第63話 風使いと「流血」(1)
あれあれー? おかしいぞー?
ここ半年くらいの記憶がないぞー?
――とか、某少年探偵ふうの口調で僕はつぶやいてみた。
胸の中で。
そして。
これは、半年間ほったらかしにされた僕へのお詫びか、ご褒美なのか、はたまた、語り部という重大な役目を果たさずにいたことへの厳罰なのか――
どういう理由なのかは分からない。
分からないけれど、僕は尋常じゃないシチュエーションに置かれていた。
「はいどうぞ、爽介くん」
美人の奥さまが、僕の前に紅茶を差し出してくれる。
十一月某日。
今日は日曜日で、ここはリビング。
ごくごく平和な家庭の風景である。
――――ただし、天馬家の。
■ ■ ■
その日の僕は、我が愛馬(と書いてママチャリと読む)を駆り、隣町まで陸上のスパイクを下見に行っていた。そろそろ新しいのが欲しかったのだ。とはいえ軍資金が足りないので、今日はまだ見るだけ。
で、その帰り道に、僕の運命を変えるかもしれない出会いがあった。
前を歩く黒髪の女性が、そのバッグからハンカチーフをはらりと落としたのだ。
やわらかな色をしたそれがアスファルトに落ちる直前、僕は風を起こして手元に引き寄せた。
自転車を降りて近づき、
「落としましたよ、そこの素敵なお姫様」
えっ、私? という感じで戸惑いながら振り返ったその人は、後ろ姿で想像する以上の、極上の美人さんだった。
黒くて長い髪。落ち着いた、品のある顔立ち。はっと息を呑むような美形ではないけれど――こう、ずっと見ていたくなるような、不思議な魅力のある女性だった。
その彼女は、僕からハンカチーフを受け取り、微笑んだ。
「――ありがとう、やさしい王子様。ふふっ」
…………控えめに言って女神だった。
いやいや! なにこの可愛い人!?
年上はそこまで好みではないのだけれど、僕のストライクゾーンは360度・球状に広がっており、銀河系をカバーするくらいには広大なので、ぶっちゃけ超『アリ』だった。
そんでまあ、こんな可愛い生物をただで帰す僕ではない。
というか、どこに変なナンパ野郎がひそんでいるか分からないこの巷で、女神がふらふらと無防備に歩き回っているのは危険極まりない。
根が『ナイト気質』な僕は、彼女の護衛を買って出たのだ。
「……じゃあ、お願いしようかしら」
はにかみながらそう言われて有頂天の僕。
買い物帰りだという彼女の荷物を前カゴに乗せて、二人して歩く。
聞くと、これでも三児の母というから驚きだ。
二十代の新妻だと言われても信じてしまいそうな、けれど、それでいてやっぱり大人の色香を兼ね備えている彼女であった。
なんという僥倖。
すばらしい秋の日。
これも日頃の行いのたまものだろう――とか思いながら、川を渡り、ホームセンターの角を折れ、住宅街の坂をのぼっていく。
「ん――――?」
僕は首をかしげた。
同級生の家に向かう道とよく似ている。
いや似ているっていうか――
「まさか本当に送ってもらえるなんて。でも助かったわ。そうだ、よかったらお茶でも飲んでいってちょうだい、風見くん……ううん、爽介くん?」
僕はまだ風見としか名乗っていない。
そして、笑顔で言う彼女の背後に建つのは、ごくごく普通の民家。
ただし表札には『天馬』の文字――。
「こ、ここは……っていうか、あなたは!」
「美津姫いつもがお世話になっています」
おしとやかにおじぎをするこの人は――!
「お、お義母さん…………!!!?」
とか、どさくさ紛れに叫ぶ僕だった。
■ ■ ■
せっかくなので僕はお呼ばれすることにした。
妃愛乃さん――麗しきお義母さんの美しき本名だ――は、娘から僕の話をよく聞いていたらしく、『風見』と名乗られてピンと来たのだという。
しかし言われてみれば天馬に似ている。当たり前っちゃあ当たり前なんだけど……そうか、天馬は年を重ねると、こんなしっとりした美人になるのか……。
やばい!
僕の将来設計がさらに明るいものに!
もちろん彼女は今でも世界一の美少女だけれども、この、玄関のドアを開け、僕を案内してくれる超絶美人は、天界人みたいな神々しさすら放っているのだ。
まじやばい。
天馬の血筋、おそるべし。
「美津姫はお友達と出かけてて。こんなおばさんがお相手でごめんなさいね」
「とんでもない! 妃愛乃さんと――お義母さんとご一緒できるだなんて、僕のような下民にはこのうえない幸せです! もうこの先の人生で大吉も宝くじも当たらなくていいです! ……幸福なんて、ここで使い果たしてもかまいません!」
「あらあら」
口元を隠して笑う仕草も神がかっている。
……おい見たか、我が家の大魔王と魔王よ。
すげえぞ天馬家。
もうあんたら滅ぼされていいぞ。
こっちは神だわ。女神の軍勢だわ。
ちなみに僕は以前、天馬を家の近くまで送ってきたことがあるので大体の位置は知っていたけれど――家に上がらせてもらうのは初めてである。
……しまった、こんなことなら新品の靴下を履いてくるんだった。
「あ、空良は帰ってるみたい」
ちっ。
ふざけんなあいつ。義理の弟なら気を利かせろよ。帰れ、僕とお義母さんの時間を邪魔すんな。
「空良も、委員会のお仕事でお世話になってるのよね」
「いえいえ、出来たお子さまで。僕のほうこそお世話になってますよ、ははは」
秘技、『社交辞令』である。
「空良――」
お義母さんは二階に向かって声をかける。
僕だって、いつもあんな声で呼ばれたいものだ。……まあ、母さんに呼ばれるのはともかく、姉の場合は壁かドアを蹴って僕を召喚しようとしやがるんだ。声かけろ、声。
ややあって、私服姿の空良が階段を降りてきて、
「なんだよママ、――――っ!!!!?」
僕を見るなり凍りついた。
「風見くん、いらしたわよ。じゃあ私、荷物置いてお茶の準備してくるから、空良はお客さまのお相手をお願いね」
お義母さんが奥に行ったあと、まだ階段で硬直する空良に、僕は手のひらでちょいちょいと合図する。
「降りておいで、我が弟よ」
「…………、あ、あのですね、風見先輩……。さっきのはですね、ま、マーマレードジャム買ってきてくれた? って聞こうとしてですね……」
「あーうん、分かってる分かってる。おいでブラザー」
この世の終わりみたいな足取りでやって来た後輩の肩を、僕はがしっと抱いて、
「いや分かるよ少年。あんな美しい人を『おふくろ』とか、『母さん』とか呼べないよなぁ」
「だ、だから――」
「安心しろよ空良……僕が、そんなことを皆に言いふらすような男に見えるか?」
見える、という顔で僕をにらんでくる空良。
このやろう。ホントにSNSでばらまくぞ。
……いや。
こいつが女子に人気あるのは『格好良さ』っていうより『可愛らしさ』だからな。空良くん可愛い! とか、逆効果にもなりかねない。
しかし、切り札というのは最後まで使わないから切り札なのだ。この調子で脅していこう。
空良は僕をリビングに案内してくれた。すごく嫌そうに。
L字型のソファに、ローテーブル、テレビ。
構成要素はうちのリビングと似たり寄ったりなのに、こうも見栄えが違うのはなんなのだろうか。ほのかな香りもエクセレント。
はぁ……。
我が家のリビングが、姉さんのむさぼり食ったスナック菓子とか、イカゲソのなんとも言えない臭いで満たされているのを思い出すと、ちょっと切なくなる。あの人、早く一人暮らししてくれないかなぁ……。
「――どうぞ、てきとーに座ってください」
「あれ、客をそんなぞんざいに? いいのかな、怒られるぞぉ……マ・マ・に☆」
「ああっ、ホントに死ねばいいのに……!」
心からの叫びを笑ってスルーして、僕はソファに腰かけさせてもらう。
そうこうしていると、リビングとひと続きになったダイニングのドアが開いて、
「どうしたの空良? そんなに騒いじゃって」
女神が現れた。
上着を脱ぎ、髪を後ろで束ねたお義母さん。
あ、いいです。
僕、もうこの家の子でいいです。永住権をください。
「くそ……天罰が下ればいいのに」
歯噛みして悔しがる空良くん(たぶん家の中ではとっても良い子)は、仕方なくといった具合で僕の横に座った。
「爽介くんは甘い物とか大丈夫? ちょうど、朝に焼いたパウンドケーキがあるんだけど」
ダイニングのほうから、素敵な声がそんな至福の言葉を投げかけてくるので、
「もちのろんです! 甘い物、辛い物、にがい物や焦げた物でも! お義母さんの手作りならば絶対口に合います! もう全部です! 全部食べちゃいたい!!」
「…………いやまじで脳天割れろ……」
呪詛を吐く空良。
「おいおいどうしたんだよ空良くん。元気がないねぇ」
「……っていうか、いいんですか風見先輩?」
「ん、なにが?」
「だから、勝手に家にあがって、そんなにはしゃいで」
「勝手にって、お義母さんが誘ってくださったんだぜ、将来の義理の息子のことを」
頭痛でもするのだろう、空良はこめかみの辺りをさすって首を振る。
「――その『お義母さん』っての、やめてくれません?」
「およ、気づいちゃった?」
「ええ。文字にしなくっても、先輩のニュアンスは分かりやすいんですよ。いやらしい……」
「さすが義弟くん」
「姉さんと母さんのことは、ぜっっったい、オレが守りますから……!」
「ママのことを、だろ?」
愉快愉快。
この生意気な後輩くんも、これで少しは大人しくなることだろう。こいつ、校内で僕と天馬の姿を見るたび邪魔してくるからなぁ。
しかし、さっき空良はちょっと気になることを口にしてなかったか?
勝手に――
って、僕はお義母さんと一緒に帰宅したのだから、許可を得ていることはひと目で分かるだろうに。
「……………………」
そして、日曜日の僕はあることに考え至った。
「あの、空良くん……今日、お父さまは……?」
すると空良は、にやっと昏い笑みをもらして、
「ご在宅ですよ――――隣の部屋に」
ちょうどそのとき。
ダイニングとは別方向のドアが『すらっ』と開いて…………天馬父が、ご光臨……なされました。
空良くんは言いました。
「パ……、父さんは地獄耳ですから。玄関の外の声だって聞こえるくらいに、ね」
(第63話 風使いと「流血」(1)終わり)




