第75話 風使いと「学校」【七不思議編】(5)
天馬空良は、冷たい床の上で倒れていた。
「…………?」
体を起こしながら、ぼうっと考える。いまいち状況が思い出せない。なぜ俺はこんなところにいるんだろう? たしか職員室で、会長が……。
窓の外が赤い。
これは夢か?
――いや。
「て、天川……先生!?」
空良に背を向けて立つ、スーツの男。天川銀河。彼は左腕から流血していた。ぽたぽたとしたたる彼の血。赤い血。
「ようやくお目覚めか、眠り姫」
「ひ、姫って――」
よろめきながら壁に手を添え、空良はやっとの思いで立ち上がる。空良をかばうようにして立つ天川の、その向こうには……
「い、『挑む犬』……!」
牙を剥く野犬。吊り上がった眼は異様な光を放っている。力強い四肢で床をとらえ、今にも飛びかかってきそうな体勢だ。――天川の腕は、あの牙や爪で切り裂かれたらしい。
「下がっていろ」
それでも平然として天川は言う。犬が突進してくる。半身に身を引いて、天川はカウンター気味の蹴りをお見舞いする。ぎゃん、と鈍い悲鳴をあげ、『挑む犬』は床に転がり、突進の勢いのまま廊下を滑る。
が、すぐに起き上がり、またしても臨戦態勢に入った。
「……我ながら、しつこいな」
あの『挑む犬』は、天川銀河であって天川銀河ではない――。
そのことについて、空良はすでに説明を受けていた。他でもない、天川から。
この閉鎖空間――閉ざされてしまった学舎は、生徒会長の那名崎がつくりだした『不思議』。その中で、かつて対決した『七不思議たち』がよみがえっている――正確には、『複製されてよみがえっている』。
つまり、本物ではない。
だが、まるっきり偽物でもない。
本物同様の力を持ち、もはや自重することもないこの空間の中で、暴れ回っている。張本人である那名崎にも制御できていないようだ。
そして。
この『本物に近い偽物』は――
「どうやら、私に成り代わろうとしているらしいな」
天川がつぶやく。
「な、成り代わるって……」
「私を殺してしまえば、彼こそが『本物』になってしまえる、というわけだろう。概念的にな」
低いうなり声を上げる『犬』を、冷然としたまなざして見つめながら、天川は淡々とそう言った。
「殺すって――」
「那名崎の思考も、そう単純だと楽だったのだがな。どうにもこじれてしまっているらしい。……それも、仕方のないことではある。彼には、成り代わるべき『本物』すら存在しないのだからな」
「…………」
天川は無造作にたたずみながらも、『挑む犬』への警戒は解かずに話しつづける。
「いま、この学校ではあちこちで同じ事が起こっている」
「同じ事?」
「『七不思議』の復活だ」
「復活――」
思わず窓の外を見る。
ここは教室棟の三階だった。
「…………」
見える限りでは異変はない。もちろん、この閉鎖空間自体が充分に異変ではあるが――それでも、空良にはそれ以上のなにかは感じられない。
だが、天川は違うようだった。
そもそもが『七不思議』そのものである彼は言う。
「どうやら……我々の旗色は悪いようだ」
■ ■ ■
天川の言葉通りであった。
ここ嵐谷高校は今、『異常』のるつぼと化していた。さながら、百鬼夜行のていだ。
まず、中庭。
噴水の一部として設置されていた彫像が、地に立ち、少女たちを見下ろしている。
少女たち――
神宮院玲奈と、佐々川千花だ。
しかし相手は、彼女たちの知る『石像』とは違う。
あの、『えり』のように、無表情だがどこかユニークな怪異ではない。
体も一回り大きく、なによりその表情は、憎悪にひどく歪んでいる。
あまりの形相に、額はひび割れ、その破片がぱらぱらと崩れ落ちていた。
そして、右手には長大な、三つ叉の矛。
尖端はするどく、装飾は禍々しい。
二人の少女をその生け贄にしようと、石像はその矛を構える。
神宮院と佐々川は、互いをかばうようにしながらその石像と対峙している。一歩、石像がにじり寄ると、二人は一歩さがる。
飛びかかる石像。すばやい。その鈍重そうな巨体には似つかわしくない速度で、刺突をくりだす。横っ飛びにかわす二人。勢い余った石像の一撃は、そばにあったベンチを突き崩す。巨体の質量と、矛のするどさ。……人間など、その一撃を食らえばひとたまりもないだろう。
二人は肩をふるわせながら、距離を取る。背中を見せて逃げだそうものなら、きっと、ひと突きにされてしまう――
+ + +
音楽室。
美山陽と、蕨野雪絵が驚愕の顔で見つめる先には、モーツァルトの亡霊が立っていた。
古めかしい中世の衣装。
首から上も、音楽室の壁に飾ってあるのと同じ、天才音楽家そのものだった。
その音楽室の亡霊が右手を振りあげると、机や椅子が、総数四十にも及ぶ木と金属のかたまりが、教室内を暴風のように吹き荒れる。
とっさに蕨野を押し倒すようにして、彼女に覆いかぶさる美山――――
+ + +
化学室からは、小さな何かが、わらわらとあふれ出ていた。
こびと。
男子生徒のかたちをした、かつて嵐谷高校の制服であって詰め襟姿で、奇声をあげながら窓から次々と飛び出している。
その異変にいち早く気づき、廊下を駆けているのは、風見を探し回っていた国府村凜だ。
彼女の対処が遅れれば、校内はあの下劣なこびとで埋め尽くされる――――
■ ■ ■
「そんな……でも」
天川に説明されても、空良には理解しきれない。
――もちろん、これが異常事態だということは分かっている。
だが、どうすればいいのか。
こんな非常識に、不思議に、どう立ち向かえというのか。
自分たちは、ただの高校生だいうのに……。
「――――」
――『ただの高校生』。
空良は一瞬、あの先輩の顔を思い浮かべたが、すぐに短く首を振り、
「それより、早く手当を。あいつを振り切って」
天川の負傷を慮る。
彼の傷は想像以上に深いようで、出血は止まらず、スーツの袖と、廊下の床をおおいに赤く染めていた。
おそらく、昏倒していた空良をかばってのものだろう。この隙のない生徒会顧問――本物の『挑む犬』――は、偽物ごときに遅れなどとらないはずだ。
彼はつぶやく。
「治療か。そうしたいのは山々だが――」
天川は自身の右腕を持ち上げ、その傷口を見て、それから視線を窓の外に向ける。その視線が向かうのは――管理棟の一階。保健室のあるあたりだ。
「あそこには……ふむ、しばらく近づかないほうがよさそうだな」
言って、天川は腕をべろりと舐める。傷口を。自分の血を。
その様子に空良はややたじろぐが、廊下の先で身構える『挑む犬』も、なにか気配を察していっそう警戒の色を強めた。
天川は言う。
「ひとつずつ、潰していくしかなさそうだ。偽物だからと油断するなよ、天馬空良。あれは私だ――挑むことで、おのれより格上を相手取ることで、成長する怪異だ。私とのやり取りで、すでにその片鱗を見せている」
「じゃ、じゃあ」
「だが――」
そこで天川は初めて――
これまで空良も見たことのないような、凄惨で攻撃的な表情を浮かべ、無表情な仮面の下に隠していた、鋭い牙を見せた。
「誰を相手にしているのかは、教えてやらんといかん。調教の時間だ」
総毛立つような殺気とともに、スーツの男はうなり声をあげて突進を開始した。
(第75話 風使いと「学校」【七不思議編】(5)終わり)




