第64話 風使いと「流血」(2)
お義父さん――
もとい、天馬のお父さんは無言のままソファに腰をおろした。
さっきまで僕の視界には、キッチンにおわす女神様の姿が映っていたし、それは今でも変わらないのだけれども――その手前に、天馬父の、異様な威圧感のある横顔が割って入ったのだ。
ダンディ。
やや痩せ型で、鼻は高い。手にしていたぶ厚い本に視線を落とし……なおも無言。
お邪魔してます、と挨拶をした僕を一瞥して、軽く頭を下げてくれたけれど、それだけだ……。
「なあ、空良――」
僕は小声で、となりの後輩に語りかける。
「…………」
無視された。
まじか、こいつ僕を孤立させるつもりか? さっきまでの仕返しなのか?
気づいてみると、僕はL字ソファの、その角の辺りに座っているため逃げ場がない。退路をふさがれている。「用事を思い出しました」とか言って帰ろうにも、左側は空良がブロックしているし、まさか天馬父の前を横切るわけにもいくまい。
詰んだ。
「な、なあってば空良……空良くん……」
すがるような声で言うと、空良はにがい表情を浮かべて、それからなんだか居心地の悪そうな顔になる。
(先輩に悪いかな……)
というような顔だ。
空良は基本的に、とってもチョロ――優しいナイスガイなので、泣き落としには弱いのだ。
「お父さん、お怒りなのか?」
「……父は、母のことが大好きなんです」
今ばかりは僕は、『ママ』とか言って茶化すことはしない。いっときの悦楽より、やっぱり命のほうが大事なのだ。
さくせんコマンド:いのちだいじに
状態の僕。
「もう見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにラブラブなんで」
「そ、そんなキャラ?」
横目で見ても、厳格そうで、『会社では財務を取り仕切ってます』みたいな雰囲気だ。
「……前に、家族旅行で母が若い男にナンパされたことがあるんですけど、父はその男を――」
「男を?」
「殺しました」
「ころ!?」
「社会的に」
「――――――っ!」
はい詰んだ。
終わり。
僕の物語はこれにて終了~。
あれだよ?
僕、まだ社会にも出てない高校生ですよ?
なのに殺されちゃうわけ?
社会的に?
「ま、風見先輩なら大丈夫じゃないっすかね。もう死んでるようなもんですし」
「…………社会的に?」
「はい、社会的に」
あーそうか、なら大丈夫か……
とはならない。
僕は調子に乗る後輩への怒りをぐっと抑えつつ、
「いやホントに喋らないんだけど? 僕にガチギレしてるわけ?」
「してるかもしれませんが――まあ、喋らないのはいつものことです。寡黙な人なんで。最後に父の声を聞いたのは……オレが高校に合格したときですかね」
「何ヶ月前だよ」
するとお義母さん――じゃなくて、天馬さんのお母様がいらっしゃって、
「はいどうぞ、爽介くん」
と、僕の前に紅茶とパウンドケーキを並べてくれた。
ちなみに、『爽介くん』の部分で、天馬父の耳がぴくりと動いたのを僕は確かに見ていた。
やばい。
マジでBANする5秒前。
の予感。
「……いや、ラブラブなくせに会話もしないのか、お父さんは」
「あれ? 先輩、『お義父さん』って呼ばなくていいんですか?」
勝ち誇ったようにほくそ笑む空良。
くそ、こいつ――
「な、なんのことかな? 天馬さんのお父さんとお母さんを、そんなふうに呼ぶわけがないじゃあないか。あはははは……」
「ですよね。今後一切、『お義母さん』とか呼びませんよね?」
「…………くっ。まあ、そうだよ。呼ばないよ……」
まさかこの僕が敗北を喫するとは。
空良、あなどれんヤツ。
と、天馬母が、
「あらあなた、さっき食べたじゃありませんか? え、また食べたいんですか? もう……本当に食いしんぼうなんですから」
言いつつも嬉しそうに笑って、ぱたぱたとキッチンに戻る。夫に手作りケーキを食べてもらってテンションが上がるとか……神か。やっぱり女神かこの人は。
しかしおかしい。
そう、天馬父はひと言も発してないのに――。
わけが分からない、という疑問を浮かべて空良を見ると、
「――なぜか、母だけは分かるらしいんですよね、父の思ってることが。愛の力だとか言ってましたけど、深くは追求してません。なんか、色んな意味で聞きたくないですし」
「まあ、両親のノロケってきついよな……」
そうして、四人そろってのティータイム。
ケーキはとっても美味しいはずなのに、胃が痛い僕は、まるでそのままスポンジを口に入れているような気分だった。
「――まあ、そんなに褒めたって何も出ませんよ」
はにかむ天馬母。
どうやら、隣でむっつりと黙っている天馬父が、彼女のケーキを褒め称えたらしい。無言で。表情ひとつ変えずに。視線も向けずに。
こええよ。ホラーだよ。
「空良……いつもこんな感じなのか?」
「そうですね、だいたい」
「…………」
人様の家には、そこなりの慣習とか、空気とか、ルールがある。
頭では分かっているつもりだったけど、こうして目の当たりにするとしんどいものがある。
ああ、我が家って普通に平穏だったんだなぁ……とか、しみじみとする。
――いや、そんなことないか。
絶対ないな。
ないない。
あぶねえ、雰囲気に流されるとこだった。うちはうちで異常なんだった。だって、テレビでボクシングの世界戦を観ながら――
「遅っ。私なら今のあいだに三発はぶち込んでるわね」
「もう美鳥、はしたないわよ。……決めるときは一発で決めないと」
とか、姉と母が本気で語り合っているリビングが普通であってたまるか。そこから『いかに効率的に人体を破壊するか』に話を広げる看護師の母を、僕は普通だと認めたくない。こわい。そして僕で試さないでお姉さま。ごめんなさいやめてください人間には肝臓が必要です――
「風見先輩? 顔色悪いっすよ――」
「ああごめん。ちょっと思い出し謝罪してた」
「なんすかそれ」
……どっちかって言うと、『思い出し命乞い』だけれども。
どこの家庭にも少なからず問題はある――
そういう話だった。
■ ■ ■
「ねえ爽介くん」
優雅なしぐさでティーカップを傾けてから天馬母は、そう語りかけてきた。
「もし良かったらだけど、お夕飯食べていかない? おうちの方には私からも話してあげるから」
「え、あ……」
「そのうち美津姫も帰ってくるだろうし。そうしましょう? ねえあなた」
「……………………」
重く、不自然な沈黙。
どうやら今は、『お父さまがお気持ちを述べられているタイム』なのだろう。僕はそう理解した。
で。
「大丈夫よ、食材なら多めに買ってあるし。……ええ、ダイニングチェアもどうにかなります。……時間も早いし、風見さんのお宅がまだ準備してなければ問題ないんじゃないかしら? 聞いてみましょうか? ……え、そうですか?」
――あかん。
抵抗してらっしゃるよね、天馬父? 絶対、僕を帰そうと必死でいらっしゃいますよね?
……表情は変わりませんが。
いやまあ、僕も帰りたいんだけど、下手に口を開くと怒りを倍増させそうな、そんな雰囲気もある。僕には読心術なんてないけれど、天馬父の発する不穏な空気くらいは感じている。ばっちりと。
「えっと、母さん――」
優しい僕の後輩は、援護射撃を買って出てくれた。
「さっき話してたんだけどさ、風見先輩のところ今夜は外食の予定らしいんだよ」
「あらそうなの? それじゃあ無理に引き留めても悪いわね」
ナイス!
さすがは空良!
僕の後輩!
すぐれた弟くん!
「じゃああなた、爽介くんを送っていってあげて?」
「え」
え、という声は僕が発したものだけれど、天馬父も同じ気持ちだったらしい。今度はその横顔に、はっきりと動揺が見て取れた。
「だって、今から自転車で帰ってたら遅くなるかもしれないでしょ? お車で送ってあげて?」
そんな女神の笑顔で言われては、天馬父は何も言い返せない――いやだから、声はずっと出してないんだけども。
僕は空良のほうを振り向くが、
「……先輩、グッドラック」
微妙な笑顔で突き放されてしまった。
そうして僕は、ドナドナよろしく、天馬父の高級ワンボックスカーで連行されていった。
愛する母と姉の待つ、あの家へと……。
■ ■ ■
翌、月曜日。
廊下で天馬に会った。
後輩でもなく、女神でもなく、眼力だけで男子高校生を殺せる大魔神でもなく――天使であり、僕の癒やしでもある天馬美津姫だ。
「もう、爽介くんってタイミング悪いよね」
休み時間の廊下で二人、立ち話。
「来るなら来るで、連絡してくれればいいのに」
「いや……まさか天馬のお母さんだとは思わなくってさ」
「家に上がるときに、連絡くれればよかったんだよ。すぐに帰ったのに」
とか言いながら、天馬は可愛らしく拗ねる。
うん……
ちょっとむくれるそのほっぺた!
きゃわいい!
つんつんしたい!
「ちょっと、聞いてる?」
「ああ、うん。聞いてる聞いてる。天馬が毎晩、僕からの連絡を待って眠れないって話だろ?」
「ちがうし。……でもそれ、その通りだって言ったら連絡くれるの?」
じっと見つめられて僕は、
「もち! 毎晩、僕のサービスショット自撮りを送りつけてやるよ!」
「……………………」
天馬はしばらく考え込んだ。
なにやら葛藤しているようだ。
「――対価は、求められますか?」
「それも当然! 天馬の黒ストッキング画像を所望する!」
「…………もう」
頭が痛そうに、こめかみをさするのは弟と共通のくせなのだろう。深くため息をついてから天馬は、
「お母さん、爽介くんのこと気に入ったみたい」
「え、まじで!? ひゃっほい!」
「ちょっと待って、バク宙してガッツポーズきめないで! なんでそこまで喜ぶの? 私としてはすごく微妙なんだけど!?」
さらに床へと転がり、ひとしきり悶えてから僕は立ちあがった。
「ん、天馬、なんで今スマホ?」
「…………録画」
「僕を? なんで?」
「…………送信」
「誰に?」
「…………お父さんに」
「!!!!」
しまった!
僕もうあの家に行けねぇ!
天馬はぐっと顔を寄せて、上目づかいに睨んでくる。
「すぐ調子に乗るから悪いんだよ」
「ご、ごめん」
しかし、天馬になら叱られても悪い気分はしない。むしろずっと叱られてたい。蔑まれてたい。にがい表情を浮かべられながら、見つめられたり、見つめ返したりしたい。
「…………今、変なコト考えてるでしょ?」
「天馬も僕の心を!? そうか、愛の力か!」
「顔に出すぎなの、爽介くんは」
眉をしかめて、鋭いまなざしで僕を射貫く。
けれど僕はその様子に、思わず吹き出してしまった。
「な、なに? 急にどうしたの? 頭おかしくなったの? いつも以上に? そしたらもうお手上げだよ?」
「ひでぇな天馬。……いや、なんでもないよ」
言って、僕はまた苦笑する。
母親ゆずりの美貌と、やわらかな空気。それからときに、父親にも負けない威圧感。
昨日の家庭訪問は僕にとってはイレギュラーで、しんどいものではあったけど――でも、楽しかった。天馬を構成している要素をまたひとつ垣間見たようで、なんだか嬉しかった。
「――これからもよろしくな、天馬」
「どうしたの、あらたまっちゃって。……うんまあ、よろしく」
釈然としない様子でうなずいてから、天馬は次の授業へと向かう。
C組の彼女は特別棟へ。
僕は教室へと戻る。
去り際、彼女は、
「次、来るときにはちゃんと連絡してきてね」
「ん……まあ努力する」
もう、と呆れてみせてから、天馬は言った。
「そうじゃないと準備できないでしょ。お部屋の掃除しなきゃだし」
「部屋?」
「そう――」
天馬はいたずらっぽく笑って、
「綺麗にしとかないと……私のお部屋♡」
と。
そのまま唖然とする僕を置いて、彼女は廊下の角に消えていった。
みごとなノックダウン。
僕はきっと、ずっと彼女には敵わない。
そう確信した月曜日。
……ちなみに、さまざまな妄想が駆けめぐった僕は鼻から大量出血し、クラスメイトたちの手によって保健室に運ばれましたとさ。
(第64話 風使いと「流血」(2)終わり)
(「流血」編 了)




