撫でる。ちょっと酒量が増えたか? そう思いながら、ついつ一緒に眠ってしまいそうになるが、その誘惑に耐え俺は首を振った。そしてモニターに視線を戻し……本当に何もかもが儘ならないものだ。
「キミちゃんは小説家なんでしょ?」
「元な」
「元なんだ」
「ああ、元だ」
そんな会話を最初にしたのが気に入ったのか、シナは知り合った当初から俺に懐いてきた。
「シナさんは……」
「シナでいいよ。渾名だし」
「シナは普段何をしているの?」
「うーん、バイト」
「そうなんだ」
「うちのバイトリーダーがクソでさぁ」
そんな話題で盛り上がったのを記憶している。
そのまま打ち解けて、友人として飲み仲間として過ごしてきたシナ。
周りからは早くくっつけと言われていたが、そんな簡単な話では無い。
六歳も年下の女の子だ。
妹みたいなものだ。
そういってずるずると先の伸ばしをしていた。
酔っ払った勢いで強引に押しかけられ、押し倒され、男女の関係になった。我ながら情けない話だ。好きなのかと聞かれれば好きだと答えるし、愛しているのかと聞かれれば、愛しているのだろう。だが、やっぱり俺達は戦友であり同志という方がすっきりとくる。
とはいえ恋人関係になって以降、頻繁にシナは家にくる。
今では半同棲ともいえるような生活になってしまった。
お互いバイトがある日は別々に過ごし、休みの日やバイト空けはともに過ごす。そんなぬるま湯のような生活。
「荷物も全部こっちに持ってきちゃえば?」
律儀に毎回荷物を持って帰るシナにそう声をかけるが、
「なんかズルズルなのは嫌なんだよね」
シナはそう答えていた。
まぁ、荷物が重そうで大変そうだなと思う位なので、そういうものか思っていた。。
付き合って数ヶ月経過したせいか、たまに緩慢とするような空気になることもあるが、それでも俺達は仲が良かった。
二週間前までは。
友人の頃から仲間達と、なんども一緒にカラオケには行った。
そんな中でもシナは手を叩き騒ぐだけで一度も歌わなかった。
歌いたくないやつは歌わなくていい。
そんな自由な雰囲気のある仲間同士だ。シナに無理矢理歌わせるようなことはしない。
だからそれまで俺はシナの歌声を聴いたことがなかった。
「楽しいね」
「ああ」
お互いのバイト帰りに待ち合わせた俺達はいつもの通り駅前の居酒屋で軽く飯を食った。居酒屋ではいつもより多く日本酒を飲んでいたが、それも許容範囲。飲み足らないと酒屋で一升瓶を仕入れたのもいつものこと。
だけどこの日はどこかシナはご機嫌だった。
「今日の酔い方はいい。実にいい」
「そうなのか」
「うん。気持ちが何だか軽い」
そういってシナは小走りに帰り道にある公園に駆け込んだ。
そして公園の中央にある滑り台に上るとシナが俺を見て、
「歌う」
と唐突に言いだし、一升瓶をマイクに、よくわからない節をつけて歌いだしたのだ。
三拍子になったかと思うと、ハードロックのように激しく歌う。ラップかと思いきや、突然バラードになったり……歌詞にはウンコが何回も登場していたし、「死ねバイトリーダー」という言葉も何度も飛び出していた。さすがに完全オリジナルの即興だったのだろう。
だがそれは神に愛された歌声だった。
惚れた。
シナに対しての愛情とは別ラインで……魂の底から痺れてしまった。
少し嗄れたようなハスキーボイス。
魂から何かを絞り出しているようなもどかしい歌声に、俺はガツンと引き摺られてしまったのだ。
この声を独り占めしているのは犯罪だ。
それ以上に、この声を聴いて何も行動出来ないのは犯罪だ。
帰宅後、俺はシナと付き合うようになってから封印していた執筆用のパソコンを起動した。
書かずにはいられない。
魂の中から引きずり出せる何かが。
あったはずだ。
俺にも。
だが。
「儘ならない」
笑って趣味だよと気軽には言えないくらい打ち込んでいるつもりだった小説を書くという仕事。
一度だけ大きな賞を受賞した。
三冊、書籍も出した。
そこそこ売れた。
だけど、俺の引出はそこで開かなくなったのだ。
諦めた。
元小説家という冗談のような肩書きだけで、俺は惰性のまま生きていた。
その蓋をシナの歌声が強引にこじ開けたのだ。
書かずにはいられない。
だが。
俺の中には入っていなかった。
シナの歌う歌声。
それがこじ開けた俺の抽斗の中身は空っぽだった。
自分の薄さに反吐が出そうになる。
「儘ならない」
もう一度呟いて、俺はモニターをじっと睨み付ける。
時間だけが過ぎ、シナが膝の上で寝返りを打った。
俺は彼女の身体をそっと抱き上げ、布団に放り込んだ。
「キミちゃん、寝なかったの」
「おう」
酔い潰れていたシナは朝になって復活してきた。布団を被ったままシナが俺の膝の上に這いずり上がる。
「この間からそんなに真剣に何をやってるの?」
「小説を書いている」
「ふーん、また賞に出すの?」
シナが昨日から全く変化の無いモニターにうつるテキストエディタを眺めた。
「それはまだ考えていない」
「そうなんだ」
「ああ」
だが、一向に文章が出てこない。
シナの歌声に匹敵するような何か。
俺にもあるはずだ。
何かが、きっと。
「出かけてくる」
シナを膝に載せたままモニターを見つめていた俺にそう言うとシナは立ち上がった。
どこからか連絡が来たみたいだ。
「どこに行くんだ?」
「う……んと……バイト。連絡が入った」
「急な呼出?」
「うん、そうだね」
そう言い、ボサボサの頭を書きながら風呂場に向うシナ。
シャワーの単調な音に眠気を誘発されてしまい、少しだけ仮眠を取るべく、俺はシナの甘い香りが残る布団に潜り込み、幸せな気分に包まれ、そのまま眠ってしまった。
目を覚ましたのは夕方だった。
寝ている間に出かけたのだろう。シナはまだ帰っていなかった。
「――ただいまぁぁ」
「おかえり」
一升瓶を抱えたシナが帰ってきたのは深夜1時を回った頃。
俺は夕方から再びモニターの前で唸っていたので、チラリと顔を上げただけで再びモニターに向き直った。
「……それだけ?」
「え?」
「それだけですか?」
「ん? ああ、飲んできたんだろ? お疲れ様」
俺は改めて顔を上げてシナを見たが……いつものように一升瓶を抱えて帰ってきたシナの顔は完全に素面だった。
「気にならない?」
「何が?」
「遅いよ? 飲んできているよ?」
「ああ……楽しかったか?」
「うん、楽しかった……じゃなくて、彼女がバイトだって嘘をついて……飲んで帰ってきているんだよ!」
その言葉の割には完全に素面だ。そして不安そうな涙目で俺を睨み付けている。
「どうしたんだ? え? シナ?」
バイトが嘘ってどういうことだ? それにシナの口から「彼女」なんて洒落た言葉が出てきたのは初めてだぞ。端からみれば恋人同士だという自覚はあったが、お互い気恥ずかしくてそんな言葉を使ったことは無い。付き合うとか愛しているとかそういう安い言葉を抜きにして俺達はもっと高尚な戦友であり同志であったはずだ。
「……キミちゃん、アタシに飽きた?」
「へ?」
「最近、アタシの事を見ない。アタシに構わないし、アタシに興味を持たない……」
「な、何を……毎日、一緒にいるじゃないか」
彼女の激しい口調に俺は急速に不安になる。
なんだ?
気がつかないうちに大きな地雷を踏み抜いた?
え? 喧嘩なのか?
「ちょ、ちょっと待って。シナ。誤解だ! 何か誤解がある」
「誤解じゃ無いよ。キミちゃん、ずっとそこに座ってモニターを見ているだけじゃん」
確かにそうだが。
「アタシがいつも荷物を持って帰っても何も言ってくれなかった」
「え? それはシナがズルズルは嫌だからって」
「違うよ。じゃぁ、一緒に住もうじゃないの、そこは?」
解らないよ。
言ってくれないと。
俺は。
いつも俺は自分のことで精一杯だから。
「なんで何も書かないのにモニターをずっとみつめているの。アタシはここにいるんだよ」
「こ、これは違くて……ただ」
「ただ何よ!」
「ただ、俺はシナの歌を聴いたから」
その瞬間、興奮していたシナから表情が抜け落ちた。
どうやら俺は、もっと大きい地雷を踏み抜いたらしい。
「アタシの……うた?」
俺はそれでも、しどろもどろになりながら、必死に弁明する。
「そ、そう。シナの歌。公園で歌っただろう?」
「公園?」
「そう。二週間前、飯食った後」
「ああ……」
だから。
だからお前の事に興味が無いなんて、そんなはずは無い。
「それで?」
「それで? ああ、それでシナは歌の才能もあるし、きっとバンドとかすれば売れるから。シナに追いつけるくらい俺も本を……もう一度……あれ? なんで?」
俺の言葉にシナの目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
「言っていない」
「何?」
「歌いたいなんて、言っていない」
「え?」
涙を流すシナの目が冷たい。
まるで無機物を見るような目で俺を見つめ、色白の肌に真っ赤に塗られたルージュを少し歪めるように笑った。
「デビューしたい、売れたいなんて、そうキミちゃんに、アタシが言ったことあったっけ?」
「い、いや……言っていない」
「歌いたいって、アタシは言ったっけ?」
「シナ?」
「歌いたいなんて……歌を歌いたいなんて思うわけないじゃん!」
シナはそういって俺を突き飛ばした。
「歌なんて…… 歌なんて捨てたの! もう捨てたの!」
そしてこの二週間、俺がひたすら睨み付けていたモニターに向かい、シナは持っていた一升瓶を大きく振り上げ、叩き付けた。一升瓶は割れ、モニターの電源がすうっと落ちた。一升瓶の中身は空だったのか、中身は飛び散らず、日本酒の香りだけが部屋を満たした。
そんな光景を俺はただ呆然と眺めていたのだ。
「シナ?」
しばらく呆然とモニターをみつめていた俺は、ゆっくりと視線をシナに向けた。
その目からは何も感情は読み取れない。
もう一度声をかけようとした俺から目を逸らしシナは立ち上がった。
「……ごめん。頭、冷やしてくる」
その目の涙は、もう止まっていた。
靴を履いて出て行くシナを俺は止める事もできず、ただ呆然と見送ってしまう。バタリと小さな音を立てて閉まるドア。
俺は割れた一升瓶を片付けながら情けないことに溢れてきてしまったた涙を拭うことも出来ず、ただ自分の人生の儘ならなさを嘆いていた。付かなくなったモニターを新聞でくるみ玄関の横に置いた。シナは一人で一升瓶を空けていたのか? その割には酔っているようには見えなかった。いや、完全に素面だ。じゃあ、あの一升瓶はどこかで拾った空き瓶か? いつ俺は彼女を傷つけてしまっていたのだろうか。ずっとこんな生活が続くと思っていたのに。いつ変わってしまったのだろうか。あ、ところでモニターは燃えないゴミ? それとも粗大ゴミなのか、明日、調べないと――
「……くそっ」
グルグル回る考えを振り払うように、俺は自分の頬を張った。
さぁ、認めよう。
俺はシナの可能性を知ってしまった。
俺はシナの才能を知ってしまった。
だから嫉妬し、負けたくないと思ったのか?
シナの歌が素晴らしかったから? 嘘だ。
シナと釣り合うような男になるために? 嘘だ。
俺は。
俺は。
俺はただ、もう一度ステージに立ちたかったのだ。
いつまでも「元」という肩書きにしがみつき、もう一度、プロとして書籍を出す作家としてのステージに。
小説を書きたい。
本当はこのまま消えたくない。
もう一度、もう一度、俺の言葉を世に出したいんだ。
認められたいんだ。
そんな浅ましい心の内が表に出てしまったのだろう。
二週間、全く何も書けなかった。
何かを書こうとする前に、書かなければならないという焦燥感だけで立ち尽くしていた。
だから深く傷つけてしまった。
一番大切なはずのシナに、浅ましい俺の姿を見せてしまい、傷つけてしまったのだ。
その原因はお前なんだと、図らずも伝えてしまった。
「くそっ」
俺はもう一度小さく呟くとコートを羽織り外へ出た。
こんな儘ならない人生でもシナは大切な同志だ。戦友だ。恋人だ。失いたくないし、もし終わりが来るとしてもコレは違う。この終わり方は駄目だ。
「シナ!」
夜中の街を走った。
シナはあの公園にいる。
あの夜、シナが歌った滑り台のある公園。
そんな確信めいたものをが俺にはあった。
「シナ……」
真夜中の公園。
やはりシナは公園の中央にある滑り台の上に立っていた。
コンビニで買ったのだろうか。
手には新しい一升瓶が握られていた。
「……キミちゃん」
「ごめん、シナ」
「聴いてください」
「え?」
シナは歌い出した。
公園が歌に包まれた。
「そんな……」
それはもうそこにあったのだ。
――シナの才能を受け止める曲。
――シナの全てを表現する歌詞。
これは才能と才能がぶつかり合って積み上がった全て。
余すところなく、妥協をせず、誰かに褒められるために作られたものではない。
ただ、ただシナのための歌。
圧倒的だ。
シナの声に押し出されて俺の卑小さが夜空に浮かび上がる。
売れたかった。
もう一度世に出たかった。
賞賛されたい。
成功したい。
そんな動機で書く文章に何か意味があったのだろうか。
静寂が訪れた。
「キミちゃん」
シナに声を掛けられるまで気がつかなかった。
俺はいつのまにかその場に座り込み涙を流していた。
ただシナだけを見つめていたのだ。
「私にはもう歌はあるの――」
「なら……なぜ」
「……歌いたくなくなったから」
「でも……そんな……そんな才能があるなら……」
シナは首を横に振った。
「人生は所詮ガチャガチャなの」
「え?」
「回して出たカードが外れたなら、それで人生はお終い。諦めるの。お疲れ様でした。そうできているの」
「シナ……」
「それでもアタシの番は来たんだよ。必死に祈った。一所懸命練習した。歌もダンスも。でもアタシが回したガチャは外れだったの。だから……」
シナは微笑む。
「だから、アタシは諦めた」
「どういうこと?」
「チャンスなんて平等じゃないんだよ。歌いたくても……どんなに歌いたくてもチャンスを逃したアタシは歌を捨てるしかなかったんだ。だから歌を捨てた」
「で、でもやりなおしたら。もう一回チャレンジしたら」
「したよ。何回も。何回も」
そう言いながらシナは俺に近づき、俺の頬を冷たくなった両手で包み込んだ。
甘い匂いが俺を包む。
「でも駄目だったの」
そして優しく唇を重ね、そして離れた。
「歌を歌うことを夢見ていた女の子は、夢を見失って座り込んでいました。そんなある日、まだ夢を捨てていない素敵な王子様と出会いました。歌を捨てた女の子はお姫様になりました」
シナが優しい目で俺を見つめる。その目から涙がこぼれて始めた。
「キミちゃんは夢を諦めていなかった。キミちゃんは自分を見捨てていなかった」
そんなこと……ない。
「足掻こうとしていた。もがいていた。アタシと遊びながらも。みんなとお酒を飲みながらも。キミちゃんは足掻いていた。這い上がろうとしていた。だからアタシはキミちゃんに憧れた。『元小説家』なんて言いながら、全然、書くのを止めないんだもん。知っていたよ。夜中に書いていたのを。知っていたよ、いつも物語を考えていたのを」
俺の身体はシナを失う恐怖で大きく震えた。
「でも……なんでかな……なんでアタシの歌を聴いたらキミちゃんがおかしくなっちゃったのかな。キミちゃん………なんでアタシの歌を聴いてアタシに引きずられて自分を失っちゃうのかな」
透けてた。
俺の心は、すっかり透けていたのだ。
「歌が……シナには歌がある……から……」
「歌? そんなの、もういらないよ。ガチャに失敗しちゃったの。アタリが出なかったの。だからそんなものはいらない。ハズレたの。舞台から退場してゲーム終了……。それじゃ駄目なの?」
シナの言葉だけでは何があったか解らない。
だけど、そう思い込む何かがそこにあったのだろう。才能があるゆえの悩みなんて驕りだ―― 簡単に言い捨てていいような話では無い。きっとそこには想像つかないくらいの苦悩があったのだろう。
あの声を持っていて。
神からもらった才能を持っていて。
それを捨てるに至った経緯を思うと、俺の心臓はギュッと締め付けられるような痛みを覚える。でも本当にそれで良かったのか? 歌を捨ててしまって……歌うたいが歌を捨ててしまっても良かったのか? そうして俺と一緒に過ごして傷を舐めるような生き方をして……そこに後悔は無いのか?
シナの歌う場所……
それはこんな公園なんかじゃない!
だから、俺は自分の卑小さを笑おう。
笑って笑って、笑い飛ばそう。
震えは止まった。
だから――
「ガチャが1回だけなんて誰が言った?」
「え?」
「ガチャが1回だけなんて誰が言ったんだ! この野郎!」
「キ、キミちゃん?」
俺は笑うように叫んだ。シナが引くくらい大きな声で叫ぶことにした。
思い悩み苦しんだシナに届くように。シナがもう一度歩き出せるように。
「ガチャなんて何回も回せばいいだろう! リセマラだって何百回でもやってやれ。課金厨? 上等だ。破産寸前まで回してやれ! むしろ破産しろ! 最後までやりきれ! 終わっちまえ」
「ちょ、ちょっとやめて。何を言って……夜中だよ」
シナが慌てたように周囲を見回しながら俺の口を塞いで止めようとする。
だけど止まらねぇ。
俺はニヤリと笑って更に続ける。
「シナ! 回すんだよ。人生がガチャガチャだったら何回でも! 終わりなんてねぇ! 運営からサービス終了なんて連絡来たのか? 終わってねぇだろ? だったら回せ、回せ! 馬鹿みたいに回せ」
そして大きく息を吸い込むと俺は精一杯デカい声で叫ぶ。
「回せぇぇぇぇぇ!」
一瞬訪れる静寂。
そして、あちこちで窓を開ける音が聞こえ、夜中に騒いだことを詰る声がする……きっと通報もされているだろう。こりゃ、すぐ逃げるしかないな。
「恥ずかしいよ、キミちゃん」
「確かに」
周囲の視線から逃れるように俺達は物陰に隠れた。
俺の隣にはシナが座っている。
「……もう一回、回してもいいの?」
俺の横で俯き、消えてしまいそうに震えている小さな声。それでも、俺の耳には届いた。
もし届かなかったら。
もしこの声を聞かなかったら。
もしかしたら俺達はもう一度、向き合い。同じ方向に向かって歩き出したかもしれない。
でも届いてしまった。
聞いてしまった。
だから、彼女はもう俺だけのシナでは無い。
「ああ。決めた。俺も回す。お前も回せ。俺は自分の夢を諦めない。『元』なんて安易に逃げない。たとえ泡沫であっても、俺は一度は手に入れた。二度目だって三度目だって夢を追っていれば、いつか引き当てられる。だから、お前も回し続けろ! 同志だろ? 戦友だろ?」
「書けるの?」
「書く」
「本当に?」
「書く」
そういって俺は笑った。
「そっか。本当はアタシ、事務所は戻ってこいって言われているの」
「そうなのか」
「うん。今日、久しぶりに事務所に呼び出された。もう一度、レコード出すって。朝からずっとレッスンしていた」
やっぱりそうか。
この才能だもんな。事務所とやらも放っておかないだろう。
「いいじゃないか。もう一回やってみろよ」
「でも……そうしたら一緒にいられなくなるよ」
その言葉に俺は無理矢理に笑う。
「一緒にいられなくなるって、どのくらいだ?」
「ずっと」
「ずっと?」
「うん……多分……忙しくなるし……ファンとかの目もあるから」
そうか。
やはり人生は儘ならないな。
俺だけのシナじゃなくなっても、もう少し一緒にいられるというのは甘い考えか。
それでも。
「回し続けりゃきっと何とかなる」
「無理だよ……もう会えなくなるよ」
「わらからねぇだろ。ガチャガチャを回し続けてりゃ当たりを引いていつか会えるさ」
だから諦めずに歌え、シナ。
とびきりの歌声を世界に聴かせろ!
俺は元気付けるようにシナを抱きしめた。
「寂しいね」
大丈夫だ、シナ。
回し続けろ、お前のガチャガチャを!
儘ならない人生なら思う通りにいくまで回し続けろ。
「うん」
いつか俺はもう一度シナを引き当てる。
絶対、売れる小説も書く。
どちらも、とびきりのレアキャラだ。
そう簡単には当たらないかもしれない。
だけど、俺は絶対引き当てる。
だから、だからお前も頑張れ。
「うん……うん……」
まるで青春ドラマのように語り合い、泣き、抱きしめ合った後に、俺たちはその日、その場で別れた。
俺はシナを見送り、闇に消えていく彼女は最後に一升瓶を大きく掲げ、手を大きく振っていた。
きっと目にいっぱい涙を溜めていたのだろ。
飲み過ぎるなよ。
俺はもう、そばで支えてやれないからな。
シナの姿を俺は必死に目に焼き付けた。
暗闇で姿が見えなくなっても、俺は手を振り続けていた。
ああ、人生は儘ならない。
俺が歩んだ人生だから誰のせいだとかは言いたくないが、儘ならないものは儘ならないのであって、そういった現実の前では、そうなった原因がどこにあるのか、お上にあるのか、下々である俺のせいなのか、はたまた俺の製造責任者である親にあるのか、さらには別れた彼女にあるのかなんて些細な問題だ。
そう、儘ならないという現実だけが俺を押し潰す。
玄関の横には新聞紙にくるまれあの日以来動かなくなったモニターが置いてある。
その残骸に今日も手を合わせ祈る。
当たれ俺の人生ガチャ。
そりゃ、人生は儘ならないさ。
格好いいことを言って、彼女を送り出したからといって突然名作が書けるようになる訳は無い。
書いて。
書いて。
書いた。
だが、小説を書いていれば売れる?
はん、そんな甘っちょろい世界ではない。
だけど。
それでも。
俺の部屋には彼女の歌声が響いている。
あの時と変わらず。
いや、あの時よりも一層パワーアップしているな。
さすが俺の元彼女。
流れているのは、あの夜、公園で俺のためだけに歌ってくれたあの歌だ。
それが今や毎日のようにラジオから繰り返し聞こえてくる。
「な、当たりのレアカードはまだ入っていただろ」
そしていつものように、新しく買ったモニターの前で座った俺はラジオのボリュームを落とし、パソコンを起動した。