一話 墓川と長月
時は戦国時代。梅雨が明けた文月の候
涼しくも、暖かな風が運ぶ昼下がり――午の刻
肌色の大地と緑が広がる平原を、一頭の馬が吹き抜ける風と共に、地に蹄を叩きつけて駆ける。
「敵襲!」
六尺程ある竹の束で作られた壁から、人の影が現れる。
弓を引く音に続いて、草原を駆ける馬に矢尻が向けられた。狙いを定める馬の毛並みは、太陽の光に反射した艶のある黒を晒す。
弓が揺れ、放つ矢は風を切る。馬の眉間に近付き、弾く音と共に払い除けられる。
「命が欲しいなら早々に立ち去れ!」
怒号は馬の頭上から聞こえた。馬に跨る、紺色の甲冑を着込んだ男の右手には刀より一回り大きな太刀。その刀身は紫紺に染まり、不思議とその太刀の鍔は白い獣の様な体毛が覆う。
再び弓が引かれ、今度は甲冑の男に矢尻が向けられる。男は臆する事無く、更に速度を上げて竹束の壁へと向かった。
黒い馬は鼻息を荒げて、地を蹴りあげる。目の前の竹束の壁を軽々と飛び越え、弓兵の背後へと着地した。太刀が振り下ろされ、悲鳴と鮮血が空を舞う。
「将の首、貰い受ける」
敵はもう一人いた。紺色の兜から驚いた顔を覗かせ、背後から槍の切っ先が光る。
――風を切る音。一本の矢が槍兵の頭を貫いて、ぐらりと前へ倒れこんだ。
「若、一人で先へ先へ行かれては困ります」
男が声のする方へ振り向くと、馬に跨りながら弓を構える武士の姿があった。兜から覗かせる顔つきを見れば、まだ若い。
「雪定。俺がこのような雑兵に遅れを取ると思っているのか?」
雪定と呼ばれた男は手綱を引いて、ゆっくりと甲冑の男の前で立ち止まる。足元には苦悶の表情をした老人の死骸と、頭に矢を貫かれた若者の死骸が転がっている。
「お言葉ですが、そのような軽率な考えでは命を落としかねません。……それに今しがた、敵に背中を見せていませんでしたか?」
もっともな事を述べられ、若は言葉を詰まらせた。
「――ふん」
勢い良く太刀を振り、刀身に付いた血を飛ばす。その紫紺の刀身に血が付いてない事を確認し、腰にさげた鞘に納めた。
「相変わらず固いな。……昔っからそうだお前は」
「若。もう八つや九つの時ではありません。もっと自分が将であることを自覚なさって下さい」
二人は昔馴染みであり、将と兵の立場でもあった。不服な顔を浮かべる宏次の顔に構わず雪定の言葉は続く。
「見てください。我等、墓川の兵は、まだあんな所にいるのですよ」
そう言って雪定と呼ばれた男が指を差す。指先の方向には、蟻の群れがこちらに向かって来る様に見える。遠くに離れた自軍の兵である。
「雪定。もう昼だ、敵の影も無い。ここで休息を取ろう……長月の城まであとどれぐらいだ?」
「このまま順調に進めば、二日後の夜には」
雪定は兜を脱ぐと、まずは深緑の長い髪が現れた。綺麗な顔立ちに、優しそうな瞳をしている。先刻、容赦なく敵の頭に矢を貫いた男とは思えない。
「このまま順調に進めば……か」
順調に進める可能性は低い。なんせ、城から出陣をして二日目を迎えたわけだが、すでにここで三回目の合戦が起きている。戦が始まれば生死のやりとりだ。そして休息が必要となる。現状は順調とはいい難い。
同じように墓川軍の将も兜を脱ぐ。高い背丈のわりに顔つきは若く、二十には届かない幼さが残る。深みのある紺色の長い髪が風に揺れた。
「先の戦にて、宏政様の軍は、長月の奇襲にてやられてしまいましたからね」
墓川の軍は、もう一つあった。墓川の将の父、宏政率いる軍は、二回目の戦にて敗退を余儀なくされた。
「何も考えずに突っ込むからだ。死ななかったから良いものの」
それは若も同じなのでは? と、雪定は思ったが、あえて口に出さなかった。
「若。分かってはいるとは思いますが、長月の城主、白狼とその息子。共に剣術では猛者にございます。努々お忘れなきよう」
「分かっている」
◇◇
――遠くから木の物陰より、墓川の将を見つめる二つの影があった。
「あれが、墓川 宏次という男か?」
戦場で猛将の名を呼ぶ、声の主は女だった。
辺りは太い大木が聳える森。よく育った木の葉は、光を閉ざし辺りを一層暗くさせる。
大木に背中を預けて、腕を組みながら墓川の将の姿を見据えていた。その者の背中には群青色の装束が見えており、大腿の半分を覆い隠している。視線を下げれば、白い肌をした細い太腿と脹脛が顔を覗かせていた。軽装な服は、より身軽に動く為のものと思わせる。腰には小柄な背丈に似合わない、長物の刀が二本 鞘に収まっていた。
「いかにも、我が長月の怨敵。墓川の将だ」
女性の声に応えるは、赤の甲冑を纏う若い男だった。殺気を隠しきれてはおらず、冷淡に呟やいた。兜から覗かせる、鷹の様な鋭い瞳が光る。
「策はこうだ。奴らは道中寝床を探す。……早い話が夜襲をかける」
「……相変わらず、寝首を掻くのが好きなのだな。とらじろう殿」
「とらじろだ、う はいらぬ」
「どちらでも良いだろう、不意打ちはあまり気が乗らんのだが?」
女性の毒舌に、虎白は顔をしかめた。
「その腕を見込んで雇った事に違いは無い。だが、戦には戦ならではの戦い方がある」
「見た所、百人足らず。夜襲を掛けずとも、首はとれるのではないか?」
「貴殿の言う通り、こちらはまだ三百人の兵を温存している。だが、戦に情けは無用。邪魔になる芽は種の内に摘むものだ。戦とは、どれだけこちらの被害を少なく、相手の軍を減らせる策を立てられるかよ」
淡々と虎白は話す。その時、穏やかな風が吹いた。
「――いい風だ。そうは思わぬか、虎白殿?」
「恍惚するのは構わぬが、しくじるなよ」
「私がしくじるものか」
女性の声は笑みと共に、余裕の言葉で嘯いた。
「……分かっているとは思うが、貴殿は墓川軍がどこで休息を取ったかの報告で良い」
「ちょっと待て、話が違うではないか? 墓川軍と戦をする為に、私は呼ばれたのではないのか?」
「貴殿一人で数百人の部隊を殲滅できると? よく考えてはいかがか?」
「我が剣術の前に敵は無い」
女は頼もしい言葉を吐くものの、早く戦果をあげたいという焦りにも見えた。
「案ずるでない、貴殿は俺の切り札の一枚。相応の戦いの場を用意してやる」
虎白は宥める言葉を掛けたが、女は不服そうだった。
「――そうだな。宏次の首が取れそうだと思ったなら、刀は抜いてもいいぞ」
虎白の背後に別の人影が現れる。そっと虎白に耳打ちだけするとその場を離れた。
「ふむ、私はもう一策用意する。ここは任せたぞ……戦鬼姫」
彼女の通り名を言い終えると、背を向けて虎白はこの場を去ろうとする。
「虎白殿、何かお忘れでは?」
その言葉は、虎白の足を止めた。
「……そうであったな」
懐から巾着袋を取り出して女に投げつける。片手でそれを受け取って、重さを確認した。重さは良かった、重ければ重いほど納得できる。しかし重すぎた。気になって袋から取り出して見る。それは平たく、薄く、丸い、真ん中には穴が開いている。木漏れ日の光で色を確認すると、鈍い銀色を映し出していた。
「……銀? 話が違うではないか?」
「残りは宏次の首が取れたら渡そう」
いわゆる手付金。手短な言葉を吐き、虎白は背を向けてこの場を後にする。
女は腑に落ちない様子だが、墓川軍の後を追う事にした。