第59話 風使いと「マッチ」(5)【七不思議編】
「え、風見先輩と国府村ですか? 見てませんけど――」
「そうか。いやわかった。邪魔をしたな」
夕暮れの校庭。
部活中の空良を呼び止めた土岐司だったが、彼からの返答は予想どおりのものだった。砂埃にまみれてサッカーの練習に励む空良が、風見と国府村のゆくえを知っているはずもない。
訝しがる空良に謝辞を述べて、土岐司は生徒会室へと向かった。
会長の那名崎から、「国府村書記に危険が迫っている」と呼び出しがあったのが1時間前。学校の周辺を探し、さらに校内に捜査の範囲を縮めたものの、収穫はなかった。
「……まったく、こういうときに限って風見は」
などと悪態をつきながら廊下を歩く。普段は嫌でも(本当に嫌でも)視界に入ってくる風見のことをこうして探し回るというのは、どこか釈然としないものがあった。
――ちょうどこのとき、当の風見はといえば、駅前の広場でポルターガイストと対決していた。道行く婦女子の衣服をはぎ取る、ハレンチな怪奇現象を相手に怒りをみなぎらせていたのだ。
だが、人気のない廊下でため息をつく土岐司が、そのようなことを知るはずもない。
(しかし、これも会長の指示だからな)
と、気を取り直すのだった。
那名崎の命令は、仮に理不尽なものであっても絶対だ。そこに不快感はない。むしろ喜びすら感じる――こうした考え方は、土岐司だけでなく生徒会役員に共通するものである。
そもそも思慮深い那名崎は、無駄な指示など出さない。急に招集をかけたからには、それなりの事態だと思っていい。そう、緊急の――。
土岐司は、ふと廊下で足を止めた。
スマートフォンの着信履歴を見る。1時間前にあった、見知らぬ番号からの着信だ。土岐司の胸にあったのは、
(そういえば、なぜ会長は僕の電話番号を?)
という、ささいな疑問だった。だが、あの那名崎会長のことだ。生徒の、しかも近しい者の情報など、いずれかのルートで入手済だったのだろう――そう結論づけ、生徒会室の扉を開いた。
「失礼します――――っ」
土岐司は息を呑んだ。
生徒会室は、傾いた陽光が窓から差し込み、床が半分ほど赤く染まっていた。ちょうど部屋の中央に、光と影の境界線が存在しているようだった。
まっすぐに、そして鋭利に――彼方と此方を切り分けている。
窓際に那名崎が立っていた。いつものように、紅茶のカップを手に、窓から外を見下ろしていたのだろう。彼は土岐司に気づいて振り返ったのだが、その眼が――
「どうかしたかな、土岐司副会長」
いつもと変わらぬ落ち着いた声。
しかし、那名崎の瞳は虹色に輝いていた。
振り向く那名崎の背中を夕陽が照らす。表情は影になっていて、よく見えない。だがその瞳だけが光っているのだ。昆虫めいた、感情のないふたつの光。
「国府村書記は見つかったかな?」
「え――は、いえ」
気のせいだったのだろう。土岐司が口ごもりながら返事をしたそのときには、眼鏡の奥のその眼には、もう奇妙な光は見当たらなかった。
「……学校の周辺では、見当たりません」
「そうか。平書記や神宮院副会長にも連絡をつけたから、彼女たちに賭けるしかないかな」
那名崎がこちらに一歩、歩み寄る。びくりと、土岐司は肩を震わせた。なぜかはわからない。
「……ぼ、僕ももう少し探してみます」
「そうかい? 悪いね。なにかあったらすぐに連絡を入れるよ」
穏やかな彼の言葉には、皮肉が込められているだとか、相手を威圧するだとか、そういったものはまったくない。――だというのに、土岐司は、背中を嫌な汗が伝うのを感じた。
一礼して、生徒会室を辞した。
(……………………)
玄関へと向かう途中も、その不穏な気持ちが消えることはなかった。
(あれは誰だ?)
恐怖にも似た感情が胸に広がった。思えば自分は、那名崎のことをどれだけ知っているだろうか。どのような信念で会長職をつとめているのだろうか? 将来の進路は? プライベートは?
……紅茶が好きだ、ということくらいはわかるのだが。
生徒会役員になってからこっち、彼のもとで働いてきた。
たとえば、嵐谷高校の生徒が抱える課題を調査し、分析した結果をレポートにしたため、職員室に届けた。またあるときは、各委員会を横断的にまとめ、校内環境の整備につとめた。
……だが、誰も、生徒会役員のことを認めようとはしない。
むしろ存在すら知らない生徒も多い。表のない黒幕と自虐する彼らのことを、教師すら忘れがちだ。
(……『知らない』? そんなことが――)
果たしてあり得るだろうか。仮にも、全校生徒の投票で選ばれた役員たちである。他の委員会ならまだしも、生徒会役員のことを、生徒がそして教師が――知らない?
いまさら何を考えているのか。会長は会長だし、生徒会は生徒会だ。土岐司は立ち止まって首を振った。考えても仕方のないことだ。
(いやだが、待てよ――)
土岐司は額に手をあて、眉をしかめる。そうだ。生徒会のことを考えようとすると、いつも『こう』ならないか? いろいろと疑問を持って、考えて……その結果、「まあいいや」と、曖昧に結論づけていないだろうか。
考えろ。
そもそも、なぜ僕は副会長に立候補した? なにがしたかった? 会長は? 選挙のとき、なんと言っていたか……。
那名崎は、何年何組だったか――? 先輩なのだから、三年生だろう。しかし授業を受ける姿を、見たことがあったか? 校外で彼を見かけたことは? 彼の家は?
(――――)
誰もいない廊下で、土岐司は愕然とした。わからないのだ。なにひとつわからない。
――ひたり、と誰かの足音が聞こえた。
背後だ。その人物は、すぐそばに立っている。振り向けない。だが、いる。土岐司は、はっきりと認識した。
ふたつの眼で僕のことを見ている。獲物を捕食する昆虫のような、感情のない、底の知れない眼が、見ている。
脂汗をにじませた顔で、土岐司は振り向いた。いや、振り向こうとした。そこから先の記憶は――彼にはない。
(第59話 風使いと「マッチ」(5)【七不思議編】終わり)