神様(仮)の窓
「これは、祝福でも加護でもない」
今にも泣き出しそうな男の声でそう言われ、私は目を塞がれたまま首を傾げた。
ゆっくりと私の目を塞いだ手が離れると、細く節立った親指と人差し指をL字に枠を作り、そこから私を映す。
何度か瞬きをして目を慣らしていた私は、まるで星のない夜空に浮かぶ月のような目を、その枠越しに見て――。
***
遠くで鳥の鳴き声が聞こえ、目を覚ます。
胸に抱き込んでいた抱き枕を避け、体を起こせば、ベッドのスプリングと骨の軋む音が響いた。
乱れた髪を撫で付けながら、薄ぼんやりと霧散していきそうな夢を思い返す。
ずっと昔の光景で記憶だった気もするが、年々薄れていくそれに確信は持てない。
更に言えば、繰り返し見る夢となってしまえば文字通り夢か現か分かったものではなかった。
「カヅキ?起きたか?」
コンコンコンと三回ノックされ、ベッドから降り出る。
素足で床を叩き、ドアチェーンを外し鍵を開けて扉を開ければ、五つ上の兄が喜色満面の笑みを浮かべていた。
「おはよう。夢見は良かったか?」
「……御早う。夢見はいつも通り普通」
喉奥を見せるように大きく欠伸をして、半身になって兄を部屋に入れる。
扉を後ろ手で閉めた兄は、そうか、と言いながらも笑みを浮かべたまま頷いた。
兄は日帰り出張らしく既にスーツに身を包んでおり、皺を作らないように机と一緒に置いてあった椅子を引く。
腰を据えた兄は、焦げ茶の瞳に何か言いたげな色を乗せて私を見た。
「もうそろそろ出る時間じゃないの?」
ベッドに腰を下ろして問い掛ける。
するとやっと落ち着いたのか、視線を私に固定して、ああ、と一つ頷いた。
黄色っぽい茶髪を揺らす兄は、部屋の片隅に置いてあるキャリーケースを指し示す。
「カヅキも今日行くのか?」
整った眉を歪めながらの問い掛けに、完全に覚醒し切っていないらしい頭を回す。
「おじいちゃんとおばあちゃんの家なら、今日行くけれど。取り敢えず、一泊して部屋とか家具とか考えるよ」
祖父母が亡くなったのは一ヶ月ほど前の話で、二人で住んでいた家は遺っていた。
と言うよりも、私が祖父母の元へと入り浸ったお陰で、私へと遺してくれた家だ。
家と言っても建物自体は二百坪、庭も含めれば軽く三百坪はいく屋敷なのだが。
庭の手入れも腕の良い庭師を雇っていたらしく、まるで不思議の国のアリスのような薔薇の迷路やトンネルがあった。
ちなみに兄曰く、それは幼少期の私が花が好きと言ったことが原因だとか――花というか、植物は好きだがピンポイントな記憶はない。
「ほ、本当に一人暮らしするのか?」
ぐっ、と身を乗り出す兄に対して、一体何の話をしに来たのか分かってしまう。
それと同時に寝惚け目も開き、眉根が寄る。
「する」
「在宅ワークだろう?!実家暮らしでもいいじゃないかぁぁぁ」
握り拳を作り、ダムダムと机を叩く。
机の上に置いたままの小物が揺れる様を見て「兄さん……」と語気を強めて呼び掛ける。
大袈裟なほど肩を跳ねさせて振り向く兄は、眉間に皺を寄せ、まるで泣くのを我慢している子供のような顔だ。
「家にいるとお父さんお母さんのお客さんも来るし、知らない人も訪ねてくるし、兄さんも煩いから嫌」
所謂、良いお家柄と呼ばれる家で、目の前の兄と兄の一つ上の姉は、家業を継いでいたり継ぐことが決まっている。
末の私は末っ子らしく甘やかされ、じゃあ家業は継がないと首を横に振ったのだ。
その点に関して言えば後悔はなく、ただ家業を継がない状態で家にいれば、両親のお客さんだか仕事仲間だか知らない人達に目を付けられ言い寄られる。
家柄が目当てなのは気にも止めないのだが、如何せんそれを断るのが面倒だ。
最後に、兄が一番面倒で煩い。
おはようからおやすみまで、とでも言えばいいのか、家にいればひっつき虫の如く私の近くにいる。
それを阻止するため、自室に付けた鍵は二つ、ついでにドアチェーンも付けた。
「そんなにお兄ちゃんが嫌いなのか。昔はお兄ちゃん、お兄ちゃんって俺の後をついて来たのに……」
「十何年前の話だし、嫌とは言ったけれど嫌いとは言ってない。妹離れしなよ」
態とらしく鼻を啜る兄に白い目を向け、ナイトテーブルに置いてある時計を確認する。
日付も表示されるデジタル時計は、七時前を表示していた。
そろそろ家を出る時間では、と問えば、ハッとした兄が名残惜しそうな顔をする。
私も用意をして早めに出掛けたい。
車を出そうと提案した両親にも断りを入れてあるので、電車やバスを使って行くことになる。
公共機関を使うのならば、早め早めに行動しておきたいところだ。
だから早く出て行け、と扉を指し示そうとしたところで、タイミング良くノックが響く。
こんこんこんこんこん、五回控えめに。
「花月お嬢様」
「兄さんならいる。入って」
ドアノブが捻られる音がして「失礼致します」頭を下げて入って来る女性。
英国ヴィクトリア朝のメイド服を身にまとっており、纏め上げた髪に清潔そうな白いキャップを被っている。
見慣れた姿に、御早う、と返せば、おはようございます、と流れる水のようにサラリと返ってきた。
「飛鳥様、お車の用意が出来ております」
「あーあー分かった分かってる」
ひらひらと手を振る兄に細めた目を向ける。
「兄さん」
「うぐっ。行く、けど、俺は一人暮らしなんて認めないからな!!」
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます!!」
私が小言を言うよりも先に立ち上がった利口な兄は、扉へ向かい、私に向かって捨て台詞を吐く。
兄が認めずとも、両親共にオーケーサインを出しているのだから関係ない。
見送りの挨拶を口にすれば、若干口元を緩めて部屋を出ていく兄は、昔から割と単純なところがある。
良くも悪くも単純明快なのだ。
そんな兄に向かって、両手の親指と人差し指で小窓を作り、映す。
小窓から覗く兄に、私は雲一つない快晴を見た。
そうして指を下ろし、仕事に向かった兄に合わせ、私も出掛ける用意をしようと腰を上げ、扉の方で立ったままのメイドと目が合う。
茶混じりの黒髪に、同じ色味の瞳で、私と目が合えばゆらりと視線をさ迷わせる。
メイド執事、端的に言って使用人と呼ばれる面々は私の両親に雇われ、大抵が住み込みで家にいた。
その中でもそのメイドは、長く務めており、私が兄にべったりなのを見兼ねては、度々兄に落ち着きを持つよう諭していたはず。
「その、花月お嬢様」
「何?」
「お帰りをお待ちしております」
丁寧に丁寧に下げられた頭に、私は目を丸くした。
今回は一泊だが、早い内に一人暮らしへとシフトするつもりで、その話は両親から他のメイド執事限らず回っていたらしい。
「……ええ。どうせ、月一くらいで帰らないと兄さんが煩いから」
月一とは最高単位であって、最低単位ならば一日一回は顔を出せと言うだろう。
若干遠い目になった私を見て、何を考えているのか分かったらしいメイドは、もう一度、今度は私を労る気持ちが込められた会釈をした。
***
親指と人差し指で枠組みを作り、右手を右下、左手を左上に構えて屋敷を見上げる。
カメラのフレームのような指の作りは、ずっと昔からの癖だ。
生み出した小さな窓から覗く世界は、裸眼で見る世界とは異なっている。
「変なの」
門を背に庭や屋敷を小窓で映す。
ぐるぐると体を回しながら見える世界は、庭でも屋敷でもなく、赤い鳥居がいくつも連なっていたり、光で溢れていたり、闇に包まれていたり、色々だ。
私は窓を持つ。
両手の親指と人差し指をL字にして、カメラのフレームのような小さな窓を作ると、全く違う景色が見えた。
それがどういう理屈で見えるのか、何のためにあるのか、そんなことは知らなかったし、これからも知らないままなんだろうと考える。
ただ、そうする度に夢を思い出す。
夢の中の人物も同じような行為をして、それで私を映し――。
はた、回していた体を止め、窓から見える景色に釘付けになる。
広い庭の一角に夜を見た。
指をそのままにして目を凝らせば、その夜の片隅――枠の外から薄ぼんやりとした金色の光が差している。
私は、その光景を、知っていた。
手を下ろし、駆け出す。
広い庭だがやはり庭師の腕が良いらしく、道は補整されている道路よりも柔らかな芝生で走りやすい。
が、何分、兄曰く在宅ワークな私は運動不足らしく、柔らかな芝生すら上手く踏み締められずにすっ転ぶ。
見事な顔面転びで、芝生が私を受け止めた。
草の匂いが肺いっぱいに広がり、じわじわと染み渡るような痛みが襲う。
「……生きているか」
ハッと目を見開き、顔を上げた。
聞き覚えのある低い声は、今にも笑い出しそうなのを堪えるように震えている。
そんな感情ではないけれど、私はその声を知っていた。
「夜だ」芝生に転がったまま見上げる声の主は、闇を溶かしたような黒髪の男だ。
「月だ」長い前髪の隙間から覗いたのは、輪郭をぼかすような光を放つ金色の目だった。
両手を伸ばして窓を作る。
男の目が見開かれるのと同時に、私は窓を覗き込み、今度は月だけが浮かぶ夜空を見た。
『これは、祝福でも加護でもない』
今にも泣き出しそうな男の声が脳裏に蘇る。
閉じられていた目を開けた私は、窓を作る男を見た。
まるで星のない夜空に浮かぶ月のような目を、その枠越しに見て――見て、私は。
「それならきっと、呪いか呪いね」
自然と動いた口に、月が細くなる。
伸ばされた節立った長い指が、私の使った窓を壊してしまった。